日常に雨音と
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
何もできないから雑用をさせておけと言って厨房に預けたが、皿洗い、シルバー磨き、野菜を洗うことから皮を剥くことまで、そこそこ出来たらしい。
少年は何もできない雑用から頼りにされる雑用にたった一週間で成り上がってみせた。
「帰るぞ。」
厨房まで迎えに行くと少年はじゃがいもの皮を剥いていた。
もう少しで終わりそうなので、その手元を眺めながら待つ。
終わったなら帰る支度をして来いと告げる。
「明日はこいつも休みだ。雑用を奪って悪いな。」
悪びれてない!と料理長がゲラゲラ笑いながら突っ込みを入れてくれる。
明日の休みは家でゆっくり過ごす。
あの包丁捌きなら料理の下拵えも簡単に熟せるようになる。
独り立ちした時に料理はできた方が便利だからな。
明日は料理を教えてやろうと算段する。
「何か食べたいものか、好きな食べ物を挙げろ。」
帰りの馬車の中で訊ねる。
「……野菜?」
確かに好き嫌いせず出したものは何でも食べていたが、まさか野菜とは。
どうりで細いわけだ。
「……今日、野菜のスープの作り方を教えるか。あとは肉と魚と、卵と、米にパンだな。」
この後立ち寄る市場で買う物を考える。
道幅はそこまで広くない。
だから連れて行く護衛はひとりだけ。
それを決めるための勝負が目の前で繰り広げられている。
少年はそんなくだらないものを楽しそうに眺めている。
最近やっとで笑うようになったんだ。
こいつらにも感謝だな。
決着がなかなか着かずに唸るふたり。
面倒になったので、徐にふたりの前に手のひらを差し出す。
「お手。」
ふたりは瞬時に飛びついたが勝負は付いた。
心なしかそれを見る少年の顔が仲間に入りたそうに見えた。
少年と、先に手を乗せた方を連れて市場に入る。
残された方はハンカチで涙を拭っていた。
こうして買い物をすることには慣れたものだ。
次は食べ歩きでも教えようか。
護衛が籠を持ち、俺がそこに投げ入れる。
少年には買い物の仕方を教えている最中だ。
野菜が好きならば、新鮮で美味しいやつの選び方も併せて教えてやらねばなるまい。
解説しながら通路を進み、時には少年に選ばせる。
先程から不躾に向けられるあからさまな視線がいくつもあることには気付いていたが敢えて黙っていた。
だがもうほとほと嫌気が差した。
「こいつはうちの新人だ。よろしく頼む。」
唐突に大声を張り上げる。
嫌な視線の送り主共には、ひとり残さずしっかりと睨みを効かせることも忘れない。
そして少年の背中をバシンと叩く。
よろしくお願いします。と綺麗に一礼して見せた。
護衛がそれを見て口笛を吹く。
「さすがだな。」
一朝一夕には真似できないような、呆れるほどに綺麗な一礼。
溜め息を漏らすご婦人方もいたようだな。
護衛に便乗して少年の肩を抱き耳元で囁く。
俺の顔は、貴族平民問わず大勢に割れている。
少年の顔は貴族であれば見知った者もいるだろうが、ここは貴族がくるような市場ではない。
だからここでは俺の権威を諸に被せておく。
こいつに手を出せると思うなよ。
他人から向けられる多様な思いを受け流す胆力はすでに備わっていそうだなと感心する。
さすが、貴族だ。
大声を出した時に居た店の店主に騒がせて悪かったと詫び、商品を選び色を付けて会計を済ませ、馬車に戻る。
付いてきた護衛が、少年の毅然とした市場での振る舞いを居残った方に語って聞かせる。
意気揚々と語る護衛に、英雄凱旋と感嘆の声をあげたり頬を赤らめながらきゃっと顔を隠したりと忙しい語られる護衛。
恥ずかしいのはこちらだと、もういいだろと護衛ふたりを止めることに奮闘する少年。
微笑ましくそれを眺めているうちに自邸に着く。
明日はお前たちもしっかり休めよと告げ別れる。
買い物袋をそれぞれひとつずつ抱え玄関へと向かう。
「作れるようになりたいものがあればそれを優先して教えるぞ。」
少年が真剣な面持ちで悩み、導き出した答え。
それは目玉焼きだった。
自然と笑いが込み上げる。
「そんなんでいいなら、いつでも作ってやるよ。」
ははっと声に出して笑う。
キッチンにふたりで並び、卵の割り方から教えてやる。
フライパンの大体の火加減に、油と。
卵を落とした後は焼き加減。
そして最後に、食えればなんでもいいんだ、適当でいいと付け加えておく。
そして野菜と牛肉の入ったスープも教える。
塩と胡椒で大体なんとかなる、適当でいいと付け加えるのも忘れない。
年頃の少年には些か物足りなく感じるメニューになったが、それを満足そうに食べるのを眺める。
