後編 ロイド
ロイドの幼馴染は、やたらと凝り性なところがある。
どれだけ凝り性なのかといえば、ままごと遊びの一環で、自作の台本の用意する程度には凝り性である。
「……それで、エリンギ王子役の私が“ロイドンナ・レイナード! 君との婚約は破棄させてもらう!”って言った後、ロイドは膝から崩れ落ちてほしいのね」
「うん」
「で、無実を罪を着せられて、そのまま南の島“モ=ドレナイ島”へと島流しに遭う」
「流刑なのに南国なんだ……」
一生をかけたバカンスになりそうだ。
そんな素朴な感想をロイドが呟けば、幼馴染は「モ=ドレナイ島は凶暴な猿たちが牛耳る弱肉強食の世界だよ」と追加情報を教えてくれた。ロイドは数秒前に抱いた感想を撤回した。
「ちょっと疲れたね、休憩にしよ!」
おままごとに休憩も何もないのだが、居間のソファに腰掛け、すぐ隣をポンポンと叩いてこちらに着席を促すエリンが可愛かったので、素直にロイドは彼女の誘いに乗った。
肩を並べて隣に座る幼馴染を見ると、彼女はお手製の台本を眺めて、実に満足げな顔をしていた。どうやらロイドが演じる貴族令嬢が島流しに遭った後の展開を読み直しているらしい。
ちなみに王子と貴族令嬢の配役について、逆ではないのかと一度だけロイドはエリンに尋ねたことがあるのだが、「でも私、この役がやりたいし」と、製作者特権を大いに振りかざした回答を得た。
「いい? ロイド。台本に囚われすぎちゃダメ。台本はあくまで道に迷わないようにするための指標で、その道の上でどうするかはロイドの自由なの。さっきのシーンでもね、婚約破棄されて膝から崩れ落ちるとして、そのやり方は何通りもあるの。右足から行くか、左足から行くかの違いなの」
その言い方だと膝から崩れ落ちるのは二通りしかないように聞こえるが、監督が何か大事なことを言ってくれている気がしたので、ロイドは演者として神妙な顔で頷いた。
「だから、私がやりたいようにやったときは、ロイドもやりたいようにやり返してよね」
凛とした佇まいで、真っ直ぐ挑むようにそう言った幼馴染の姿は、今でもロイドの目に焼きついている。
◇
朝とはいえないお昼前。
寝起きが悪い人間特有の、朝が来たことに対する抗議の唸り声をあげながら、ロイドはのそりと起き上がった。
顔にかかる髪を無造作に払い除け、目を細めたまま自室を見渡して、最後にいつもの場所に視線を止める。
昼前の白んだ陽の光が窓から差し込んで、黒布を纏ったキャンバスが明るく照らされていた。
「…………」
このままいっそ、布の黒地が陽の光を集めに集めて、あの絵に火でもついてしまえばいいのにと思う。
そうすればもう、幼馴染の顔を見るたび気まずい思いをすることもないだろう。自分の積年の想いと願望を塗りたくったようなあの絵を、見られやしないかと焦って怯える必要もなくなる。
そう思うのに、ロイドの身体はベッドを降りて、キャンバスを陽の当たらない位置まで慎重に移動させているのだからおかしい。
別に蔑ろにしたってかまわないと、頭では考えている。そのはずだ。
けれど思い通り行動に移せた試しがまるでない。もう少し色の調整が必要だな、と冷静に絵の出来栄えを考えている別の自分すらいる。
『絵! 次に新しいの描いたら、私にも見せてよね』
ふと、昨日の幼馴染の言葉が耳奥で響く。
この絵を見せた先の結果が上手く思いつかなくて、ロイドは逃げるようにキャンバスから目を逸らした。
身支度を終えて自室を出ると、家に人の気配は感じられなかった。時間帯からして、母は買い出しにでも行ったのだろう。
とりあえず何か口に入れたい。そう考えてキッチンを覗けば、ガラスドームに入った林檎ケーキが目に入る。
表面に飴色の光沢が照る特徴的な見た目のそれは、この辺りでは珍しい。幼い頃はじめてご馳走してもらった時、「これね、おばあちゃんの故郷で伝わるケーキなの」と隣でニコニコ教えてくれた幼馴染との大切な記憶が甦る。
それから、このケーキを一体誰が作って、誰が届けにきてくれたのかを思い至って、ロイドは「まさか」と呟いた。
――トン、トン、トン
瞬間、玄関からノックの音が鳴る。
母ではない。母親ならば鍵を使って勝手に入ってくればいいだけの話だ。叩き金を鳴らす意味がない。
速まる鼓動につられて早足で玄関へ向かえば、扉を開けた先に予想通りの姿が立っていた。
