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前編 エリン①


「エリン! ちょっとこっちに来てー!」


 階下から自分を呼ぶ声に、エリンはぴくりと肩を揺らした。

 開いた本に落としていた視線を上げて、物陰から敵の様子をうかがう戦士のごとく自室の扉をじっと見る。


(……おつかいさせられるな)


 休日の昼、優雅に(たしな)む読書タイムに、にわかに緊張が走る。

 今の今まで読んでいた手元のミステリー小説も、ちょうど探偵役が謎解きを()き始めて容疑者達に緊張が走った場面だ。きっとあと二、三ページめくれば、誰が真犯人なのか解き明かされるだろう。


「…………」


 自分以外だれもいない部屋で、とりあえずエリンは視線を右から左へ泳がせてみる。特に意味はない。

 そうして何事もなかったかのようにエリンは至福の読書タイムへと戻った。必殺☆聞こえないフリである。


「エーリーンー! 聞こえてるんでしょー!」


 だが階下にいるもう一人の探偵(母)は、いともたやすくそれを見抜く。あちらも伊達に十六年も母親をしていない。


「返事しないと今日の夕飯はドドキノコのソテーにするよー」

(ゔっ)

 

 ドドキノコとは、エリンが最も苦手とする、独特の苦味とクセを持ったキノコのことである。そのくせ栄養価は他のキノコ類より群を抜いて高いので、健康志向の世間では重宝されている小癪(こしゃく)なヤツでもある。


 とにかく夕飯を人質にとられては、こちらとしては大人しく降参するしかない。なんて卑怯なやり方だ。


「はーい!! いま行く!!」


 腹いせに腹からめちゃくちゃ大きな声を出して返事をしたら、そのあと普通に怒られた。












「――まいどー!」


 馴染みのおっちゃんの小気味よい挨拶を背にして、エリンは店を出る。無事におつかいを終え、お役御免となった買い物メモをワンピースのポケットへ突っ込めば、生ぬるい湿った風が全身にぬめっとへばりつくような感覚がした。


(……雨ふりそ〜)

 

 苦々しい顔で見上げた空は一面灰色で、今にも降り出しそうだ。

 イヤイヤ外に出たので、そう都合よく傘など持っていない。さっさと帰宅しなくてはならない。


 そうしてエリンが家路を急ごうとしたところで、ふいに誰かに呼び止められた。


「あら? エリンちゃん?」


 呼ばれて反射で振り向けば、見知った女性がこちらへ近寄ってくる。上品で物腰柔らかなその佇まいは、幼い頃から変わっていない。


「こんにちは、リリーおばさん」


 ”リリーおばさん”といっても、本当に叔母や親族という訳ではない。この品の良いマダムは、エリンの幼馴染の母親であった。


「こんにちは。もしかしておつかい? えらいわね」

「へへ、でしょでしょ」


 本当は夕飯が人質にされて仕方なくしたことなのだが、まあ今ここであえて言う必要もないだろう。

 すると、褒められて少し調子に乗り始めたエリンを(いさ)めるかのように、ポツンとひと粒冷たい何かが額に落ちてくる。

 その粒は向かいのリリーおばさんの額にも着地したようで、彼女は空を仰ぎ見た。


「あら、降ってきちゃったわ。エリンちゃん傘持ってる?」

「いえ、でも走って帰るので大丈夫です」

「ダメよ、女の子が身体冷やしちゃ! ほら、私の傘に入りなさい。うちで雨宿りしていけばいいわ」


 リリーおばさんの家、もとい幼馴染の家はここからすぐの距離である。何度も行ったことがあるし、いまさら遠慮する仲でもないのでエリンは素直にその提案に乗らせてもらうことにした。


「じゃあ、お言葉に甘えて」

「そうこなくっちゃ。今なら美味しいクッキーもあるわよ!」

「やった!」


 案外おつかいも悪くない。

 リリーおばさんの綺麗な薄紫色の傘に入れてもらいながら、エリンはそんな現金なことを思うのであった。




 ◇




「あら、ロイドも外に出てたみたい」


 玄関脇ある濡れた黒い傘を見て、リリーおばさんはそう言った。それから慣れた仕草で薄紫色の傘を黒色の隣に立てかけて、玄関扉を開ける。


「珍しいわね。ここ最近、休日は部屋にこもりっぱなしだったのに」

「そうなんですか?」

「ええ。何してるのか心当たりはない?」

「うーん……。あっ、そういえば、昨日――」


 ――ガタンッ! ゴッ!


