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縄の跡はクラヴァットに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
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最終話



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「抱いてください。」


「断る。」


「後生ですから。」


「断る。」


「抱いてほしいんです。」


「断る。」


「これを思い出に一生を生きて行きますから。」


「勝手に思い出にするな。」


デュランに縋り付くのは正式な方の秘書で、育児休暇中の秘書だ。


髪も服も、精神も乱れている。


「一回でいいんです。あなたに抱かれたいんです。」


最早泣き出しそうだ。


「おい、嫁。この阿呆をなんとかしろ。」


「断る。最高じゃないか。一回くらい抱いてやれよ。」


「……苦手なんだよ。」


「確かに似合わないな。」




そんな会話が秘書宅の前の通りまで轟き、後に隣近所の方々から憐れまれ優しくされたことをきっかけに近所付き合いが濃くなる秘書。


その秘書は現在、産まれた子どもに名前を付けてくれと頼んだデュランに断られ、それならばせめて抱いてやってくれと懇願しては断られるを繰り返している。


今日は産まれてからひと月も過ぎ、落ち着いた頃合いだろうと誕生祝いを持参した次第。


母子共に健康でなによりである。


躊躇なく自然に抱き上げあやしたのは護衛ふたりとアレン君。


駄々を捏ねているのは会長ひとり。


かく言う私も抱き上げお祝いを述べさせていただきました。お馴染みの御者です。


会長は上の子どもたちの時も抱き上げなかったらしいので、きっと今回も同じ結果になるのでしょう。


アレン君が何も言わなければ。


アレン君が転職してから半年ほどは日々擦り切れてゆく会長の背中に、何度急襲を掛ける妄想をしたことでしょう。


一年経つ頃には殆ど以前と変わりないように回復されていましたが。それでもまだ何とかぎりぎり一撃だけは入れられるんじゃないかという錯覚は残っていました。


決まった日程で休日を取り、食材も買い込み、きちんと食事を摂ることもできるようになったらしく、ゆっくりと復調を見せていました。


普段から痺れる色気を醸し出している会長ですが一年半も経つと、哀愁漂う会長もクるよね、と影で噂されるほどそれを雰囲気に馴染ませていました。


そんな会長の色香にようやっと私たちが慣れた頃に急遽帰還したアレン君。


まさか嫁として帰ってくるとは思っていませんでした。


月に一度、役所へ立ち寄るという習慣ができたのはアレン君が転職してからすぐのことだったと、今になって気付きました。


まさかあれが嫁として迎え入れるための準備だったとは。


帰還からの蜜月。


あの1週間は全職員仕事に身が入らないようでした。


私は役所や診療所へ同行しましたので、おふたりが外に出ていることを知っていましたが、プライベートなことを知らない職員たちは常に身体が火照って仕方ないという感じでした。