「おそよう」
栗色の瞳が上向いて、挨拶とともに視線がこちらに向く。どうやら走ってきたらしく、いつもならあるはずの前髪が今はすべて後ろに吹き飛ばされている。露わになった額と両頬がほんのり紅く色づいているのが可愛い。
けれどその表情はかたく強張っていて、ロイドは最悪の状況を想定して覚悟を決めた。
「……おはよう。どうしたの、エリン」
「ロイドに話があるの。……中入ってもいい?」
エリンの求めに応じ、彼女を家の中へと招き入れる。扉の鍵は開けたままにした。
扉を隔てて外の空気を遮断すれば、二人だけの空間に静寂が訪れる。
玄関に入った後、エリンはうつむいたまま何も言わなくなってしまった。身長差のおかげで、ロイドは彼女の脳天から爪先までの全てを視界に収めることができる。それはいいのだが、こんな風に下を向いて表情を隠されると弱いのが難点だった。
いっそのこと身を屈めて、エリンの顔を覗き見しては駄目だろうか。そんな無粋なことを考える自分を抑えて、ロイドは彼女の言葉をじっと待った。
「……ロイド、ごめん」
……それは、一体何に対する……?
突然の謝罪の言葉に、ロイドの背に冷や汗が伝う。
絶交、絶縁、訣別、糾弾――そんな物騒な単語たちが脳裏によぎってゆく。
「私ね、実は今朝もケーキを届けにここへ来たの。それで、ロイドを起こそうと思って部屋に入って……あの絵を見た」
ああ、やはり。
諦めと羞恥と絶望が身体の中でないまぜになって、ロイドは今すぐ顔を両手で覆って、床にしゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られた。
「あの絵のモデルの女は、きっと、ロイドにとって特別な人なんだよね?」
「それは……」
“なんだよね?”と疑問系で終わらせつつも、ほぼ確信しているようなエリンの語調にロイドは内心戸惑う。
確かにあの絵のモデルは自分にとって特別な人で間違いないのだが、彼女がこんなにもあっさりと、その事実を自ら口にしたのが少々意外だったのかもしれない。
それでも問われたからにはずっと黙っているわけにもいかず、ロイドは「そうだよ」とエリンの言葉に頷いた。
その直後にエリンが浮かべた表情を、なんと言い表せばいいのだろう。
ほんの一瞬だけ目を伏せて、下唇を噛み締めていた。それからすぐに視線を上げて、凛とした佇まいで、真っ直ぐ挑むようにこちらを見た。
「わたし、ロイドが好き」
エリンが瞬きするたび、栗色の瞳が煌めく。それは薄い涙の膜が光を反射しているせいだと、遅れて気がついた。
「今は別の人のことを好きだとしても、いつか絶対私に振り向いてもらうから」
まるで宣戦布告をするかのごとく、そう高らかに告げた後、「……今日はそれだけ言いに来たの」とエリンは言葉を付け足す。
それからくるりと身を翻して、扉の持ち手を握って彼女が出て行こうとするのを――ロイドは手を伸ばして阻んだ。
「……もう振り向いてる」
右手をエリンの手に重ね、もう片方は扉につく。
そうして扉との間に生まれたわずかな空間に、小さな彼女の身体を囲い込む。
「俺もうとっくに振り向いてるよ、エリン」
絵の具で色づいた指先が、扉の鍵を音を立てて閉めた。
◇
幼い頃のロイドは、今より身体が弱く病気がちで、あまり外遊びができない子どもだった。
それでもまったく退屈した記憶がないのは、幼馴染であるエリンの存在が大きい。
毎日ロイドの家に訪ねてきてくれたエリンと共に、彼女特製の台本が用意された本格おままごとに興じたり、無茶苦茶ルールの自作ボードゲームに時間を忘れて熱中したり――ロイドの中にある幼少期の楽しい思い出は、そのほとんどが幼馴染のたゆまない創意工夫の元に成り立っている。
エリンのように、自分も人を楽しませる何かを生み出せたら。そう憧れて絵筆を取って、はじめて描いた絵を彼女に褒めてもらった時は本当に嬉しかった。
あの絵も、はじめは完成したらすぐエリンに見せるつもりだったのだ。自分が一番美しいと思う彼女の表情を描いて、いつもように喜んでもらえたらと、本気でそう思っていた。
けれどある日、ふと立ち止まって考えてしまった。
――いくら幼馴染とはいえ、いきなり自分をモデルにした絵を見せられるなど、気持ち悪くはないか?
