118、代償
*死にネタ注意
内面をえぐるような言葉。鼓膜をふるわせる呪いの言葉。
ティラハールの慟哭に自分の心までも共鳴してしまいそうになる。
許せぬ。許せぬ。許しはせぬっ。
巨大な獣は咆哮を放ち、炎と大気との色が奇妙に混じる。引き攣れたような笑いを浮かべてそれを見つめるギディオンの瞳は張り裂けそうな程に見開かれ、壊れた人形のようにゆるゆると首を振り続けた。
その唇からは奇妙な笑い声が高くなったり低くなったりしながら零れ落ちる。
ティラハールは標的を見誤ったりはしなかった。
何の躊躇も無く、その巨大な口を開き――自分をみあげながら悲鳴のような笑いをこぼす子供へと狙いを定めていた。
獅子の首がもたげてその顎門からするどい牙が覗く、そそりたつ白い歯の間から冗談のように唾液が滴り落ち、研ぎ澄まされた幾つもの刃のようなその牙が獲物にらいつく瞬間、まるですいよせられるように白い何かがギディオンの肩をよじ登り、ふっとその眼差しをあたしへと向けた。
こぼれ落ちる宝石のような、綺麗な、虹。
「見るなっ、ブランマージュ!」
珍しく怒鳴りつけるエイルの声も届かない。
あたしはただ、ただ目を見開いて、最後に小さく口を開いたソレが何かを認識するまでもなく、怒り狂う獣はあっけなく全てを砕いた。
――っっっ
あたしは自分の喉がひりつく痛みで、自分が音にすらならないような悲鳴をあげていたことに気付いた。自らの手で殺すはずの相手を、ティラハールは永遠にあたしの面前から消し去ってしまった。ただ憎しみだけをたよりに、ほんの一瞬にして。
咄嗟に、駄目だと叫んでいた。叫んだところでそれは言葉にならず、そして間に合うことも無かった。
あたしは小さな手から伸びる爪を地面に食い込ませた。
その感情はどろりと重く、あたしに理解しがたい波となってうねり、歯を食いしばった。
咆哮がほとばしる。
更に何かを求め、更に憤りを向けるものを求めて。
許しはせぬっ!!!!
呪いのような一声にあたしは強く身を伏せた。
ティラハールの言葉は他人に不安を与え、ずたずたにその精神を引き裂こうとするのように響く。あたしは激しい痛みに首を振った。
こんなことをしている場合ではない。そんな場合では無いのに!
苦痛の呻きが零れ落ち、あたしは必死に自分を鼓舞して自らのやるべき行動にうつろうとした。
ロイズっ。
「おだまり、ティラハ――お前の言葉は禁じたはずよ」
その時、それをなだめるように響いた言葉――それはあたしの首根を掴み、ひょいっと持ち上げたのだ。
「そしてお止め。我が愛し子――おまえはヒトの中で何を学んだの? オネエサンは泣きそうだわ」
漆黒の魔女があたしをぶらりとぶら下げ、大仰に溜息を落とした。
それまでの緊張も緊迫も何もかもがざらりと溶けて流れていく。神様っ。神様……ああっ、もうあたしは何もかも投げ出して構わない。
それまで一度だって神様の存在など信じたことなどなかったけれど、あたしは目の前の漆黒の美女が神だといわれても信じただろう。
レイリッシュ!
助けて。
あああ、よく来てくれたっ。レイリッシュっ。
さりげに自分のことをオネエサンとか言ってるのはこの際目をつむるから!
「人間など滅びてもよいのよ」
けれどレイリッシュの唇は微笑を称えてそう囁いた。
紅の口唇が、やけに綺麗に、くっきりとあたしの目にうつりこむ。
「もう良くてよ。人間になど心をむけなくて良いの。人の為におまえが命を捨てることなどない。ほうっておけばティラハールが全て処分してくれる」
――この地にいる全ての愚かな人間を。
さぁ、帰りましょう。
慈愛を込めた眼差しで囁く魔女に、あたしは「にゃーっ」と必死に訴えた。
何を言うんだ、レイリッシュ!
今、この時にもロイズの命の火が消え去ろうとしているのにっ。
駄目だよっ。ロイズが死んでしまう。
助けてっ。助けてよ、レイリッシュっ。それができないというのであればほうっておいてっ。
あたしが何をしようとしているのか判っているんだろう?
