105、思惑
ざわり大気がゆれた。
王宮へと続く中央広場の一角にとんっと降り立った赤いドレスの女はばさりと黒紫の髪をかきあげ、濃い目の桃色に染まった唇から吐息を落とし込んだ。
その口元はすぐに不愉快に曲がり、憤りのままにかつかつとヒールの高い靴を打ち鳴らす。
「面倒くさいったらありゃしないわっ」
正規のルートを使い王宮に入り込み、高い塔の扉を乱暴に押し開く。閉ざされたその空間の主へと罵倒のように吐き捨てた。
「なんだってここの結界はバカみたいに広いのよ! 歩くの苦手なのよっ」
アンニーナの屋敷も結界に覆われているが、それでも二階テラスから出入りができるようにしてある。その亀裂を知るものだけが出入りできるように。だがこのレイリッシュの居る王宮ときたら広範囲でしっかりと結界に覆われていて、来るたびに歩かされるのが難点だ。
「文句を言いながら何の用かしら?」
漆黒の魔女は白磁のカップを片手に眉を潜めた。
窓辺、出窓の縁に腰を預けるようにしてお茶を楽しんでいた黒髪の女は、けれどどこか楽しそうにすぐに微笑をたたえた。
突然の来訪者であるアンニーナはぐるりと部屋を見回してしまう。赤を基調とした部屋に、飾られているのは純金の置物や妙な絵という相変わらず趣味の悪さ全開で気持ちが悪い。
こんな場でくつろげる神経が理解しがたく、身震いまで出た。
長椅子に尊大に座っているでかい男は、白髪で胡乱な眼差しを向けてくるがこちらは無視だ。
「いくら呼びかけても返事もしないからよ」
「何のことかしら?」
「いくらあんたの結界が強いからって呼びかけくらい聞こえていたはずよ。それともなに? そろそろ耳が遠くなったかしらね、レイリッシュ?」
「生意気言うようになったわね、アンニーナ?」
レイリッシュは綺麗な微笑みを浮かべ、手の中にある白磁のカップを消滅させた。
「何故、あんな場所にブランマージュを行かせたの?」
低く威圧するようにアンニーナは声を絞り出したが、レイリッシュは指先に黒髪をからめて小首をかしげた。
「ただの遠足よ?」
「――」
「いやぁね、いつからあなたはブランマージュの保護者になったのかしら。自分の快楽だけ追い求めているのがあなただと思っていたけれど、いがいに心配性よね? 大家族って結局弟とか妹とかに甘いのよねぇ」
ふふふっとレイリッシュは笑うが、アンニーナは眉間の皴を深くした。
「あの子には【からだ】を見つけてもらうのよ」
「――あの子のからだ、あの気配はなに?」
「実験よ、実験」
ばれるとは思っていなかった悪戯に気づかれ、レイリッシュはにっと唇の端を持ち上げて笑い、ちらりとその視線を長椅子で怠惰に転がっている白髪の男へと向けた。
「だって、魔女のからだを使って実験なんてそうそうできるものではないでしょう?」
「あんたは! ブランマージュを助けたいの? それともなぶりものにしたいのっ!?」
アンニーナの剣幕にレイリッシュは瞳を見開いてわざとらしく息をつめ、肩をすくめた。
「魔女は貴重なのよ、なぶりものにするなんてとんでもないわ。
十分に利用しないと――それこそ、すべてね?」
「レイっ」
カっと掴みかかろうとしたアンニーナの背後を、ぐっと白髪の男の手が押さえつけた。
「それに、ティラハールをつけてあるのよ。危険などないわ」
「主のいないあんな化け物、ブランマージュの手に負えるけないでしょう! あんただって三日三晩かけて捕らえたのに」
「あら、五日よ、五日。もう腕は千切れそうになるしあの時は本当に困ってしまったわ。でも普段は結構おとなしいのよ。本能と欲望と絶望が合わさった時はちょっと危ないのだけれど」
それに、あの子の喉はつぶしてしまったもの。可愛いものよ。
押さえ込まれたアンニーナが魔力を練り上げようとするが、ここはレイリッシュの領域。魔力がうまくつかめない。ぎしりと歯軋りするアンニーナを、更に男の腕が締め上げる。
「イーシャス、もてなしてあげなさい。
邪魔をされてはたまらないわ。せっかくの遊びですもの……ね?」
「オレは荒事には向かんのだが」
嘆息交じりに言う白髪の男に、レイリッシュは口唇をゆがめてみせた。
「閨事は得意でしょ」
***
「おじさんっ」
子供ってすばらしい。
あたしはもう我慢の限界を超えつつあった。
「おじさんの魔道具は何? どんなもの使うの?」
あたしは今までエイルに張り付く子供など見たことがない。
いや、あたしは別だよ? それにあたしは子供ではありません!
