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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

閲覧者で終わってない?

作者: よぐると

SNSがあることで、誰でも言葉を発信できるようになった。

でも、言葉があふれた結果、誰も“拾わなくなった”。

自殺の投稿、悲鳴、呟き、弱音、警告。

それらは下に引っ張れば更新され、笑える動画や、トレンドの裏に埋もれて、

3秒で忘れられる。

この物語は、

そんな「3秒で消える声」を、本当に見てしまった少年の話です。

そして、もしあなたが今、

誰かの声を見ているのなら、

どうか聞いてほしい。


閲覧者で終わってない?

 ある夜、池山浩矢(いけやまけいや)は眠れなかった。

 眠れないのは、初めてのことではない。

 父が職を失ってから、家の空気はどこか重く、夜が深まるほどに息がしにくくなる。

 布団にくるまり、スマートフォンの明かりだけが僕の顔を照らす。

 時計の針は午前3時を少し過ぎていた。薄暗い部屋の中、僕は無言で画面をスクロールする。

 SNSは相変わらず混沌としていて、誰かが誰かを叩いている。

 他人の悪口、職場への愚痴、匿名の告白、軽い冗談、時折混ざる死にたいという言葉。

 それらの投稿を、僕は感情もなく眺めていた。

 ときどき、自分の心がどこにあるのか分からなくなる。

 現実では、誰にも話しかけられない。家でも、学校でも。

 だからスマホの中だけが、唯一「自分が観測者でいられる場所」だった。

 そのときだった。

 ある投稿が、視界の隅でじんわりと赤く滲んだように見えた。

 >「笑顔で接客するの、マジでもう無理。殺意しかない。」

 僕は画面を止め、投稿を見つめた。

 他の書き込みとは明らかに違う。背景が、淡く赤黒く染まっているように見える。

 熱を持っているような感覚。まるでその言葉が、発熱しているかのようだった。

 錯覚かと思った。けれど何度見ても、その投稿だけが異様な存在感を放っていた。

 不意に、投稿者の名前が「◯◯(削除済み)」に変わった。

 僕の心臓が、ドクンと跳ねる。

 直後、スマホの通知が震えを伝えてきた。

 【速報】都内カフェ従業員、今夜未明に転落死 自殺とみられる SNSに意味深投稿

 まさか。

 さっきの投稿と、同じ人物なのか?

 僕は無意識にさっきの画面をスクロールしていたが、もうあの投稿は見つからなかった。

 削除されたのか、誰かの手で隠されたのか、それとも……最初から存在していなかったのか。

 「……なんだよ、これ」

 無機物につぶやいた声は、誰にも届かない。

 ただ、画面の残像のような赤い光が、まだまぶたの裏に焼きついていた。


 翌朝、浩矢はいつものように学校へ向かった。

 駅のホームには、通勤者と学生が溢れてていた。

 だが、昨日のニュースの話題は誰の口にも上らなかった。

 教室に入ると、空気はいつもと変わらず重たかった。

 友達と呼べる者はいない。誰もが自分の世界に閉じこもっている。

 窓の外には灰色の雲が垂れ込め、街を覆っていた。

 授業が始まっても、誰も話題を振らなかった。

 教師もただ淡々と進めるだけで、生徒の様子を気にかける様子はなかった。

 僕は自分の席で、スマホの画面をちらりと見る。

 昨夜見たあの「発熱する投稿」のことが頭から離れなかった。

 あの投稿の裏にあった絶望や怒りが、どこかリアルに感じられてしまう。

 誰も気づいていないのか? あの人は、本当に死にたかったんだろうか?

