102、新たなる風
大陸の間を渡る定期便のマストの先端が姿を見せる前に、その気配に気づいた。
荒廃した大陸といわれているが、それでも幾つかの町は存在し、そして外洋船が出入りできる唯一のこの港は一番栄えている場でもある。
石造りの建物が多いのは、木々の数が少なく、天候がころころとよく変わり安定しない為に石のほうが都合が良い為だ。
魔女のいない大陸――
魔女を殺した大陸。
「おかえり」
崩れた石垣に座って遠く離れた海を見つめていた少年は口元にふわりと笑みを浮かべた。
言葉と同時に彼の面前の砂地に、とんっと姿を見せたのはしなやかな体をもつ真っ白い猫だった。
虹色の瞳の猫は「なーん」と鳴いて少年に近づくと、少年の手が猫の頭を撫でてやる。
「おまえはヘマをしたけれど。だけど、まぁ褒めてやる――」
腕の中に猫を抱き上げると、猫は嬉しそうに少年のあご先に頭をすりつける。
「まさかあっちから来るとは思わなかったけどね」
肩をすくめて海へと視線を戻した。海上にゆっくりとその船の先端があらわれはじめる。大気がざわめく。
――楔の無いこの大陸の魔力はとらえどころもなく四散していて、いやな息苦しさを与えるものでしかない。だが、大陸のそこかしこがざわめいている。
何故、大気は、大地は魔女を愛するのだろう。
まるきり人間などどうでもいいというようにそっぽを向く癖に、魔女が一人いるだけでその場の空気すらもかえていく。
喜びだ。
大陸が歓喜している。
なんたるザマだ。今まで必死に大地に花や木々を取り戻そうとしていた人間達の努力をあざ笑う。
まったくもって腹立たしい。魔女がいればそれで良いなどというのであれば、杭で打ちつけて生涯はなれぬように大地にくくりつけてやればよい。
少年は嬉しそうに言った。
「おまえ達に魔女をやるよ。ぼくの魔女だ――ぼくの使い魔が産み落とした子供なら、ぼくの魔女だ。なぁ、そうだろう?」
***
「納得できるか」
翌朝、一番怒っていたのはロイズだった。そしてエイルは風邪が治ったようだけれど昨夜は相当疲れた様子で今もまだ寝ている。
もともと朝は弱い人間なので何の不思議もないが。
結局あたしは自分で報復活動にいたらなかった。あのあとファルカスは三度程えらい目にあっていた。
それはそれは楽しそうにエイルはファルカスをいたぶり、あたしとアンニーナはそれを眺めるのも耐え難くなった。
――てろんてろんっつるんっとした半透明の内臓だけ見えちゃってるような奇怪なゼリーのようなヤツに人間がはむはむかじられている姿を誰が見ていたいでしょうか? 足の腱を断ち切り、絶対に死なない程度にナイフで傷をつけて時間を掛けてゆっくりと蛇のような――ようなっていうのは、胴体は蛇なのだけれど、トカゲのように足も手もあってなんかもぉものすごく粘液がある生き物でした――魔物にゆっくりと締め上げられるのを見ているだけでこっちが拷問受けてる気分になった。
エイル・ベイザッハ――拷問官かお前は。
あの後でどうぞといわれてもあたしとしてはもう完全辞退の方向だ。あたしは二・三度剣で貫いて、治療して、貫いて治療してくらいしか思っていなかった。それでもちょっと酷いかなと思っていたのだが、エイルは一欠片程も良心の呵責など覚えていなさそうだった。
嬉しそうだった。ものすごく。
まるで新しい玩具を手に入れた子供のようにいっそ無邪気に楽しんでいたといってもいい。
ストレスがあるのかもしれない。
それともそういう性癖だろうか。あいつ、もうなんか絶対色々と駄目だ。駄目人間。
そんなこんなで、ファルカス10回半殺し計画は途中で頓挫した。泣いて「もう許してください」と懇願されたし、こちらとしてももう見ているのも疲れた。
エグ過ぎた。
結果――ファルカスの言葉の通り、体で奉仕してもらうことにしたのだった。
大陸にいる間中奴隷のようにコキ使ってやる。エイルはいやな顔をしたが、ソレ以上の口出しはしてこなかった。おそらくヤツはすでに疲れていたのだろう。
「あんたってば突然寝ちゃうなんて、きっと疲れてたのねぇ。まぁ、あんたの努力のおかげでエイルも治ったみたいだし。よかったよかった」
「ブラン!」
熊こわっ。
あたしは遥か上から怒鳴られ、きゅーっと耳を伏せて――目元に力を込めた。
