78、ただいま。
泣かれました。
――びっくりしたわよ。
ロイズの邸宅に戻ったあたしを迎え入れたのは、侍女の悲鳴のような叫び声。
……うん、ごめんなさい。
だよね、心配かけたよね。突然いなくなればそりゃ驚くわよ。でも悪いのはレイリッシュなのよ。知ってる? 王宮でふんぞりかえってる真っ黒クロスケ様なんだけどね。
えっと、そう泣かないでよ?
ぎゅうっと抱きしめて侍女はあたしの体をさすりあげ、首輪が無いことに更に動揺した様子だったけれど、やがて落ち着いたのか乾いた笑みを浮かべた。
「若様が戻られる前で……良かったわ」
それを見越して先に帰ってきたのよ?
あいつと同時とか後とかはさすがにちょっとまずいかなぁって、思ってさ。
まぁ、あたしがではなくてエイルがそう考えた感じなんだけどね?
「それにしてもどこにいたの? どこかに穴でもあるのかしら……ちゃんと点検しないと駄目ね?」
侍女の笑顔は儚げで、あたしはみゅーと鳴くことしかできなかった。
ごめんなさい――
侍女はあたしの為にミルクとあたしの好物だと目された生の魚を用意してあたしが逃げ出したりしないようにとの気持ちなのだろう――しっかりと部屋の戸締りを済ませて就寝した。
あたしは一人きりで残されたロイズの私室でミルクと魚とを食べて、んんんっと伸びをする。
ああやっぱり家の中はいいわ。
使い慣れたソファも居心地がいいしね。
あー、幸せ。
あたしが丸くなって就寝しようとすると、窓辺で小さな音がした。
ぴくんっと耳が反応する。
無遠慮に窓を押し広げて入室したのはエイル――ではなくて、エイルの顔したうちの使い魔だ。嬉しそうに瞳をきらきらしているが、こいつは裏切り者だ。
――家事が忙しいからと主を放り出したのだ。
ひどいやつめ!
「マース、タ?」
「――」
ふん。
「マスター?」
「――」
「おかえりなさい?」
のぞきこんでくるのを完全無視。
幾度かチャレンジし、失敗すると使い魔はひょいっとあたしを抱き上げた。
「マスター可愛い」
「おまえなぁ、主をほっぽっておいて言う言葉がそれ?」
「だってご近所づきあいとかも大事なんですよー」
……使い魔は言いながらぎゅっとあたしを抱きしめ、それから自分の胸の前ででろんっとぶらさげた。
前足の下あたりを支えられ、ぷらーんっとしてしまう。
「にくきゅうぴんくー」
なにがしたいんだおまえは。
むっと睨みつけてやると、使い魔は切なそうに瞳を細めた。
「……会いたかったです」
「ん」
「会いたかった」
「……ん」
つっと、使い魔の眦から涙が滴り落ちた。音もなく、ただつっと。
それがあんまり切なくて、あたしは嘆息して前足をくいくい動かし、やつの頬をてしてしと叩くと言った。
「顔――」
「はい?」
「もうちょっと寄せて」
ああ、溜息がでちゃうわよね、ホント。
猫と使い魔の顔が近づく。あたしはその眦から流れる涙をそっと舐めた。
「泣かないの」
「……はい」
「――会いたかったとかほざくなら、一緒に行けばよかったでしょ」
「……はい」
「まったく――莫迦なコ」
あああ、エイルの顔だしね。
エイルが泣いているみたいでこれはちょっとイヤだわ。気持ち悪い。
嘆息するあたしの耳に、ぱたぱたと室内靴の音が響く。侍女が戻って来たことに気づいたあたしは、慌てて使い魔に隠れろっ、と示した。
使い魔がぽんっと蝙蝠になって暗がりに身を潜ませる。
それと同時に放り出されたあたしは、しゅたんっと床に着地した。
ランタンを掲げた侍女が部屋の扉をあけて中に入り込み、あたしがいるのを確認すると、近づいて抱き上げた。
「ブランちゃん、今日は私と寝ましょう?」
をう?
すりすりと頬を摺り寄せ、ちゅっと唇まで押し当ててくる。
あたしは暗がりで恨めしそうに見てる蝙蝠に嘆息した。
――マスターにキスしたぁぁぁ。ぼくのマスターにきぃすしぃたぁぁぁ。
という恨み節を超音波で流すな。
猫だって耳がいいんだぞっ!
なんか痛いっ。
ってかさ、この程度で怒り狂ってるようじゃ、やっぱ連れて行かないで良かったんじゃない?
正解?――
まったく! あの日々は屈辱の日々だった。
もう二度とあんな体験はしたくない。
何故に乙女の唇をほいほいゆるさなければならぬ? あたしの唇は安くないぞ!
安くない……はずだ。
ロイズが帰宅したのは侍女の部屋で眠りについてから。
気づけばあたしは相変わらずロイズの寝台で寝てて、自分の眠りの深さにちょっと愕然とした。
以前もそうだったのだけれど、寝てるからって持ち運ばれても気づかないってどんだけ深く寝てるんだあたし?
目覚めてロイズが寝ているもんだから一瞬あの島にいるのかと勘違いしたほどだ。
それでもすぐに空気の違い、暖かで柔らかな寝台とかがあたしに安堵をくれる。
あったかい寝台にロイズの寝息。
なんか帰ってきたなーとしみじみと感じた。
あたしの身じろぎにロイズの瞳が開く。
「みゃー」
となけば、ロイズの手があたしを抱き寄せ、嘆息交じりに呟いた。
「ブラン――あいたかった」
「みゃう」
「……あああ、オレの莫迦」
をい?
大丈夫か?
家に帰った途端に病気再発か?
難儀な男だな。
深く深く息をつき、ロイズはあたしをより強く抱いた。
「ただいま」
おう、おかえり。
それでもって、ただいま。
あたしはてしてしとロイズの頬を肉球で叩いて、
「みゃう」
とないた。
ただいま!