 胸の中の問いが、言葉にならないまま沈んでいく。

 誰にも話せず、誰にも届かず。まるで、自分も周囲の冷たい空気に押しつぶされそうだった。

 放課後、帰り道の商店街はシャッターが降り、閉まった店が目立っていた。

 店主たちは口を閉ざし、どこか遠くを見るような目をしている。

 浩矢はふと、昨夜の「赤く滲む投稿」のことを思い出し、スマホを握りしめた。

 ネットの向こう側にいる誰かの“熱”を感じ取りたいと思った。

 でも、それが何を意味するのか、まだ分からなかった。

 その夜、僕はもう一度スマホを開いた。

 新たな「発熱する投稿」が幾つも現れていた。

 それはまるで、見えない「悪念」が街の空気に染み込んでいるようだった。

 夜が来るのが怖くなった。

 けれど、夜にならなければ「誰かの本音」は見えないことも知っている。

 僕は再び、スマホを開いた。

 青白い光が、部屋の闇の中で彼の顔を照らす。

 タイムラインを流れる文字列の中に、昨日と同じような“熱”を帯びた言葉が浮かぶ。

 >「まじで限界。もうムリ。全部終わらせたい。」

 言葉の周りが、また赤黒く滲んで見える。

 炎のように揺らめきながら、スマホのガラス越しに手のひらを焼こうとしているかのようだ。

 浩矢は心臓が締めつけられるような感覚を覚えた。

 また、誰かが死ぬのだろうか。

 昨日、あれを見たのに、彼は何もできなかった。

 ただ見て、怖くなって、寝て、次の日を迎えただけだった。

 そのとき、ひとつの通知が表示された。

 >「この投稿は、規約違反のため削除されました」

 例の投稿だ。

 浩矢は反射的に、投稿者のアカウントをたどろうとしたが、すでにプロフィールは消えていた。

 写真も、過去の投稿も、何も残っていない。

 ただ、タイムラインの下に現れた小さな返信だけが残っていた。

 >「消える前に、誰か気づけよ」

 その一文を見て、浩矢の背中を寒気が這った。

 それは、自分への言葉のように感じられた。

 翌朝、またニュース速報が流れる。

 「20代女性、都内の歩道橋から転落。事件性はない模様」

 短い文章のあと、いつものようにキャスターが機械的にニュースを読み上げる。

 朝食のテレビを見ながら、母は「あらまぁ」と一言つぶやき、

 すぐにチャンネルを料理番組に変えた。

 浩矢は、スプーンをグッと握ったまま、何も言えなかった。


「なんで、僕ばっかり……」

 そんな言葉を、浩矢は心の中で登下校中も授業中も何度も繰り返していた。

 また誰かが死に、また誰も気づかず、また何も変わらない。

 昨日と同じ日常が繰り返されるなかで、**自分だけが“気づいてしまった”**という事実が、息苦しかった。

 帰り道、駅前の広場を歩いていると、目の前を足早に通り過ぎた男の背中が、妙に気になった。

 リュックサックに黒いステッカーが貼られていた。

 「残りたいなら、叫べ。」

 なにげなく書かれたような文字。

 でも、浩矢の胸には深く突き刺さった。

 叫ぶって、誰に……?