泣け、泣けあたし! 涙よでろ。今出ずしてどうする。
あたしは目元に一生懸命力を込めた。
いでよ必殺泣き落としっ。
しかしあたしは女優にはなれないようで、生憎と涙は出なかった。ここは一発目じりに一杯涙をためてぽろぽろとこぼしつつ「おこっちゃやだー」と、子供らしさ全開でやりたかったのだが、やるまでもなく熊は折れた。
歯を食いしばるようにして「くそっ」と吐き出すと、その怒りを込めるようにがんっと屑入れを蹴った。屑入れは木製の素晴らしい彫刻をされた品だったが、木っ端微塵になりはてた。
その激しさに身がすくむ。
ロイズは憤りを抱えたまま前髪をかきあげ、ふるりと一度首を振った。
「ブラン」
「……ごめんなさい」
「おまえは悪くない」
苦しそうに吐き出された言葉にあたしは――先ほど嘘泣きで乗り切ろうとした自分を恥じた。あたしが思うほど今回のことをロイズは軽く見れないようだ。
耳を伏せたままのあたしを見下ろし大きく息を吐き出し、ロイズは長椅子に乱暴に座ると、手を伸ばしてあたしを持ち上げ膝に乗せた。
胸に抱きこまれて頭が撫でられる。
飼い猫にするようにするものだから、あたしにはちゃんと判った。おそらく飼い猫のかわりにあたしを見立てて癒しを求めているわけだ。
心がとげとげだね。
耳と尻尾がついてるからってあたしはあんたの飼い猫じゃないのよ――いや、飼い猫だけどね。ああややこしい!
体毛の代わりにあたしの髪を何度も撫でて、頭に顎をのせてくる。
あたしはロイズのとげとげしい心が穏やかになるように勤めていた。
「もう、帰ろう。船をおりずにもどろう。どうしてお前が厄介事に首を突っ込まなきゃいけない? 魔女は好き勝手に生きるもんだろ? 宮廷に属しているのはあの漆黒の魔女だけで、おまえは関係ないじゃないか。確かに乞われれば魔女は魔物退治とかするんだろうよ。だが、断ることだって自由だ。そうだろう?」
――魅力的なお誘いですが!
あたしはふるふると首を振った。
「あんた先に帰っていいわよ? 幸い? ファルカスっていう手下も手に入れたことだし。なんとかなると思う。ティラハールとも意思の疎通ができないわけじゃないみたいだし」
ロイズは眉間の皴を深くした。
「おまえも帰るんだ」
「それは無理」
だって、ココにあたしの体があるかもしれないんだもの。もちろんないかもしれない。ない確率のほうが高い。はっきりとしない情報だけど。
いらいらするような空気を吐き出し、ロイズはふいにあたしをぐっと抱きしめた。
「判った。付き合う」
「いや、帰っていいから」
人手は足りたからね。
カスといえども手は手だ。猫の手より役に立たないなんてことはないだろう。
「オレが邪魔か?」
邪魔って。
あたしは溜息を吐き出した。
「あのね、あんたが心配なのよ。あんたは一般人でしょ? 今回騙しうちのように連れてきちゃったけどさ、でもあんたが怪我したりとかイヤなのよ。帰っても支障がない状態なら、帰ってもらったほうが安心」
「オレが心配なのか?」
「そう言ってるでしょ?」
あきれるように言えば、ロイズはふっとそれまでのいらいらとした空気を払拭させた。
「オレもお前が心配だから一緒にいるよ」
あーもぉ理解しないヤツだなぁ。
魔女を心配してどうするんでしょうね、この一般人め。
腹を裂かれたって平気なのよ? 確かに多少危険だったというのは認めてあげてもいいいけど。
あたしは深く深く溜息を吐き出し、もそもそとロイズの膝で身じろいだ。
「判ったわよ。んじゃちょっと離せ」
ぺしりと手をたたいて身動きが取れるようにすると、あたしはゆっくりと自分の体内の魔力を練り上げた。
「ブラン?」
「お守り代わりよ――」
あたしはロイズの唇に軽く触れて、唇を触れ合わせたまま囁いた。
――魔女の慈愛と加護を。
アンニーナがファルカスに施しているだろうと思われる魔法のひとつ。相手に何か異変があった場合にすぐにかけつけられるようにと印を付ける。
あとでエイルにもやっておこう。
――って! あたしの羞恥心はどこに消えた?
こうやって魔女はキス魔になっていくのか?
そう気づいたのは、硬直したロイズから離れてしばらくして――大陸間定期巡回船が目的の大陸の桟橋に接岸し、汽笛を高らかに鳴らした頃のことだった。