106、不安
とんっというわずかな音と共に、ところどころ反り返ったようなくすんだ床板が視界に入り込んだ。
磨いてはいるようだが、もう古くてそこらかしこが傷んでいる。
視界はゆっくりと移動する、うつるのはかわらず安っぽい床板。時々それが近くなったりとおくなったりするを繰り返す。
あたしは眉を潜めた。
何かがおかしい、何かが変だ。
あたしは小首をかしげた。
流れるように動いているのは……
そう思うのと同時、腹が、冷えた――
ここはどこ?
……ここは港町にある唯一の宿屋。安っぽいわりに値段は高い宿屋。
決して豪華ではないし、食事も美味しくないし、どこかから風が入り込む立て付けの悪い小さな宿屋だ。
あたしは時折床板のにおいや空気の香りをかぎながら移動する。
あたしは、あたしは、だれ?
あたしはブランマージュ。
真っ白い子猫。
視界に時折入る、白くて小さな手は毛に覆われている。
床の上を歩くのは肉球つきの愛らしい前足と後ろ足。
まてまてまて! なんで猫? どうして猫? そして何をしているの、あたし!?
あたしは全身全霊を掛けて自分の行動を止めようとするのだけれど、でもまるであたしは猫の体からほんの少しずれているかのような違和感で自分の体をコントロールすることもままならない。
その時のあたしは猫だった。
確かに白い子猫ブランマージュ。
現状、自分では判らないけれど、あたしは間違いなく赤い首輪にふっさりと長い尻尾の白い猫。知ってる? 美猫の条件の一つでね、優雅に座った状態で尻尾がくるりと回って体に巻きついて前足を過ぎるっていうのがあるのよ。つまりあたしって美猫の条件を満たしているのよ! って、んなこたぁどうでもいいわよっ。
こら止まれ。
おまえはあたしだろうっ。あたしの意思を無視すんなっ。
そう必死に訴えてても、白猫ブランマージュはまったく別の生き物のようにとてとてと床を歩み、そしてある寝台の上にとんっととびのった。
くかくかと鼻をしきりに動かして。
「みゃうっ」
嬉しそうに小さく鳴いて、そこで眠る男の腕――掛けられたキルトからはみ出る大きくて無骨な手にすりりと頭を撫で付ける。
決して神経質ではなくて温かな手。
ざぁっと血の気が引いた。血なんて引きっぱなしだというのに更に引く。
辞めろ!
起きたらどうするっ。起きたらマズイだろっ。
辞めるんだっ。
あたしの必死の呼びかけにも猫は動かない。
やがて物慣れた様子でその手が猫の頭をなで上げ、耳の付け根を、ついでそのまま顎下を軽くかいた。
「ブラン……おいで」
寝ぼけた声が言えば猫が嬉しそうに応える。
あたしはぎゃーっと悲鳴をあげているのだけれど、猫は主に呼ばれてその顔まで行くとすりすりと自らの頭を主の顔に撫でつけ、あまつさえその口元を、舐めた。
なーめーたーぁぁぁ。
ぎゃあっ。
辞めろっ。あたしの前で何をする。舐めたりするなっ。
多少はいい。指先程度なら許してもいい。だが口は辞めろっ。
「なぅ」
「ん……」
口元を舐められたロイズはぐしぐしと猫の頭を撫でているが、寝ぼけ全開中。
「ブラン、もぅ寝ろ」
などといっている。
ロイズは平和そうだが、あたしは平和とはかけ離れていた。
判った!
判りましたよ。以前うちの使い魔があたしにはりついた時のエイルの怒りがものすんごく良く理解できました。
ヤツが怒ったのは当然の行動だ。
というかあたしは現在大きな声を発して穴があったら入り込んだあげく、身をちぢ込めて「悪かった。もう勘弁してっ」とわめき散らしたい。
ぺろぺろと主を舐めまくった猫は満足したのかその胸元でぱふりと座った。
辞めろ! 離れろ! ってかもう本当に何これっ。
あたしは気持ち的には体を突っぱねようと身をよじるのだが、猫はそ知らぬ様子でくるりと丸くなって体制を整えてしまった。完全に寝る体制。
寝ぼけている熊――ロイズ・ロックはぽんぽんっと猫の背を軽く叩いてやりながらうつらうつらと寝ている。いや、寝ていていいのだ。寝ていて正解。起きるな。もう永遠に寝てよし。
ロイズが寝ていて、その横で白猫ブランマージュが寝ている。
これって本当はいつもの光景なんだろうけれど、客観的に見ると酷い。なにこれっ、なにこの恥ずかしいのっ!