 自分は誰にも話せていない。

 話そうとしたところで、信じてもらえるわけがない。

 “熱を帯びた投稿が、死の前触れに見える”なんて話を、誰が真面目に聞くだろうか。

 その夜、浩矢はSNSに初めて「自分のこと」を書いた。

 >「今日も誰かの投稿が熱かった。でも僕は何もできなかった。

 > これ、僕の幻覚なんだろうか。

 > 誰か同じものを見てる人、いないのかな?」

 投稿してすぐ、後悔がこみあげてくる。

 変な奴だと思われる。誰にも見られないほうがマシだったかもしれない。

 けれど、数分後、複数の通知が鳴った。

 >「熱いって何ww?」                          

 >「よくわからんのだが」

 僕の後悔を掘り下げるコメントの中

 >「私も見てます」

 と、一つのコメントに目が止まった。

 短くて無表情なメッセージだった。

 でも、浩矢の指先は震えた。

 その人のアカウントは「nen_02」。

 投稿はほとんどなかったが、プロフィールには一言だけ記されていた。

 >「念が見えない世界、こんな世界、間違ってるよ…」

 「念……?」

 浩矢の中で、何かが繋がりかけていた。

 あの赤黒く滲む投稿は、“感情”が限界まで積もった末の形。

 怒り、悲しみ、絶望、憎しみそれがネットの海に現れるとき、それは熱を持った『悪念』として可視化される。

 そして、それが誰にも拾われなければ、現実が崩れてしまう。

 「僕だけじゃなかった……」

 夜の部屋で、スマホの光がじんわりと、暖かく感じられた。         

 共感が僕の心を落ち着かせてくれた。

 「私も見てます」その返事を受け取った瞬間から、浩矢の中に奇妙な感覚が芽生えた。

 まるで、真っ暗な部屋の中に、小さな灯りが灯ったような、そんな感覚。

 彼は震える指で、返信を打った。

 >「あなたも、“熱”が見えるんですか?」

 しばらくして、メッセージが届いた。

 >「見えるだけじゃない。私は、それを“追っている”」

 “追っている”。

 その言葉の意味がわからず、浩矢はもう一度スマホを見つめ直した。

 >「悪念は、溜まりすぎると現実に染み出します。

 > ネットだけの話じゃありません。

 > 本当に、誰かが壊れる。

 > あなたが見た“赤い投稿”、最近どこで見ましたか?」

 浩矢は、ここ数日の出来事を思い返す。

 最初の投稿があった日の夜、そして翌朝のニュース。

 昨夜の投稿が消された直後に、歩道橋から女性が…

 まさか……あの“赤い投稿”が、死の予兆?

 浩矢は震えた。

 目の前のスマホ画面が、急に重たく感じられる。

 >「私は“悪念”を追い、記録している。

 > でも一人じゃ限界がある。

 > あなたが見える人なら、私の“ログ”を見てくれませんか?」

 次のメッセージには、外部リンクが添えられていた。

 不審なURLではない。独自に作られた非公開のページらしい。

 怪しい…

 しかし、ここで止まっていれば何も進まない。

 浩矢は意を決して、リンクを開いた。

そこには、時系列順で並べられた投稿の記録があった。

 スクリーンショット、投稿時間、場所の特定に使われたデータ、そして――

 >「赤:強い悪念」

 >「黒:死の直前」

 >「灰:抑圧された無意識の“無関心”」

 感情を可視化したような投稿の色分け。

 投稿者の多くは、ニュースにならないレベルの“崩壊”を起こしているらしい。

 不登校、解雇、家庭崩壊、暴力、自傷。

 けれど、社会はそれを「個人の問題」として片付けてしまう。

 浩矢は、画面をスクロールしながら、強く思った。

 「この世の中……“熱”が出てても、誰も体温計を当てようとしないんだ……」

その夜、浩矢は決意した。

 見えることを、ただの“怖い力”にしない。

 感じた熱を、“誰かが死ぬ前に”見つけ助けたい。

 それが、彼にできるたったひとつの戦い方なのかもしれないと。

 

