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散歩姫の婚約破棄

作者: かになべ
掲載日:2026/09/26

 王国にまだ戦火が立ち上り、人々が生き延びることだけを考えていた頃。

 今は亡き先王は、こう言ったという。

「辺境は盾である。」


 北には山脈。その向こうには大国エルディアがある。

 今でこそ国境では人が行き来し、両国の商人が酒を酌み交わすほど穏やかだが、かつては幾度となく軍勢が雪山を越えてきた。

 そのたびに、この国を守ってきたのは北の辺境伯家だった。

 先王は、その価値を誰より知っていた。

 だから王家と辺境伯家を血で結ぶことを決めた。

 第2王子タルクィンを、辺境伯家の長女エレノアの婿とする。

 それが婚約の始まりだった。

 だが戦が終わって70年。先王が世を去って10年。

 戦を知る者は減り、王都の価値観はすっかり変わっていた。

 剣より舞踏を。

 武勲より社交を。

 辺境は「国境を守る盾」ではなく、「田舎の無骨な領地」と侮られるようになっていた。


 ーーーーーーー


「また魚買いに来たんですかい?」

 魚屋の親父が呆れたように声を掛けた。

「うん。今日のおすすめは?」

 辺境伯家の長女エレノアは、にこりと笑って頷く。

「今朝水揚げされたばかりの鯛がありますよ。」

 親父は桶から立派な鯛を持ち上げてみせた。

「じゃあ、それにする。」

「へいよ。」

 手際よく鯛を包みながら、親父は肩をすくめる。

「まったく、貴族のお嬢様が直々に食材を買いに来るなんざ、聞いたことがねぇ。」

 向かいの八百屋の女将が笑って口を挟んだ。

「昨日はうちで大根買ってったじゃないか。」

「そうそう。」

 エレノアはぱっと顔をほころばせる。

「あの大根ね、昨日料理長が豚バラ大根にしてくれたの。」

「とってもおいしかったなぁ。」

 しみじみと頷く姿に、魚屋と女将は顔を見合わせた。

「まったく。」

「変わった姫様だよな。」

 市場に笑い声が広がる。


 魚を抱えて市場を抜けると、小さな石造りの建物が見えてきた。

 領内の孤児院である。

 庭では子どもたちが鬼ごっこに夢中になっていた。

「あっ!」

 一人の男の子がエレノアを見つける。

「お姉ちゃん!」

 その一声で、子どもたちが雪崩のように駆け寄ってきた。

「お姉ちゃん、また遊びに来てね!」

「今度は絵本読んで!」

「缶蹴りの続きしよう!」

「いいよ。」

 エレノアは笑った。

「明日また来る。」

 歓声が上がる。

 その時、修道服姿のシスターが慌てて飛び出してきた。

「あなたたち!」

 ぱん、と手を叩く。

「お姉ちゃんではありません!」

 子どもたちはきょとんとした。

 シスターはため息をつく。

「辺境伯家のご令嬢です。」

「エレノア様、とお呼びなさい。」

 しかし帰り際には、結局みんなで手を振って叫ぶ。

「お姉ちゃん、また来てね!」

「うん!」

「約束!」

「約束。」

 シスターは額に手を当て、小さく呟いた。

「まったく……。」

「本当に困った姫様です。」

 その声には呆れと同じくらい、愛情が混じっていた。


「エレノア様!」

 今度は屋敷の方角から切羽詰まった声が響く。

 執事のアルフレッドである。

 息を切らして駆け寄ると、一礼する間もなく顔を上げた。

「また護衛を撒きましたね!」

「撒いてないよ。」

 エレノアはきょとんと首を傾げる。

「追いつけないだけ。」

「それを撒いたと言うのです!」

 護衛たちが肩で息をしながら追いついてくる。

 畑仕事をしていた領民たちが、その様子を見て吹き出した。

「おい執事さん。」

「今日も姫様の勝ちだな。」

「笑い事ではありません!」

 笑い声が辺りに広がる。

 誰も彼女を畏れてはいない。