誰か助けて。神様、仏様、もうこの際悪魔だっていい。
あたしの悲鳴のような祈りは確かに通じた。
――ただし、悪魔に。
すっと影が落ちたかと思えば、隣の寝台のエイル・ベイザッハが冷ややかな様子で猫を見下ろし手を伸ばした。
幸せそうに丸くなった猫が突然の乱入者に目を開け、シャーっと威嚇するように毛を逆立てる。
エイルはそれでも手を伸ばし、その首根っこを押さえ込もうとする。
猫は身をじりじりと動かして臨戦態勢を整えたが、相手の手は容赦なく伸びる。咄嗟に猫は猫パンチを繰り出した。
猫VS悪魔類鬼畜目。
ある意味ものすごい戦いだ。
普段であれば笑ってやる。だが、なんだろうこのうすら寒い感じは。
猫の手がぱしぱしっと二度エイルの手を叩く。
エイルの瞳が剣呑さを増す。
猫の口がぱかりと開き、がぶりとエイルの親指と人差し指の間にかじりついた。
その後エイルがどうしたか?
ヤツは相手が子猫だろうと躊躇せずにそのまま自分の手を猫の口へと押し込んだ。あがあがとなってしまった猫を反対側の手で押さえ込み捕獲し、そのままくるりと身を翻して寝室を出たのだ。
待て! 生贄は勘弁してっ。
あたしは心底あせった。
なんだかそのまま火の中にくべられてしまいそうな雰囲気だった。もしくは川に放り投げられたり。
今、確かにあたしにコントロールはできていませんけれど、ソレ、あたしですからね。可愛い魔女のブランマージュですよ!
判ってるよね、ダーリン?
あたしがひぃぃっと悲鳴をあげそうになっている現状、だがエイルはそのままの足であたしとティラハールとが休むことになっている部屋の扉を開けた。
シャーシャー威嚇音だけは立派に垂れ流している子猫をぶら下げたままの現状で、エイルは左手の薬指につけられた指輪を操作した。
足元に魔方陣が立ち上がる。
その中に子猫を放り込むと、子猫はしゅたりと四足でその中心に立ったままひときわ高い声で威嚇した。
エイルが詠唱する。
更に同時に他の魔道石を起動させていく。
重ねがけの魔道だと気づいたが、今は嬉しいとか嬉しくないとかの問題ではない――風があたしの周りに立ちこめ、身震いするように目をあければ、あたしは現実的なクリアな視界でもってエイルを見上げていた。
脱力に大きく息を吐き出す。
ああ、よかった。戻った。戻ってる!
あたしはちゃんとブランマージュだ。さっきのへんな感覚はない。あたしはあたしの体にいる。いや、しょせん紛い物なんだけどね?
あたしはぺたぺたと自分の顔を触り確認し、安堵のあまり胸に手を当て大きく息を吐き出した。
ああ、人間ってすばらしい!
あたしはちゃんと人間だし、また意識も体もぴったり重なり合っている。
「ブランマージュ? 平気か?」
いぶかしむようにエイルが問いかけてくる。
あたしは自分の髪をかきあげて眉をひそめた。
「平気……平気だけど、あのさ」
「なんだ」
「あたし、今……――確実に猫だったよね?」
「そうだな」
「しかも――猫の間、あたし……あたしの意思でちっとも動けなかったんだけど!」
あたしは言葉にしながらものすごく不吉な思念にとらわれていた。
もしかして、もしかして、もしかしなくても。
「これって……結構まずくない?」
血の気が完全に引いた。ドン引きだ。
――理解していた筈だ。猫の体に魔女の魔力は負担が強く、長くはもたない。
やがて猫が死ぬか……それとも、ブランマージュとしての意識が猫と同化して消え去るか。呆然とするあたしの背後、ぽんっとはじけるような音と共にシュオンが変化し、あたしの体にシーツを巻きつけた。
エイルが露骨に冷たい眼差しをシュオンへと向けているが、今日のシュオンはエイルを少しも気に掛けない様子でシーツを巻きつけたあたしの体を背後からぎゅっと抑えるように縋る。
魔力は足りていた。
けれど、それはすなわち……体には負担だったということだろうか。
あたしの体は勝手に小刻みに震えてしまう。
「あたし――すごく、まずく、ない?」
それを肯定するかのように、シュオンの腕がより強くあたしを抱きしめていた。