中編 エリン②
昨日のどんよりとした天気が嘘のように、今朝はよく晴れた。
絶好のおうち読書日和なのだが、今日も今日とてエリンにはおつかいをさせられている。
ただし今日の任務は買い物ではない。昨日雨宿りさせてもらったお礼――母お手製の林檎ケーキを、ロイドの家へと届ける役目である。
昨日挨拶もせずに帰ってしまった非礼の詫びも兼ねて再訪すれば、リリーおばさんが「そんな! エリンちゃんが気にすることないのよ!」と慌てて出迎えてくれた。
「そもそもね、昨日は私がお茶の用意をゆっくりし過ぎたのが悪いの」
そうして昨日もらいそびれたクッキーと共に改めてお茶を用意してくれたリリーおばさんは、憂い顔でひとつ息を吐く。
「私の登場で、二人きりのいい雰囲気を壊してしまうかもしれないと怖くてね……、なかなかキッチンから出る踏ん切りがつかなかったのよ」
「はあ……」
ロイドと親子喧嘩(?)をした手前、居間へやって来るのが気まずかったということだろうか。はやく二人が仲直りできるといいが。
「ねえ、エリンちゃん。よければロイドのこと起こしてきてもらえないかしら。昨夜も遅くまで起きてたみたいだから、まだ寝てると思うの」
リリーおばさんの言葉につられて、エリンは部屋の掛け時計をちらりと見る。まだ昼前ではあるが、もう早起きとは言い難い時刻だ。
やはり昨日の親子喧嘩(?)が尾を引いて、息子を叩き起こしに行くのにも気が引けるのだろう。
リリーおばさんの気持ちを慮ったエリンは、お任せあれと彼女の頼みを快く引き受けたのだった。
◇
ロイドの部屋は、突き当たりの奥である。
もはや目を閉じてでも辿れるくらい記憶に染みついた道順をなぞり、エリンは無事に難なく目的地に到着した。
試しにノックを三回し、物言わぬ部屋の扉の返事を無言でじっと待つ。
「…………」
返事がない。やはり部屋の主が起きている可能性は極めて低そうだ。
そう判断するや否や、エリンは幼馴染のよしみで遠慮なく部屋のノブに手をかけた。
すんなり開いて生まれた扉の縦の隙間から、そろりと中を覗き込む。
すぐ目の前にある本棚には、無数のスケッチブックが平積みされて適当に押し込まれていて、あまり本来の役目を果たしているように見えなかった。
絵の具がこびりついた机に、本棚とは違ってキレイに整頓された画材棚と、順に室内を見渡していけば、最後には壁際に追いやるようにして置かれたベッドの上へと行き着く。
膨らんだ上掛けの端から、骨ばった片足が飛び出しているのが見えた。
(……足、あんな大きかったっけ?)
いつの間にか自分とは一回り以上違う大きさになっている幼馴染の足のサイズに驚きつつ、エリンは規則正しく上下するその膨らみへ近づいてゆく。
眠る幼馴染を少し背伸びして覗き込めば、長い前髪は横に流れ、閉じた目元が露わになっていた。
その顔立ちは、昔はよく女の子に間違われることもあったが、精悍さが増した今はもう男の人にしか見えない。無防備に曝け出された首筋は引き締まって太く、迫り出したその喉仏が、唾を飲み込むために上下した。
(ゔ……)
その様子を観察していると、何だかそわそわした落ち着かない気分にさせられて、エリンはたじろぐ。
……だめだ。もうさっさと起こしてしまおう。
身の内から湧き上がる妙な感覚を振り払うかの如く、エリンは幼馴染の肩に手を置き、容赦なく彼を揺り起こした。
「ロイド、ロイド、起きて」
「……ん」
金のまつ毛に縁取られた目が薄く開く。かと思いきや、またゆっくりと閉じられる。
「ちょちょちょ、寝ないでロイド」
「ゔんん……」
流れるように二度寝を決め込もうとする幼馴染は、その眉間にギュッとシワを寄せる。
きっとロイドはまだ寝ぼけていて、エリンを認識すらしていないのだろうが、それはそれとしてせっかく起こしに来たのをこうも邪険に扱われるのはちょっと悔しい。