 数日後、浩矢のもとにnen_02から新たなメッセージが届いた。

 >「会いませんか。直接、話したいことがあります」

 >「今週土曜、午後2時。高円寺の中央公園で」

 スマホの文字を見つめながら、浩矢は緊張で手のひらがじんわり汗ばんでいくのを感じていた。

 ネットの中の存在が、現実に浮かび上がってくる。

 それは、夢が急に生々しい肌触りを持ち始めたような、不可解な感覚だった。

 当日、公園には曇り空の下、ほどよく人がいた。

 子ども連れの家族、ベンチで文庫本を読んでいる老人、どこかの部活帰りの高校生。

 浩矢はスマホを握りしめながら、立ち止まって周囲を見渡した。

 「あなた、ですよね?」

 声をかけてきたのは、年上の少女だった。

 年は高校生くらいだろうか。白いフード付きのジャケットに、無地の黒いリュック。

 彼女の目は、年齢にそぐわないほど冷静で、まっすぐだった。

 「……nen_02?」

 彼女はうなずいた。

 「ごめん、信じてくれるか分からないけど私、“念”が見えるようになったの、3年前からなんだ」

 ベンチに並んで座ったふたり。

 少女、彼女の本名は“井汲いぐみことは”といった。

「僕は池山浩矢 よろしく」                                

「よろしくね さっそく話したいんだけど…」

 彼女は淡々と語った。

 ・感情がネット空間に染み出すこと

 ・負の念(悪念)が濃縮されると、人を“壊す”現象が起きること

 ・それらは感染するように広がり、連鎖していくこと

 ・そして、それを察知できる者は、限られているということ

 「あなたもそう。見えてしまった人間。私と同じ目線を持った“観測者”」

 「そして、観測者が動かないと、“次”が起きる」

 浩矢は彼女の目をまっすぐ見返した。

 怖い。でも、逃げたくなかった。

 誰もが見過ごす“声”を、見てしまったなら、それに背を向けるほうがもっと怖い。

 「……どうすればいい?」

 「僕にも、何かできる?」

 ことはは、ポケットから一冊のノートを取り出した。

 古びた、分厚い大学ノート。中はぎっしりと文字と図、数字、投稿の断片で埋め尽くされていた。

 「これは、私の“悪念観測ログ”。でも最近、読みきれないくらい急に増えてる。

  あなたにもこれを共有する。見た“熱い投稿”があったら、書いて。場所、時間、色、感情の種類、なんでもいい」

 浩矢はノートを両手で受け取った。

 重みがあった。物理的なそれだけではない。責任。恐れ。そして、確かな希望のようなもの。

 ふたりが立ち上がる頃、曇り空の隙間から、一筋の陽光が差し込んできた。

 「悪念って、結局何なのかな……」

 浩矢がつぶやく。

 「多分、“無視された感情”の亡霊。

  誰にも気づかれなかった“心の体温”。」

 ことはの言葉が、胸に静かに染みた。


 月曜の朝。重いまぶたのまま、浩矢はスマホを開いた。

 ニュースアプリはまた、誰かの終わりを告げていた。

「都内の歩道橋で若い女性が転落死。自殺と見られるが、詳細は調査中」

 彼の指先が、一瞬止まる。

 あの投稿と、同じ日付。同じ時間帯。

 画面の光がじわじわと強くなる気がした。

 昨日、タイムラインに流れてきた“あの言葉”が、脳裏を焼く。

「もう限界。次は、私の番」

 何気ないように見える言葉だった。

 だが、浩矢にはわかった。

 それは“普通の言葉”ではなかった。

 言葉の周囲が、じりじりと熱を帯びていた。

 まるで火にかけた鍋の縁が赤く変色していくように。

 それは、“悪念の兆候”だった。

「……まだ残ってるか?」

 彼は急いでログを探す。アカウント名はもう消されていたが、スクリーンショットを取っておいた。

 ユーザー名は「@kmr_kanon_41」

 投稿時刻は前日の夜10時半。

 自殺報道がされたのは、夜中の1時すぎ。

「一致してる……」

 浩矢は小さくつぶやき、背中に冷たい汗を感じた。

 そのとき、メッセージアプリに一件の通知が届いた。

 送り主は、「ことは」。