だから何だ。かまうんじゃない。
あたしの必死の訴えに、レイリッシュは「ふふふっ」と微笑を落とした。
「それ等も全て処分するつもりだったのに……でも、おまえが望むなら救ってあげても良くてよ?」
魔導師も隊長殿も救ってあげる。
怪我の一つも残すことなく。
レイっ。
あたしが喜びの声をあげると、レイリッシュはにんまりと微笑を称えた。
「お前の望みを全て、全てかなえてあげる」
まるでからかうような口調で囁いた。
確かめるように言葉を繰り返し。
「その代わり、おまえをちょうだい」
それは、甘い、とろけるような誘惑で。
あたしは瞳を丸くした。
「おまえの体を、おまえの運命を、お前の人生を――全てちょうだいな、ブランマージュ」
あたしをぶらりとぶらさげたまま、漆黒の魔女は口唇を歪めて囁いた。
意味が判らなかった。
けれど意味など必要が無かった。
今この時、救いの手を差し向けてくれるのであれば、相手が天使でも女神でも、悪魔でも魔女でも、何でも良かった。
身の破滅など何だというんだろう。
後悔ならいくらでもしてやる。だが誰も失ってなどやらない。もう誰の命も無駄に散らしなどしない。
あたしが了承の意味を込めて鳴くと、レイリッシュは高らかな声をあげて笑った。
ふりかざした手には、杖。
今までその手に杖をかざしたレイリッシュを見たことなど無かった。
古の魔女のように、古木で作られたねじくれた杖を手にした魔女は、その表情を冷たく怜悧なものへと変えてしまった。いつものふざけた微笑を消し、まるで邪悪なる存在そのままの冷笑を浮かべ。
「契約はなされた。このばかげた騒ぎに終焉をもたらそう――」
言葉と同時にあたしの小さな体をレイリッシュがぽんっと放り投げ、あたしはふぎゃーっと声をあげつつわたわたと四肢を動かしたが、地面に落ちる前にとすんっと掬い取られた。
あたしを抱きとめたのは、シュオンだった。硬い表情をした人形のあたしの使い魔は、緊張するような空気を孕んでぎゅっとあたしを抱きしめ、その身を震わせる。
言葉はなく、ただ強く抱きしめるだけのシュオンが無言であたしを責めるのを感じ、あたしは何も言えず、面前で広がる光景を見つめた。
漆黒の魔女が高らかに言葉をつむぐそのさまを。
「我が同胞の血を吸い上げた厭わしきこの大陸に終焉の鐘を響かせよ。汝、作られし哀れなるティラハールよ――おまえの主を蹂躙せし地を望むままに滅するが良い!」
まてぇい!
誰が大陸のことなんか言った? あたしが望んだのはロイズだ。ロイズの命を――ハっとあたしは息をつめて慌ててロイズが倒れている場へと視線を向け、ついですぐにエイルがいた場をも確認した。
いなかった。
忽然とその場から消された二人の人間。
いや、人間などいない――辺りには……命が、無い。
あたしの小さな心臓がドクドクと鼓動を早める。頭が痛い程に心音がこだまする。
――それ等も全て処分……
さらりとレイリッシュが告げた言葉が耳によみがえる。
どくどくと心臓がうるさい程に音をさせ、不安が体内をめぐる。
――人間など滅びてしまえとレイリッシュは願っているのか?
言葉をあげられないあたしが「にゃーっっ」と鳴けば、レイリッシュは冷ややかな笑みをあたしへと向けた。
「なぁに?」
なぁにって、いやいや、ちょっとまてい。
――ロイズは? エイルは? それでもって、大陸を滅するってあんた、何考えてるの?
振り上げた手が下がるのを待つように、ティラハールがその鋭い巨大な眼差しでレイリッシュを見つめている。あの杖を振り下ろせば大魔女の言葉の通りにあの獣は灼熱の炎で、巨大な鉤爪でもってこの大陸を蹂躙するつもりなのだろう。
だが待て。
ちょっとまて。
「あたくし、この大陸嫌いなの」
いやいやいや、好き嫌いじゃないだろうが。
まるで、この献立が気に入らないの、程度の口調で言うな。
好きか嫌いかで言えばあたしは確実に嫌いだよ? そりゃあもう大嫌いだ。空気悪いよ。人が暮らす場じゃないよ。イメージも印象も最悪ですよ。
だからといって、滅ぼすっていうのは違うだろう?
いや、それより先にロイズは? エイルはどうした?
