65、始原の森探検10
心臓がとくとくと早鐘を打つ。
――警戒しなければという思いよりも、一刻も早くという思いがある。
だから突然、
「止まれ」
と言われた時はあやうくバランスを崩して落ちそうになった。
「馬面っ」
「……貴様に名を名乗るつもりはないが、それを認める気はまったく無いぞ」
忌々しいという様子で馬面は睨みつけてくる。
「どこに行く、末の魔女殿」
「……魔女の、気配があるわ」
「あるであろうな」
「ならっ」
「愚かだと言われているが、確かにおまえは愚かなのだな」
呆れた、という様子で言うと中空に浮いたまま顎で前方を示した。
「この先を行く気であれば、下しか行けぬ。
たとえおまえが魔女であろうと、上から行くならば焼かれる」
「……」
「正しき道を示してやろう。我の優しさに感謝しろ」
うわ、なんかむかつく!
馬面が先行して地面へと降り立つ。
それをぎろりと睨みつけ、それでも従うのはヤツが大魔女レイリッシュの使い魔であるからだ。ヤツが幻獣であるからでは無い。
レイリッシュは怖い。
だが、最終的に自分にとって悪いことはしない。
あたしはそれを知っている。
――レイリッシュは家族だ。
アンニーナの使い魔の言うことなんて絶対きかないけどね!
めちゃくちゃ騙されそうだから。
木々の葉がきつく重なり合い、青空を埋め尽くす。
そこかしこの暗がりに小さな魔物が息を潜めているのが判る。
だが馬面がいる為だろう。そのどれもただ見送るしかできない。か弱い生き物は幻獣に近づくことすらできないのだ。
ぱきりと小さな枝葉が足音で音をさせる。
ひんやりとした空気が辺りを埋め尽くしていく。
やがて霧が深くなることに眉宇を潜めて、ついであたしは自分の腕にたつ鳥肌に腕をさすった。冷たく濃い霧がゆっくりと全身を包み込み、やがてそれは前方を行く馬面の姿さえも曖昧にしていく。
――年若いならば懐柔してしまえばいい。
突然耳元で聞こえた声に、あたしはびくりと身をすくませた。
「なに、魔女など生意気な生き物だが、虜にしてしまえばいいのだ」
そこはどこかの所領。
南東にある屋敷だと記憶がよみがえる。
エリィフィアの小言に耐え切れず、自らはもう一人で生きていけると信じたあの日。
飛び出した先で親切にしてくれた男は、美味い料理を振舞い、温かい寝床を与え、そしてブランマージュを褒め称えた。
「魔女殿は素晴らしい。我々にはとうてい思えぬ不思議を駆使する力をお持ちだ。
あなた程素晴らしい存在は無い」
まだ年若い小娘を有頂天にするには十分な甘言。
何より、普段からエリィフィアに「未熟者」といわれていた自分が褒められるためしなどそうそうなくて、その言葉はとても心地よく幼い小娘に響いた。
そして、その口から流れる真逆の言葉は、幼い子供の心を打ち砕くには十分だった。
かっと体温が上がる。
あの時と同じように自らの腹に力が集約されるのがわかる。
あの時、おそらく一番大きな魔法が体全体を突き抜けた。
はじめて覚えた怒り、悔しさ、憎しみ。
その全てを集約した魔法は、その館全てを木っ端微塵に打ち砕き、全てを灰にした。
「おちつけ」
――まるであの時と同じように、額に冷たい手が触れた。
「レイ……」
混乱が、男の声と女の声を間違えさせる。あの時自分を押さえ込んだ魔女の名を咄嗟に口にしそうになるが、額に触れている手は無骨で大きい。
息を詰めれば、あたしの額に冷たい手を押し付けているのは馬面だった。
「幻影だ。囚われるな」
「……」
「その力を放てばその力はそのままおまえを貫く――死ぬぞ」
ゆっくりという言葉に、あたしは浅い呼吸を何度か繰り返し、今頬を伝うものが相手に見えないことを祈った。
「……これは、魔女の力よ」
「そうだ。だからおまえの力は放つな」
「――」
馬面がぐいっと腕を引く。
「目をつむれ、何も耳に入れるな。考えるな」
「無茶を」
「無茶でもそうしろ。
魔法は一切使うな。それが全て自らに返る」
「……」
「白い闇に囚われるな。自己を強く保て、おまえは魔女ブランマージュだろう」