どちらともなく自然と、夕飯を食べたら暫くリビングで寛ぐ。そして眠くなったらお互いの部屋に引き上げる。話したり話さなかったり。そんな習慣には早くも馴染んでしまったようだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今日は寝たいだけ寝たらいい、起きたら簡単な食事を取ったり、本を読んだりすればいい。
そう伝えてあったのに朝起きてキッチンへ行くと少年はもう起きていた。
そしていつ起きてくるかわからないだろうに、朝ご飯の準備をしていてくれたらしい。
教えたばかりの目玉焼き。
こちらにはまだ気付いていない。
その後ろ姿に、胸の中を温かいものが満たしてゆくのを感じる。
気付かれるまでここで暫く眺めていよう。
血液が集まるのは腹の底ではなく胸の中。
暫く感じたことのなかったものなのか、初めて感じるものなのかもわからない。
少しだけの居心地の悪さもある心地良さ。
自然と頬が緩み、口角がふんわり上がる。
ここには少年が温かいと感じるものもあるだろうか。
この心地良さを少年も味わえていればいい、とそう思った時。
徐に少年が振り返る。
恥ずかしそうに挨拶を口にする。
それがまた擽ったくて、それを気取られそうで近寄れない。
壁に凭れたまま挨拶を返す。
後ろからそっと抱きしめ、あの首筋に噛みついたなら。
どんな艶やかな反応を見せてくれるだろうか。
少年が作ってくれた目玉焼きは自分で作ったものよりも美味しかった。
昨日の残りの野菜のスープと市場で買ったパンとで朝食を済ませる。
朝ご飯の礼にと珈琲を淹れてやる。
後味が、深い余韻に甘さが漂うお気に入りの豆を挽く。
少年のお気に入りはまだ探している途中。
これまでは紅茶を飲む機会が多かったらしく、珈琲を物珍しいそうに楽しんでいる。
今日もゆっくり本を読んで日がな1日を過ごすことにする。
外はさぁさぁと雨が降っている。
こんな日は雨の音にレコードの音を溶かし込むのが良い。
少年は部屋に戻るようだ。
昼ご飯にまたと言いリビングを出て行った。
それを見送りお気に入りのピアノ曲が入ったレコードを選ぶ。
雨音に溶け出すメロディ。
ソファで寛ぎ、リビングに置きっぱなしにしていた本を開く。
ピアノの音も雨の音も、本を開くと遠くなった。
そして読み終わった本を持ち書斎へ向かう。
それは少年の部屋の隣。
静まり返った廊下を渡り、書斎へ入る。
本棚へ本を戻そうと手を伸ばす。
雨音に混ざり微かに聞こえる掠れた吐息。
途端、息が止まる。
耳を澄ませると聞こえてくるのは、ピアノのメロディよりも甘い息遣いと、うるさい鼓動。
本を静かに差し込む。
そしてタイトルを見もせず一番手に取りやすい場所に横置きしてあった本を掴む。
もう少しだけ。
そう思い息を潜めて佇んでいたことを思い出したのは、少しだけ高く荒い息を吐き出す声が聞こえた時だった。
思い出した呼吸。
酸素を寄越せと心臓がうるさく跳ねる。
少年は守るべきか弱き者だ。
性の対象にしてはいけない。
改めて戒め、落ち着きを取り戻しから静かにリビングへと戻った。
汗をかいたであろう少年のために昼ご飯には少し塩の効いたものを出そうと算段する。
そう思い用意したソーセージに今晩のお愉しみまで用意されることになろうとは思いもしていなかった。
フォークで刺した一本もののソーセージに齧りつく俺に目を丸くする少年。
「あぁ、行儀が悪かったな。切ってから食べるのがマナーだろうが、家では好きに食え。」
素直に頷きソーセージと向かい合う。
しかしやはり躊躇われるのかなかなかフォークが刺せない。
それが可笑しくて笑った。
これまた行儀が悪いことだが自分のフォークで少年のソーセージを刺し、少年の口元へと差し出す。
それにまた目を丸くする少年。
笑いながら食べるよう促す。
こちらを上目遣いにちらと見つめてから、おずおずと開く口。
小さな口から覗く白い歯と赤い舌。
そして頬張る。
噛み切った唇は脂でてらりと光る。
それを舌で舐め取りながらこちらを伺う。
「……家以外では絶対にやるなよ。」
それをどう受け取ったのか、少年は家でもナイフで切って食べることを止めなかった。
齧り付き、貪りたい唇だった。
「次の休みにはメイドと庭師が来る。触られたくない物はサイドテーブルに仕舞っておくように。」
休日の自宅はあまり気が休まる場所ではないと悟ったため防衛策を取ることにした。
食事の後はゆったりとリビングでピアノ曲を聞いて寛ぐ。
今度はピアノに合いそうな紅茶を添えて。
そして微かに少年の指先が鍵盤をなぞるように動いていることに気付く。
今度ピアノを買いに行こう。
心がふわりと軽く浮き上がるようだった。
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