 エリンがすべて言い切る前に、突然の物音が彼女の言葉を遮る。

 驚いて音のした方を見ると、玄関扉を開けた先で、金髪の青年が目を丸くして立っていた。


 彼こそがロイド、エリンの幼馴染である。

 よく見ると彼の後ろには備え付けの木棚があって、先程の痛そうな物音は、彼が勢いよくそれにぶつかったことによるものだと(うかが)えた。


「どうしたのロイド」

「えっ、えっ、エリン……」

「エリンだけど……」


 大丈夫か。棚にぶつけた腰が痛いのか。

 見ていて心配になるほどロイドはエリンがここにいることに驚いているが、彼ら二人が会うのは実に昨日ぶりであるので、別に感動の再会なんていうことはない。


 絶句し固まるロイド、困惑するエリン、口に手を当て二人を交互に見て何故かわくわくした様子のリリーおばさん、三者三様の様相を(てい)し数秒の沈黙が続いたが、真っ先にロイドが我に返り、一目散に奥へと駆けて行ってしまった。

 次いで彼の自室の方から、何やらドタバタ騒がしい物音が聞こえ始める。


(……いやらしい本でも隠してんのかな……)


 ド失礼なエリンの推理が冴え渡ったところで、隣から不満気な声が上がる。


「ま〜〜〜! なぁにあれ! ここは幼馴染の突然の来訪に内心驚き焦りつつも爽やかに挨拶を交わすところでしょうが!」

「リリーおばさん、落ち着いて」

「もう、ごめんなさいねエリンちゃん、うちのバカ息子が失礼な真似して」

「それは別にいいんですけど……ロイド、一体どうしちゃったんですか?」

「分からないわ、近ごろ様子が変なのよ。部屋にも入れてくれないし」

「うーん、私もお母さんに部屋に入って来てほしくない時はあったりしますけど……」


 エリンとて思春期の端くれ、入って来るというか呼ばれたくない時はある。まさに今日もそれをきっかけにして自分は今ここにいる。


「でもだからって、相手の顔を見るなり自分の部屋に引っ込むなんて駄目よ! せめて、“な、なんでうちに⁉︎”みたいな仰天と照れを織り交ぜたベタな反応くらいはしてくれないと」


 さっきから息子に求める対応がやたら限定的なのが気になるが、とにかくリリーおばさんは彼へ一言物申さないと気がすまぬらしい。「エリンちゃんは早く居間に!」と敵を足止めする味方のような台詞を言う彼女に従い、エリンはひと足先に居間へとお邪魔しておくことにした。


 部屋の入り口をくぐれば、当たり前だが自分の家とは違う匂いがほのかに香る。感じの良いインテリアでまとめられたは其処は幼い頃から知っているが、足を踏み入れるのは久々であった。


 一歩、二歩と心なしか丁寧に歩みを進め、エリンは部屋の入り口の正面、窓際に置かれたソファにちょこんと腰掛けた。すぐ手前にはローテーブルもある。


「……、……!」


 耳をすませば、ロイドの部屋の方から時々声が聞こえる。なんと言っているのかまでは分からないが、雰囲気からしてロイドが劣勢なのは分かった。

 彼の母親は基本的に穏やかだが、怒るとわりと恐い。やはりどの家も母は強いものなのだろうか。


 ちなみにこれは余談だが、リリーおばさんとエリンの母は昔からの友人である。母親同士が幼馴染で、互いの幼い娘と息子を連れて交流を続ければ、子ども同士も幼馴染となるのは、まあ当然といえるだろう。