いっそのこと鼻でもつまんでやろうか。そんな悪戯心で右腕を伸ばした矢先、下からいきなり伸びてきた男の手に引っ張られて、エリンの身体は大きくバランスを崩した。
「おわっ!」
咄嗟にロイドの枕元へ左手をついたが、ちょうど彼の身体に覆い被さるような体勢になってしまう。
いきなり何をするのだこの寝ぼすけは。エリンの全体重が墜落してきてもいいのか。
そんな悪態を脳内でつきながら幼馴染を見下ろせば、予想よりも遥かに近い位置に彼の顔があって驚く。
(――あ、)
思わずエリンが身じろぎしたと同時、ロイドが再び目を開く。
綺麗な青色の瞳に自分の顔が写っているのを、エリンは声を出すのも忘れて見入っていた。
双つの青い目はまじまじと数秒こちらを見つめた後、とろりと極甘く微笑む。
「……かわいいな」
「っ、」
「きれいだ」
「ウワーッ!!」
ベチンと男の顎に張り手をかまして、エリンは弾かれたように上体を起こす。
右腕を掴んでいた手は驚くほど簡単にするりと取れた。
すばやく身を引いてベッドの上を見れば、顎に攻撃を喰らったにもかかわらずロイドは再びぐうぐう安らかに入眠している。
「な、なんなの……」
エリンの口から、途方に暮れた情けない声が漏れ出る。
……あんな、あんな蕩けた甘ったるい笑みもできるのか。直接触れられたわけでもないのに、誰にも見せたことのない心臓の裏を指でくすぐりなぞられているような、おかしな心地がした。さっきから鼓動がどきどき鳴り止まないし、顔中が熱くて仕方がない。
一旦退こう。そうしよう。部屋を出て一度作戦を立て直した方がいい。何より今、ロイドを起こしてもまともに話せる自信がない。挙動不審になる自信しかない。
そう結論づけたエリンは、出口を目指してくるりと身体の向きを変えた。
そうして前後反転したエリンの視界に、あるものが飛び込んでくる。
(……キャンバス?)
画架に乗せられたキャンバスがひとつ、ちょうど扉の死角になる場所に置かれている。キャンバスには黒い布が被せられていて、どんな絵なのかは分からない。
徐々に落ち着きを取り戻してきたエリンの脳裏に、昨日見たロイドの指先が甦る。これはきっと、ロイドが新しく描いて、途中でやめてしまった絵だ。
一体どんな絵を描いたのだろう。途中でもいいから、まだ完成していなくてもいいから――見てみたい。
胸の内に湧き上がるそんな欲望を抑えきれず、出口を目指すはずであったエリンの足は、あれよあれよという間にキャンバスの方へと吸い寄せられてしまう。
慎重に伸ばした指先が黒布の端をつまみ上げ、めくるめくその中身をエリンは盗み見た。
「え……」
それは、見知らぬ女性の人物画だった。
キャンバスの中、栗色の髪と瞳をした彼女は凛とした佇まいをして、真っ直ぐ挑むようにこちらを見つめている。
年齢はエリンやロイドより上だろうか。エリンとよく似た色合いのその栗毛は、長く艶やかに後ろへ流されている。
女性の面影にどこか既視感を覚えつつも、予想だにしなかった幼馴染の新しい作品にエリンは愕然とする。
この絵は間違いなくロイドが描いたものだ。流石にエリンでもそれは分かる。でも、でも新しい絵はてっきりいつもの風景画かと思っていたのだ。今までロイドが人物画を描いたところなど見たことがなかったから。
「んん……」
「!」
ふいに、後方からロイドの身じろぎする音がした。
いよいよ幼馴染が起きる気配を察して、エリンは慌ててキャンバスに黒い布を元通りかけ直す。直感的に、これは自分が見てはいけないものだとエリンは理解していた。
そっと目を伏せ俯くと、途端に後ろめたい気持ちに襲われる。
なんだか今この部屋にいる自分が随分と場違いな存在みたいに思えてきて、エリンはキャンバスに背を向け、眠る幼馴染の方をもう一度だけ名残惜しげに見た。
「……ごめん、ロイド」
憂いと負い目を含んだ謝罪の言葉を吐いて、エリンはそっと部屋を出た。
それからロイドの家から自宅に帰ってくるまで、エリンは自分がどんなことを感じて、思って、考えたのか、あまり記憶していない。