少なくとも町の子供達は幽霊や魔物よりもエイルを恐れていた。だからエイルに向かっておじさんなどという言葉を吐きかけることはおろか、その姿を見ただけで呪われる勢いで避けまくってものだが、この少年ときたらエイルが気に入ったのか、それともただたんに空気が読めないのか、めちゃくちゃまとわりついている。
「……怒ってるんじゃないのか?」
ぼそりとロイズがあたしの耳付近で囁く。
「怒ってるわね。ものすごい負のオーラをだらだらと流しているわよ」
「そうか、オレにも見えてる気がしたんだが、やっぱり気のせいじゃなかったか」
ロイズは口の端を引きつらせて、奇妙な笑いに耐えている。
いや、実際に見えてるわけじゃないからね。そういう雰囲気を垂れ流しているってだけよ。
エイルはギロリとこちらを睨んだ。
「おじさん、何か魔道を見せてよ」
子供の好奇心はただいま絶好調で魔導師に向けられている。
どうやら猫耳猫尻尾の使い魔はどうでもよくなったのかもしれない。
「見世物ではない」
低く唸るように言い、エイルは身を翻した。
「ブランマージュ、おとなしくしていろと言ったろう」
「やぁね、ダーリン。ダーリンの帰りが遅いから心配したのよ?」
嘘ですが。
あたしは口元がにまにまと歪むのを必死に押さえ、ぷかりと浮かんでひらひらと子供に手を振った。
ばいばーい。
君のことは忘れない。一生魂に刻んだ。
エイル・ベイザッハをおじさん呼ばわりした偉大なる少年として!
「嘘くさい」
エイルは不機嫌全開でばさりと言った。
「おまえは何してたんだ?」
ロイズがあとからついてきながら問えば、エイルは更に不機嫌そうに応えた。
「魔物を一匹捕まえた」
……相変わらず手が早い。
「小物だ。つまらぬ」
「おまえにかかればどんなものでも小物になりそうだ」
ロイズは肩をすくめ、あたしの頭にぽんっと手をのせた。きっと同意を求められているのだろう。自然とあたしもこくりとうなずいてしまう。
「ここは空気が悪い――いや」
ふと、エイルは足を止めておもむろにあたしを抱き上げた。
だから、あたしは荷物じゃないからな!
「おまえの周りは違うな。おまえを中心に場が安定しだしている……数日もたてばこの小さな宿屋の付近は場が持ち直すだろう」
あたしは精神安定剤か!
「オレにはちっとも判らないけどな」
ロイズが鼻を鳴らす。
どこか不愉快そうに。
「おまえは鈍感なのだ。魔力、魔法、精霊、そのどれかに触れられるものにとってここは不愉快な空気が充満している。魔力値が欠片もないとはうらやましいものだな。この荒廃を魂で感じることはできまい」
「完全に目で見れるけどな」
とげとげしい会話やめろよ、おまえ達。
本当に仲悪いよな!
エイルに抱っこされている現状。まぁ、こいつの使い魔扱いなので、ある程度は甘受してやるけどさ。
あたしはふと後方――まだ少年がいることに気づいた。
崩れた塀に座るようにしてこちらをじっと見ている。魔導師とかにあこがれているのだろう。
あたしはもう一度ひらひらと手を振ってやった。
少年が笑う。
ひらひらと手を振り返される。
真っ赤な髪と、濃い暗褐色の瞳が随分と目立つ少年。ふと、その足元に白いふわふわとした生き物が見えた。
少年の口が言葉を刻む。
ま・た・ね――
ふふふ、かわいいなぁ。
あたしはさ、子供は好きなんだよ。うん。子供は大好き。
まぁ、魔女は子供産めないらしいんだけどねぇ。
あんまり大言するもんじゃないけど、月のものだってあるのにね。
魔女には何かが足りないのかな。
まあ、いいけどさ。