 とはいえ自然の摂理とでもいうべきか、歳を重ねるにつれて、昔は毎日通っていたはずのロイドの家にもめっきり来なくなってしまった。もちろん会えば挨拶もするし話もするが、最近は母親(づた)いで互いの状況を知ることも多くなってきた。


 そこまで考えて、エリンは先程リリーおばさんに言いかけた出来事を思い出す。


 昨日たまたま図書館でロイドを見かけ声をかけたのだが、様子がおかしかったのだ。

 目線を合わせようとしても合わなくて、会話もしどろもどろで、いかにも何か後ろめたいことがあるような、そんな感じだった。


 そのくせ会話のふとした切れ目で、こちらをじっと注視してくる。言いたいことがあるのかと見つめ返せば、ふいっと向こうが視線をそらす。


 煮え切らない態度に、焦れて若干の苛立ちが募ったものの、場所が場所(図書館)なのでその時は深く追求できなかった。

 それに、エリンがロイドに対し何かした心当たりが全くない訳でもない。


 今でこそすっかり落ち着いたが、数年前、中等学校に入る前くらいのエリンは、無駄に凝り性で傍若無人なインドア少女だった。

 運動が苦手で外遊びを忌避する分、その情熱は部屋遊びへと全て注がれ、ロイドに対して台本付きの細かすぎるおままごとを強要したり、無茶苦茶ルールの自作ボードゲームの周回耐久レースに付き合わせたり、幼馴染に対し我が(まま)三昧な振る舞いをしていた。

 その恨みつらみが今になって噴出した可能性も十二分にあるが、とはいえ時間差すぎるような気もする。


「うーん……」


 (いま)だ誰も来ない居間でエリンは腕を組み、天井を仰ぐ。ついでにそのまま頭をゆっくり左右に振って軽いストレッチをしていると、入口扉がギギギ、と音を立てて開いた。


 腕組みをやめて正面を見れば、ロイドが気まずそうにして立っていた。

 細身でスラリと背が高いと、しょんぼり背を丸めて落ち込んでいる様子もわりと映えてしまうから、ちょっと悔しい。


「……エリン、さっきはごめん」


 変声期を経て随分と低くなってしまった声でそう言って、ロイドは静々(しずしず)こちらに歩み寄ってくる。

 そして、ソファに腰掛けるエリンのすぐ側に(ひざまず)いたかと思うと、ローテーブルの上に何かを差し出した。


 意外とゴツゴツ骨ばった、長く大きな手の平から現れたのは、長方形の台紙の上で飛翔する小鳥の切り絵だった。


「これ……(しおり)? もしかして作ってくれたの?」

「昨日図書館で会ったとき、新しいのが欲しいって言ってたから……、エリンさえよければ、お詫びに」


 おずおず「どうぞ」と差し出されたロイドお手製の栞を、エリンはそっと両手で受け取る。


「きれい……」


 どうしよう、嬉しい。すごく嬉しい。

 なんだかんだで昨日の図書館で交わした会話をちゃんと聞いて覚えていてくれたことが。

 自分のために、こんな素敵な栞を用意してくれたことが。

 相変わらず視線は合わないけれど、きちんと身体はこちらに向けて、目線が合う高さにまで身を屈めていてくれていることが。

 じわりと胸に歓喜と安堵が広がると同時に、なんだか無性に照れくさくなって、エリンは自分で自分の感情がよく分からなくなる。


 とりあえず何か別の新しい話題を……と視線を彷徨わせれば、未だローテーブルの上に置かれたままのロイドの指先が目に留まった。

 爪端と皮膚が人工的な原色に色づいているのを見て、エリンは思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「ロイド。また新しい絵、描き始めたの?」

「え」

「ほら、手の先に絵の具の色が残ってるから」


 エリンの指摘に、ロイドは自身の手をぎゅっと握り込み、すばやくテーブルから下ろしてしまう。別に今更そんなに恥ずかしがることないのに。


 ロイドは幼い頃から絵が上手だった。特に風景画が得意で、繊細なタッチと鮮やかな色使いをして、まるでその瞬間を閉じ込めたような絵を描く。今までの完成品は欠かさずエリンに見せてくれたし、エリンも彼の絵を見せてもらうのが好きだった。