ロイドの部屋を出た後、リリーおばさんにロイドを起こせなかったことは報告した。寝起きの悪い息子に呆れ返る彼女と一言二言交わして、これから昼の買い出しに行く予定だという彼女と共にロイド宅を出て、店の前で別れ、そうして自宅まで帰ってきた。それは覚えている。自分の身体がどんな行動をとったのかはきちんと覚えているのだ。
けれど、まるで心と身体を切り分けられたかのように、感情が息をしていない。
今は何をする気も起きず、エリンは自分の部屋のベッドに横たわり、ただひたすらに虚空を見つめていた。
「……あの女の人、誰だろ」
自分以外誰もいない部屋だと、些細な独り言も存外大きく響く。
……綺麗な人だった。
それに髪が長くて、大人っぽかった。
試しに顔を横へと向けてみれば、ベッドに散らばった自身の短く切り揃えた髪が目に入る。手入れをするのが面倒だからと短くしていたが、こんなことならもっと伸ばせばよかった。そしたらきっと、きっとエリンだって……
「…………」
エリンはとうとうベッドに突っ伏した。
真っ暗になった視界に、あの絵の中の女性がぼんやり現れて、こちらを見透かすような眼差しをして問うてくる。
ロイドの初めての人物画が自分じゃなかったことが悔しいんだ?
――ちがう。そんなことは……そんなことない。
絵に描くぐらいだから、その女のことを特別に想ってるかもしれないね?
――……そうかもね。なんかすごい力作っぽかったし。
ロイドが誰かを特別に想っていたら嫌なの?
――…………いやだ。
なんで嫌なの?
――それは……、
それは、エリンがロイドのことを好きだからだ。
セルフなぜなぜ分析の結果、意外とすんなり結論に辿り着いて、エリンはくるりと仰向けになる。
「……最悪……」
なんで今さら自覚するのか。失った途端に自覚するとはどういうことだ。恋の自覚はなぜなぜ分析の末のくせに、失恋の仕方だけ無駄に洒落くさい。
不甲斐なさにギュッと目を閉じると、先ほど見たロイドの蕩けた甘い笑みが脳裏に浮かぶ。あれも今思うとだいぶ心臓に悪い。
何度やめようとしてもあの光景が脳内で勝手に繰り返し思い出されるので、エリンはしばらく無心で天井のシミの数を数えていた。
そうしてふと、ある可能性に行き着く。
「……かわいいな、きれいだって、もしかしてあの人に向けて言った?」
そう呟くやいなや、エリンは自分の髪を一房とって目の前に持ってきた。
……似てなくもない、あの絵の女性の髪色と。というか、ほぼ同じではなかろうか。茶髪はこの辺りで最も一般的な髪色だ、被っても何ら不思議ではない。この調子だと瞳の色も同じようなものだろう。
寝ぼけて恋敵と間違えられたことに気がつき、エリンはさらに落ち込んだ。あの時のときめきを返してほしい。切実に。
「……最悪……」
本日二度目の“最悪”を吐き出し、冬眠したかのようにエリンが動かなくなること数秒。
「――よし!」
突如としてカッ!と開眼したかと思うと、エリンは勢いよく起き上がった。
乱れた髪を手櫛でサッと整えてしまえば、虚空を見つめたり天井のシミを数えたりする時間は終いだ。
これ以上はうじうじ悩んでいても仕方がない。行動を起こさない限り、状況は変わらないのである。
自分の感情を素直に受けとめ、落ち込む時は全力で落ち込み、気持ちをしゃんと次に切り替えることができるのがエリンの長所だった。
「……とりあえず、やりたいようにやろう」
そんな言葉をお守りに、部屋の外へ一歩踏み出す。
軽やかな足取りで二階の自室から降りてきたかと思いきや、早速外出しようとする娘に、母親が驚いて声をかける。
「どうしたのよエリン」
「ロイドのとこ行ってくる!」
「また行くの? 一体何しに」
「告白!」
「は?」
呆気にとられる母親を差し置いて、エリンは自宅を飛び出す。
そうして脇目もふらず、幼馴染の家めがけて走った。
 