必死に「にゃー、にゃにゃにゃっ」と言い募るあたしに、レイリッシュは嘆息した。
「なんというかその癒し系で言われるととっても気がそがれるわね」
言葉が喋れないんだから仕方ないだろうがっ。
「あの二人はエリィが治療中。白の名の通り、治療ならばアレにまかせて間違いはなくてよ。なんといってもあたくしの自慢の娘だもの」
ああ、もう一人血みどろのが落ちてたけど、アレはアンニーナが回収していたわよ?
さりげに自分の弟子を自慢する。
何気にレイリッシュは親馬鹿か。とりあえずもう一人のボロ雑巾はどうでもいい。
ってか、アン! いるならとっとと出て来いっ。おまえはいったい何をしていたんだ。
多少色々と思うところはあったものの――レイリッシュの言葉に、あたしはほっと息をついた。
エリィフィアは治療に関して言えばどの魔女よりすぐれている。一番強いのは薬だが、直接治療だって得意だ。
おかげで昔どんだけ怪我をさせられたか……
自分で治せると思うもんだから本気で容赦ないんだ、エリィフィア。
「じゃ、理解したところではじめましょうか」
――まて。
「まぁ、邪魔をしようというの?」
――大陸一つ滅ぼすなんて、魔女だって許されないわよっ。
「天変地異とか?」
――あるかっ。
「巨大津波が突然どーん?」
おまえはふざけてるのか!
「だーれも見てないわよ? 見てるものは全て粛清しちゃえばよくてよ?」
歴史なんてそんなふうに作られるのよ?
レイリッシュは形の良い眉をひそめた。
「情けなど必要なくてよ? 魔女から報復を受けておかしくないことをここは十分ししたわ」
――でも、人が生活してる。
「まぁ慈悲深い子」
くすくすと微笑をこぼし、レイリッシュは小首をかしげた。
「約束ですものね? おまえの願いは全てかなえてあげるわ」
代償はおまえそのもの。それは決して安くはないわ。
何でもないことのようにサラリと言うと、レイリッシュはふっと真顔になった。
「ティラハ、戻りなさい」
真剣な眼差しで言うが、ティラハールはその言葉に抗うように咆哮をあげた。彼女の怒りは未だ収まらず、苛立ちをあらわにしてレイリッシュに炎を向けたのだ。
突然のことにあたしは「にゃっ」と声をあげてしまった。
とばっちりのようにこちらにまで炎がくる! ぎゅっと身をすくめたが、レイリッシュはその炎を片手で押さえ込み、ついで払った。
「ティラハ、戻れ!」
主の言葉だというのに、ティラハールは聞こうとはしなかった。
レイリッシュが眉間に皺を刻み、舌打ちをする。杖を垂直に掲げ、もう片方の手を振り上げればまるで光の鎖のようなものが形成され、一気にティラハールへと襲い掛かった。
鎖が体に巻きつき、獣が更に咆哮し暴れる。
レイリッシュは息つく間もなくもう一本の鎖を編み出し、ティラハールを完全に捕らえると今度は青白い雷光を引き寄せ、何の躊躇もなく獣の身に叩き落した。
それまでの怒りと悲しみにあふれた咆哮ではなく、辺りを震わせたのは獣の苦痛にまみれた悲鳴だった。
「少しばかり頭を冷やしなさいな。おまえと、そしてあたくしの報復相手はまだいるわ……根絶やしにする許可は与えてあげる。我が偉大なる師にして母、おまえの主魔女ルイゼの気配を持つ全てのものを食らうがいい――自らの罪は自らが負うのよ。それは定められた通りに。例外なく」
おいき!
大魔女が微笑を浮かべ、いっそ慈愛深いほどに優しく囁き軽く杖をふるえば、大気を震わせていた巨大なイキモノは瞬時にその姿を消し去り、呆れる程の静寂が辺りを包み込んだ。
耳に痛い程の静寂が。
あたしはレイリッシュの言葉に異を唱えることができなかった。
それは決して反論を許すものではない。
心臓がとくとくと音をさせる。
――……師といい、母と呼んだ。それが見せ付けられたあの遺骸だと気付けば、あたしは口を挟むことなどできなかった。
これは彼女自身の報復なのだ。口出しなどレイリッシュは許さない。
そして残されたのは中空に浮かぶ漆黒の魔女。
彼女は絵物語の魔女さながらの姿で優雅に微笑した。
「――末の魔女、ブランマージュ。
おまえの命をあたくしに捧げなさい」
美しく気高き、そして誰より恐ろしい魔女。
あたしはただ一匹の羊であることにはじめて気付いてしまった。
彼女の手のひらの上の、生贄の羊。
猫だけどね。