「ね、もしまた描いてるなら、どんなのか見せてくれない?」


 期待を込めたエリンの眼差しに、ロイドは眉を下げる。

 薄い碧色の瞳がこちらを向いて、今日やっとはじめて彼と目が合った。碧眼を縁取るまつ毛が長くて綺麗で、端正な絵画を鑑賞しているような心地に一瞬襲われる。


「絵は……描いてたんだけど、途中でやめたんだ。やっぱり良くないと思って」

「満足いく出来(でき)にならなかったの?」

「いや、出来というより、それ以前の問題というか……」

「???」


 なんかこう、スランプ的な意味だろうか。作品づくりに対して結構ストイックなんだなと、感心してロイドをまじまじ見つめていたら、彼は目を伏せ顔を逸らしてしまった。

 それから徐々に、ゆるやかに、じわじわと、彼の首から上が紅く染まっていく。様子のおかしい幼馴染に、エリンも段々と心配になってくる。


「ねぇ、大丈夫? もしかして体調悪い?」

「…………そんなことは、ない……」

「いや顔すっごい赤いけど」


 エリンは腰を浮かし、側に(ひざまず)いたままの幼馴染との距離を詰めた。それから自分の額を片手で覆い、もう片方を目の前の幼馴染の額に合わせ、手のひらで互いの熱を測り比べてみる。


「うーん、熱いのかなこれ」

「…………」

「ロイドって平熱どれくらい?」

「…………」

「ロイド?」

「…………」


 し、死んでいる。

 ……というのは冗談だが、返事がないので額の手を離してロイドの様子を窺えば、彼は目を丸くしたまま固まっていた。乱れた彼の前髪をエリンが手櫛(てぐし)で軽く直してやっても、微動だにしない。


 どうしよう。つい昔の距離感のまま遠慮なく顔にベタベタ触ってしまったが、流石に一声かけるべきだったか。

 散々ベタベタ触った後で、そんな今更すぎる考えをエリンが抱いた時だった。


 ――ボーン、ボーン、ボーン


 どことなく(ただよ)う甘酸っぱい空気をぶん殴るかの如く、部屋の掛け時計の音が鳴る。

 正直助かった。(すが)るような気持ちで掛け時計の文字盤を見て、エリンは素早くソファから立ち上がる。


「わたし、そろそろ帰るよ。あんまり遅いと母さんも心配するしさ」

「……あ、ああ。うん、そうだね」


 フリーズしていたロイドも掛け時計の音で正気に戻ったのか、今度はちゃんと受け答えが返ってきた。顔色も少しずつ普段通りになってきていたので、とりあえずは問題なさそうだ。

 窓の外を覗けば、雨はすでに止んでいて、雲間から白と黄色が混じった柔らかい光が差し込んでいるのが見えた。


「……あのさ、ロイド」


 部屋の出口へと向かう(わず)か数歩の道すがら、律儀に後ろを付いてきて、お見送りをしてくれるつもりの幼馴染に、エリンは振り返って声をかける。

 身長差があるのをいいことに、長めの前髪に隠れた碧眼を下から真っ直ぐ覗き込んで、こちらから視線を合わせに行く。


「絵! 次に新しいの描いたら、私にも見せてよね」


「絶対だかんね!」と言葉を付け足して、(ほう)ける幼馴染の胸をグータッチで軽くこずいた後、エリンは軽やかな足取りで去ってゆく。


 だから、彼女は知らない。


「……ごめん、エリン」


 その後ただひとり部屋に残された幼馴染が、恐れと負い目を含んだ謝罪の言葉を吐いていたことも。


 クッキーと紅茶を用意して居間にやって来た彼の母親に、「どうして部屋の入り口で突っ立っているのよ」と胡乱な目で見られたことも――エリンは知らない。


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