 誰も腫れ物のように扱わない。

「また散歩してる。」

 そう笑うのが、この北辺境の日常だった。


 ーーーーーーー


 市場で鯛を買ってから3日後。

 エレノアは父・ノルトヴァルト辺境伯と並び、王城の大広間を歩いていた。

 磨き上げられた大理石にはシャンデリアの光が映り込み、豪奢な装飾が眩しいほど輝いている。

「エレノア。」

 父が小声で呼ぶ。

「今日は王子との婚約披露を兼ねた舞踏会だ。」

「粗相のないようにな。」

「はい、父上。」

 返事をした、その時だった。

 杖が床を打つ音が響く。

「第2王子殿下、ご入場。」

 会場の空気が変わる。

 タルクィンが姿を現した。

 煌びやかな礼装に身を包み、その腕には侯爵令嬢デリラが寄り添っている。

 彼女のドレスは、タルクィンの青い瞳と同じ色をしていた。

 ざわめきが走る。

「なぜ侯爵令嬢が。」

「婚約者は辺境伯令嬢では。」

 辺境伯の表情が険しくなる。

 タルクィンは大広間の中央へ進み、杯を掲げた。

「諸君。」

 ざわめきが止む。

「本日、私は辺境伯令嬢エレノアとの婚約を破棄する。」

 息を呑む音が広間に広がった。

 タルクィンは悠然と続ける。

「理由は明白。」

「王家の伴侶には品格と知性が求められる。」

「しかし、お前はどうだ。」

 彼はエレノアを見下ろした。

「領民と馴れ合い、市場を歩き回り、自ら食材を買いに行っていると聞いた。」

「そのような常識知らずの娘が私の伴侶に相応しいはずがない。」

 貴族たちが失笑する。

「辺境らしい話だ。」

「王都の作法も知らぬとは。」

 デリラは扇で口元を隠し、くすりと笑った。

 タルクィンはその手を取り、高らかに宣言する。

「私の婿入り先に相応しいのは、このデリラのような淑女を育てた侯爵家だ。」

 辺境伯が一歩踏み出そうとした。

 しかしエレノアが袖をそっと掴む。

「父上。」

「ここでは。」

 静かな声だった。

 辺境伯は拳を握り締めたまま、その場に留まる。

 タルクィンは勝ち誇ったように微笑む。

 エレノアはゆっくりと一礼した。

「承知いたしました。」

 それだけ告げて踵を返す。

 誰も引き止めない。

 貴族たちは「泣いて逃げた」と囁き合い、デリラは勝者の笑みを浮かべた。


 ーーーーーーー


 婚約破棄から3日後。

 北辺境伯家へ、王家の紋章が刻まれた封書が届いた。

 封蝋を見た執事アルフレッドの表情が曇る。

「王都からでございます。」

 辺境伯は無言で封を切った。

 羊皮紙に目を走らせた途端、机を叩く。

「馬鹿な……!」

 執務室へ家臣たちが駆け込んできた。

 老騎士も、文官も、皆一様に顔色を変える。

 辺境伯は手紙を机へ投げるように置いた。

 アルフレッドが拾い上げ、読み上げる。


 |王家の名誉を損ねた責として、

 |辺境伯家に黄金2万枚を命ずる。

 |30日以内に王都へ納めよ。

 |応じぬ場合は王命への反逆と見なし、

 |相応の処分を下す。


 部屋が静まり返った。

 黄金2万枚。

 辺境伯家に払えぬ額ではない。

 だが払えば、冬の備蓄は底をつき、堤防の補修も砦の修繕も止まる。

 皺寄せは必ず領民へ向かう。

「ふざけるな。」

 騎士団長が低く唸る。

「婚約を破棄したのは向こうでしょう。」

「それを慰謝料とは。」

 家臣たちの怒りが渦巻く中、エレノアだけは静かだった。

 羊皮紙を受け取ると、最後まで目を通し、小さく息を吐く。

「返事を書きます。」

「お嬢様。」

 アルフレッドが目を瞬かせる。

 エレノアは迷わず羽根ペンを取った。

 さらさらとペン先が走る。

 誰も口を挟めない。

 書き終えた彼女は、読み上げもせずアルフレッドへ差し出した。

「お願いします。」


 |国王陛下へ。

 |婚約の破談は王家と辺境伯家との間で

 |生じた事柄にございます。