 浩矢と同じように、“熱”を視ることができる、唯一の相手。

【ことは】

例の投稿、キャッシュを拾った。投稿位置、港区三田。

歩道橋、該当地点あり。

名前は“香野果音”。20歳。去年から投稿歴がある。


 浩矢は、思わず息をのむ。

 彼女は一年前から、何かを吐き出していたのだ。

 それでも、誰も気づかなかった。誰も拾わなかった。

 その晩。

 浩矢は、ひとりで三田の歩道橋へ向かった。

 夜の都心は意外に静かだった。

 煌々と光る高層ビルの間で、ぽつんと立つ古びた歩道橋。

 そこには、もう彼女の姿はない。

 だが、彼の目には見えた。

 欄干に残る、“熱”の名残。

 赤く、ゆらめく言葉の破片。

「誰か、見てよ」

 それだけだった。

 彼女の投稿履歴は全て削除されていた。

 家族も、友人も、メディアの取材に答えることはなかった。

 ただ、誰も読まなかった「声」があったという事実だけが、

 浩矢の中に残っていた。

 帰りの電車の中で、浩矢はスマホの画面を見つめたまま、動けずにいた。

 果音という名前が、頭の中に貼りついて離れない。

 彼女の投稿は、表向きにはただの弱音や愚痴に見えた。

 だけど、どこか“違った”。あの熱は、ただの疲労やストレスじゃなかった。

「誰にも届かなかった言葉って、どこに行くんだろう」

 浩矢は、誰にともなく呟いた。

 家に着くと、ことはから新しいメッセージが届いていた。

【ことは】

奇妙なことに気づいた。

果音の最後の投稿に、「既視感」がある。

調べたら、別のアカウントが去年ほぼ同じ文を使っていた。

「誰か、見てよ」

その言葉、4件の投稿に共通して使われていた。

 浩矢はぞっとした。

 まるで、“言葉”が感染しているようだった。

【ことは】

仮説。

悪念は“投稿の形”を借りて広がっている。

熱を帯びた言葉が、他人に“移る”。

見るだけで、感じるだけで、触れるだけで。

「じゃあ……次は、誰かがまた、その言葉を拾うのか」

 浩矢はTwitter(現X)の検索窓に、ゆっくりと打ち込んだ。

 「誰か、見てよ」

 検索結果の上位に、まさに今、数分前に投稿されたツイートが現れた。

「誰か、見てよ。いないなら、もう消える。」

 アカウント名は「@tsumugi_drop」。

 プロフィールは空白。アイコンは薄暗い白黒の花。

 投稿は、その一件だけ。タイムスタンプは12分前。


「間に合うかもしれない……」

 

 浩矢の心臓が強く打った。

 彼はことはにすぐさまログを転送しながら、DMを開いた。

 震える指で、メッセージを打つ。


はじめまして。

投稿を見ました。

誰か、います。

あなたの言葉、見えています。


 送信。

 既読マークは、なかなかつかない。

 夜が深まる。

 投稿は削除されない。

 だが、DMにも返事は来ない。

 1時間後。

 ことはから新たな連絡が届いた。

【ことは】

@tsumugi_drop の投稿位置、千葉県・浦安駅近辺。

ライブカメラに似た服の人物が映ってた。

白いワンピース、黒いリュック。

今夜、何かが起こるかもしれない。

 浩矢は迷わず、最終電車に飛び乗った。

 “熱”は確かに、そこにあった。

 連鎖する言葉。

 拾われなかった声。

 溶けていく投稿の残骸。

 それらが、彼を呼んでいる。

 次は、助けられるかもしれない。

 次は、届くかもしれない。

 浦安駅の改札を抜けると、夜の街はひどく静かだった。

 午前0時を過ぎたというのに、どこかざわつくような空気がある。

 蝉の声も、人の声もない。ただ、遠くから自動車の走る音だけがこだましている。

 浩矢はスマホの画面を見た。

位置情報:浦安市堀江一丁目、歩道橋のカメラ映像

白い服。23時36分通過。

「ここから……まだ近い」

 駅から数分の距離。浩矢は全速力で走り出した。

 息を切らせて到着したのは、小さな公園の横にある古い歩道橋だった。

 街灯の光が暗く、足元の影すら不明瞭に揺れている。

 いた!