それは、子どもの頃の自分にはなかった発想だった。数年前、中等学校に上がったあたりから芽生えた、周囲の物事や評価をひどく過敏に、後ろ向きにとらえてしまう、心の成長によってもたらされたものだ。
もしこの絵のことがバレて嫌われたら、と不安に駆られる日もあれば、本気で描いたものを自分自身で貶めるとは何事かと、尊大に振る舞う日もある。
せめてものカモフラージュで、現在のエリンではなく、少し先の未来の彼女の姿を想像して描くことにしたのだが、気持ち悪がられる要素を余計に足しただけだと後で気づいて頭を抱えた。
いっそのこと描くのをやめてしまえばいい。やめて、隠して、最初から無かったことにすればいい。そう思うのに、それができない。
彼女のことを見るたび、かわいい、きれいだと思う。この世で一番かわいい、きれいだと思う。やはり本物は超えられないなと思いながら、それでもまた絵のつづきを描く。後ろめたい気持ちを抱えながら、それでもまた描く。
描いて、描いて、描いて――描いてばかりで、ロイドはもう随分と長いこと、本物のエリンにきちんと向き合っていなかった。
最初は彼女を喜ばせようと思って始めたはずなのに、いつのまにか「嫌われたくない」という自分の浅ましい願望を慰めるだけの行為にすり替わってしまっていた。
だから、こんなことになっているのだ。
エリンに涙を浮かべさせ、あまつさえ「今は別の人のことを好きだとしても」などと、到底あり得ないことまで口にさせてしまっている。
「……エリン」
腕の中に囲った小さな背中にそっと声をかければ、ぴくりと肩が跳ねた。
「こっち、を、向いてほしい」
怖がらせたくはない、でも絶対に逃したくもない。そんな二つの想いが身の内でぶつかり合い、絞り出した声が無駄にカタコトになる。
それでもこちらの願いが通じたのか、エリンは無言でゆっくりと身体を反転させてくれた。
けれど、その表情は見えない。先ほどと同じように、彼女がうつむいて顔を隠してしまっているからだ。
ロイドは小さなつむじを数秒眺めた後、おもむろに身を屈めて、自分から視線を合わせに行った。
無粋だ何だと言われてもいい。やりたいようにやると、いま決めた。
「俺、エリンが好きだ。昔からずっと、大好きだ」
見開かれた栗色の目を、真っ直ぐ見つめて言う。
「あの絵は、エリンを想って描いたものだ。未来の君の姿を想像して描いた。……本当は、出来上がったら一番に君に見せたいと思ってた。だけど……」
だけどもし――その続きを口にするのが恐ろしくて、ロイドは目を伏せ口籠もる。
すると向かいからエリンの手が伸びてきて、いつかのようにロイドの胸をグータッチで軽くこずく。
「……わたし、あんなに綺麗じゃないよ」
少し困った、呆れたような声色とは裏腹に、エリンは目元をほんのり紅く染めて、嬉しそうに笑って告げる。
「絵! これから先もずっと、私に一番に見せてよね」
「絶対だかんね!」と言葉を付け足した幼馴染のその顔は、やはりこの世で一番かわいくて、きれいで。
「うん、約束」
そんな誓いを返して、ロイドは衝動のままに、彼女の身体を下から抱きあげ立ち上がる。
突然のことに驚きつつも、高い高いと無邪気に腕の中ではしゃぐ幼馴染を、もうこのまま部屋に連れ去ってしまっては駄目かなとロイドが考えたところで、ちょうど買い出しを終えた彼の母親が帰宅するのだが――それはまた別の話である。
 