 |にもかかわらず、その代償を領民の暮らしより

 |取り立てようとなさるのであれば、

 |辺境伯家はこれに応じることはできません。

 |王家の名誉は、民の糧を奪って

 |保たれるものではないと存じます。

 |よって、慰謝料の請求は謹んでお断り

 |申し上げます。

 |エレノア・フォン・ノルトヴァルト


 読み終えたアルフレッドは息を呑んだ。

「これは……。」

「王命への拒絶です。」

 エレノアは静かに頷く。

「そうです。」

「だからこそ。」

「皆に謝らなくては。」


 ーーーーーーー


 翌朝。

 エレノアは、いつものように市場へやって来た。

 魚屋の親父が、いつもの調子で声を掛ける。

「おう、姫様!」

「今日は何買いに来たんだ?」

「違うの。」

 その一言で、親父の笑顔が消えた。

 エレノアは市場の真ん中まで歩くと、深く頭を下げた。

「みなさん。」

「ごめんなさい。」

 市場が静まり返る。

「王家から慰謝料を要求されました。」

「私は、それを断りました。」

「だから。」

「この領地へ王家の怒りが向くかもしれません。」

「そうなれば、戦争です。」

「私の判断で、みなさんを戦争へ巻き込んでしまいました。」

「領主の娘として謝ります。」

「本当に、ごめんなさい。」

 沈黙。

 その静けさを破ったのは、魚屋の親父だった。

「——ふざけんじゃねぇ!!」

 怒声が市場を揺らす。

「何で姫様が謝るんだ!」

「慰謝料だぁ!?」

「浮気して捨てたのは向こうだろうが!」

「よくもうちのお嬢に頭なんか下げさせやがった!」

 畑帰りの農夫が鍬を振り上げる。

「麦育てたこともねぇ連中が!」

「俺たちの備蓄を寄越せってか!」

 孤児院から駆けつけたシスターたちも声を張った。

「姫様は、子どもが熱を出した時、自分で薬草を摘んで持ってきてくださったのよ!」

「こんな誇り高い姫様を、よくも!」

 その時、小さな声が響いた。

「お姉ちゃんを泣かすな!」

 孤児院の子どもだった。

 その一言が火種になった。

「そうだ!」

「うちの姫様を泣かせやがって!」

「王家だろうが知るか!」

「北まで来て言ってみろ!」

 怒号が市場を埋め尽くす。

 エレノアは慌てて顔を上げた。

「落ち着いて!」

 魚屋の親父が怒鳴り返す。

「落ち着けるか!」

「お嬢は黙ってろ!」

「謝るのは向こうだ!」

 市場中が一斉に拳を突き上げた。

「こっちから願い下げだ!!」


 その怒声は市場を越え、城門を越え、北辺境全土へ広がっていった。


 ーーーーーーー


 数日後、辺境伯家は独立を宣言した。

 王家はそれを反逆として退け、討伐軍を差し向ける。

 だが、王都は忘れていた。

 この北辺境こそ、70年もの間、国境を守り続けてきた盾だったことを。

 雪山を知る領民が道を閉ざし、商人が補給を止め、騎士団が砦を守る。

 身分も役目も違う者たちが、ただ1人の姫様のために同じ方角を向く。

 そこには、王都の騎士には成し得ない結束があった。


 討伐軍は敗れ、王家は辺境の独立を認めざるを得なくなった。

 それでも辺境伯家は王都へ攻め込むことはなかった。

 欲しかったのは玉座ではない。

 守りたかったのは、この土地の暮らしだったからだ。


 しかし、北の盾を失った王国は長くは持たなかった。

 数年後、近隣の大国の侵攻を防ぎきれず、王家は敗北する。

 かつて辺境を「田舎の無骨な領地」と笑った王国は、ついに他国の属国となった。

 

 そして北辺境では今日もまた、誰かが笑う。

「おーい、姫様!」

 エレノアは振り返って手を振る。

「なぁに?」

 この土地の人々にとって、彼女は変わらず「うちの姫様」のままだった。

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