 歩道橋の欄干に寄りかかるようにして、ひとりの少女が立っていた。

 白いワンピース。黒いリュック。ことはの言っていた服装そのままだ。

 彼女の背は小さく、髪は肩ほどの長さ。

 そして何より、その背中には、浩矢の目にしか見えない“赤い熱”がゆらめいていた。

 それは、果音のときよりもずっと濃く、溶鉱炉のようにぐつぐつと煮えたぎっていた。

「……紬、さん?」

 彼は息を整え、できるだけ優しい声で呼びかけた。

 少女はぴくりと肩を動かした。

 振り向く。

 目が合った。

 その瞳は無表情だった。

 だが、どこかで見たような、遠い湖のような静けさをたたえていた。

「……誰、ですか?」

「池山です。池山浩矢。さっき、DMを送りました」

「……ああ。あれ、見ました」

 少女はかすかに笑ったように見えた。

 でもそれは、まるで“ありがとう”のあとに続く“さようなら”の笑みだった。

「見てくれて、うれしかったです。でも……もう、いいんです」

 その言葉の後ろに、“熱”が渦巻いた。

 浩矢の視界が揺れる。

 赤く、重たい波が、少女の心から溢れてくる。

 怒り。

 寂しさ。

 無関心の連鎖。

 押し付けられた「大丈夫」への嫌悪。

 名前を呼ばれなかった数千の夜。

 悪念だ。

 これは、ただの感情じゃない。

 社会の冷たさが、誰かの中で飽和し、膨張し、人格を侵していく。

「それでも、僕は――」

 浩矢は、言った。

「僕は、その“声”を聞くために来た。

 届かなくても、助けられなくても、

 見えないなら、見ようとする。

 名前が消えるなら、覚えておく。

 それが、“僕ができること”だから」

 沈黙。

 風が吹いた。

 少女の目から、ぽつんと涙が落ちた。

 歩道橋の下に、パトカーのサイレンが小さく響いた。

 ことはが連絡していたのだろう。

 少女は、そっと立ち位置を下げた。

「……もう少しだけ、生きてみようと思います」

 その言葉のとき、背中の“熱”がすっと消えた。

 溶けていたものが、ほんの少しだけ、凍りはじめたように。

 後日、紬は精神的ケアを受けることになり、アカウントも削除された。

 彼女の投稿は全て消え、何も残っていない。

 だが、浩矢は覚えている。

 “熱”の残り香と、彼女の最後の一言を。


 「“熱”って、やっぱり伝染るんだと思う」

 ことはがノートパソコンの画面を見ながら言った。

 古びたファミレスの片隅。午後のアイスティーがぬるくなっていた。

「最初に“誰か、見てよ”って言った子のアカウント、もう追えないけど、

 投稿を保存してる海外のログサイトがあった。似たフレーズ、15件。4年分。

 すべて、その後にアカウント削除。数名は……死亡記事がある」

「まるで、呪いだな……言葉の形をした悪念」

「うん。でも、“呪い”って、祈りの裏返しだから。

 本当は誰かに届いてほしかった言葉なんだよ」

 紬を助けてから、浩矢は変わった。

 彼のスマホの中には、毎日スクリーンショットが増えていった。

 「声」が消える前に残すために。

 「熱」が誰かを覆う前に気づくために。

 そしてなにより、それらを“忘れない”ために。

 SNSのタイムラインを見続ける生活は、神経をすり減らした。

 無関係な日常と、深い悲鳴が、同じ速度で流れてくる。

 可愛い猫動画の横に、死にたいという呟き。

 幸せな結婚報告の後ろに、罵詈雑言の嵐。

「情報の海って、温度がなくて怖いね」

 ことはが言った。

「見てるはずなのに、誰も止まらない。熱いのに、触れない。

 それってまるで、夢の中で誰かが燃えてるのを見てるみたい」

「でも僕たちは、止まる」

 浩矢は言った。

「止まって、見る。そして残す。

 それができる人間が、まだひとりでもいれば……

 “呪い”は、祈りに戻るかもしれない」

 ことははうなずいた。

「じゃあ、名前つけようか。この記録活動に」

「名前?」

「うん。“声の記録者”とか、“熱のアーカイブ”とか……」

 浩矢は少し考えてから、こう言った。

「“カナシサログ”――ってどう?」

「悲しさログ……いいかも。

 でも、ちょっと綺麗すぎるから、平仮名で“かなしさろぐ”にしようよ」

 ふたりは笑った。

 その日から、“かなしさろぐ”はひっそりと始まった。

 インターネットの片隅に、記録だけを置いていくブログ。

 誰かの“最後の言葉”と、その背景に潜んでいた悪念を考察する場所。

 反応はほとんどなかった。

 コメント欄は空白で、アクセスもわずかだった。

 でも、ある日、1件のメールが届く。


件名:あなたたちの記録に救われました

本文:あのとき、自分の投稿が誰かに見られていたと思うと、

まだ、ちゃんと生きていようと思えました。

ありがとうございました。


 浩矢は、ことはと静かに画面を見つめた。

 “救った”なんて言えない。

 でも、“声が届いた”とは言える。

 それだけで、この記録は意味を持つ。

 そして、いつか世界が、もっと鈍く、もっと冷たくなったとき――

 この記録の断片が、誰かの手に触れればいい。

 まだ誰も見たことのない“名前のない絶望”を、誰かが知るために。

 自動販売機の明かりが、冷たいアスファルトの上にぼんやりと広がっている。

 浩矢はその光の中で、スマホを見つめていた。手の中の画面には、一つのログが点滅している。

 それは、二年前にネットの片隅で見つけた“投稿”に似ていた。

 誰も見向きしなかった、小さな、けれど確かな“助けて”の声。

 その時、自分はただ「いいね」すら押さなかった。ただ読んだ。それだけだった。

 ことはがいなくなった後、彼女の投稿も、匿名掲示板も、どこにも残っていなかった。

 何もかもが「閲覧されたまま」、過ぎ去っていた。

 浩矢は、スマホの画面を閉じ、バッグから小さなノートを取り出す。

 ことはと一緒に始めた“観測記録”の続き。

 彼女の言葉が、自分の中にまだ生きている。

「誰も記録しなければ、その声は死ぬの。

でも、誰かが書けば、それは“生き残る”」

 浩矢は深呼吸し、スマホで“投稿”を始めた。匿名のまま。名前も顔も出さずに。


投稿本文:

こんばんは。

この投稿を誰が見るかはわかりません。でも、書きます。

数年前、ある声を“見た”けれど、何もしませんでした。

それがずっと引っかかっていた。

僕は何者でもありません。救えもしなかったし、動けなかった。

だけど、もし今、誰かが誰かの声を見ているのなら――

閲覧者で終わらないでください。

その声は、生きています。

記録してください。

心にでも、ノートでも、SNSでもいい。

それが“火種”になるから。

今日も、ログを続けます。

記録者K


 投稿を終えると、風が街を通り抜けた。

 誰も見ていないような寒い夜。でもどこかで、誰かが覗いているかもしれない。

 浩矢は立ち上がり、ノートをバッグにしまう。

 歩き出す足取りは、少しだけ軽くなっていた。

 この世界がすぐに変わるとは思っていない。

 けれど、「見ていた」と言える人が一人でも増えたなら、

その先にある何かが、きっと違ってくる。

 夜の街の向こう、画面の先、誰かの部屋へ。

 言葉は静かに、届いていく。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語は、「誰かの声が流されてしまう」ことに対する、ひとつのささやかな抵抗です。

SNSのタイムラインは、あまりに速く、あまりに多く、そしてあまりに冷たい。時には熱くなっているかもしれません。

でも、私たちは、気づかぬうちに「見ること」しかできない存在になってはいないでしょうか?


この小説の主人公・池山浩矢が“何かを変える”ことは、できませんでした。

しかし、「見るだけ」だった自分を疑い、「記録しよう」としたその一歩は、

ほんのわずかでも、意味のある火種だったはずです。


現実でも、私たちは日々、無数の投稿、ニュース、動画を目にします。

その中には、届かないまま消えていく「助けて」があるかもしれない。

けれど、「それを覚えている誰か」がひとりでもいるなら、

それはもう、完全に消えてはいない。


この物語に登場した“声”はフィクションですが、

現実の世界には、ログとしても残らずに失われる声が、今日もどこかにあります。


だからこそ、こう問いかけて終わりたいと思います。


あなたは、閲覧者で終わっていませんか?

それとも、もう何かを記録していますか?


あなたの心の中に、ほんの一つでも「覚えている言葉」が残っていたのなら、

この物語はたしかに届いたのだと思います。


ありがとうございました。

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