きっと今日も朝から晩まで飲食も忘れ淫欲に耽るのだろう。きっと今頃も。


なまじ本人たちを知っているせいで妄想が捗って仕方ない、というのが会長たちと割合近しく接している職員たち“被害者の会”の言でした。


アレン君を羨む職員も男女問わず多かったので、嫌がらせ等にも念のため警戒していたのですが。


蜜月を終え出勤されたふたりを見て、無作法をする気も、横恋慕も木っ端微塵に吹き飛んだことでしょう。


いくら取り澄ました顔を作っていても、柔らかく愛おしげに緩みきった表情でアレン君を見つめ話しかける会長。


それに恥じらいながらも甘えるように答えるアレン君。


見ているだけで、同じ空間にいるだけ濃密に濃厚に振り撒かれる色香に、咽せるほどでした。


実際、鼻血を流し退室した職員もいました。


そして“被害者の会”は名を改め“いつくしむ会”へ、設立からたった1週間で理念を転回させました。


業務仕様のおふたりであの空気なのです。


ふたりきりになった時のことを考えると恐怖で鼻血が流れ出そうです。


そして護衛ふたりの存在に過去これほどまでに感謝したことがあったでしょうか。


まるで空気清浄機。あの巨体からマイナスイオンを放出し、咽せ返るほどの色香を希釈してくれるのです。


同じ馬車の個室に平気で一緒に乗るとか色んな意味で常軌を逸してる、等と発言したことのある職員は大いに反省し陳謝していました。


空気の薄い高山仕様のおふたりと同じ空間に居られるように、私は少しずつ身体を慣らしてきました。


だからそろそろ行けると思うんです。


聞かれたら即答できるように、瞬発力も磨いておきました。



「今日は


「高級ステーキが食べたいです!」


……決まりだな。」


会長が自炊する回数を増やすごとに遠のく高級ステーキ店。


もう2ヶ月は食べに行っていませんでしたからね。


その後、同行したい秘書夫妻と会長で2対1の乱闘が始まり、室内での器用な大乱闘を治めるべく折衷案を提案しました。


「昼の時間帯に子どもを預けてゆっくりと食事を楽しんではいかがですか?」


もちろん、私が馬車を出します。


「それだな。上の子どもたちは保育所だな。新生児は娼館に預けるか。」


乱れた髪を撫で付け、ネクタイを締め直しながら会長が賛同してくださいます。


夫妻は投げ飛ばした家具を直しながら渋々賛同を示します。


わかります。


口とお腹がステーキになってしまったんですよね。


後日とか言われて落ち着けるはずもありません。


新生児はしっかりと護衛ふたりに守られていて無事でしたが、会長の戦闘を目の当たりにしたアレン君は……ちょっとダメそうですね。


早くお家に帰してあげたいんですけど、私もステーキが掛かってますからね。


今は身悶え上気していることに気付いていない振りをしてしまいます。


多種多様な熱気に包まれたこの空気を引き締めなくては。


「ステーーーーーキ!!」



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



初めて歩く市場。


立ち止まったのは果物を扱っている店。


果物ならば調理の必要もなく、皮を剥けば食べられる。


ならば何を買おうか、と商品を手に取りながら悩んでいた時。


とんっと肩に軽い衝撃があり、手に持っていた林檎を地面に落としてしまった。


ぶつかった相手にも店主にも伝わるようにすみませんと声に出し、すぐに拾おうとしゃがみ込む。


すると拾う寸前で落ちた林檎は奪われた。


「店主、林檎を30個頼む。10個は少年に。」


見上げたそこに居たのは、さっき見かけた要注意人物。


黒いロングコートに黒い中折れ帽。


見るからに住む世界の違う人。


注文された店主はすぐに林檎を紙袋に放り込み、そのひとつを持たされる。


黒いロングコートのその人も紙袋を受け取り、お金を渡す。


「悪かった。これは貰っていくぞ。」


そう言って掲げて見せたのはさっき落とした林檎。少し凹み汚れていた。


それを自分の紙袋に入れ、にかっと歯を見せて笑った。


そしてお礼も言えないうちに、その人は護衛たちと立ち去った。


その笑顔に惹かれ後ろ姿を見えなくなるまで見送った。


と、料理長にそこまでを語って聞かせた。


どこで会長と出会ったんだと聞かれ、その日のことを教えた。


もちろんデュランは覚えていない。


丸太の如き両腕を組み、料理長は天を仰ぎわっはっはと笑った。


「今日帰る前に厨房に寄りな。結婚祝いのケーキを用意しておく。」


そう言うと優しい微笑みを浮かべる凄腕調理人。


「林檎の花言葉、知ってるか?」



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



今日は雨が降っている。


こんな日は家に居たい。


「待て。」


玄関ホールで出掛ける直前に服装のチェックをしてくれているデュランの声に、素直に従う。


壁を背に、ぴしりと直立して見せる。


正面に立ったデュランが首元のクラヴァットを直してくれているらしい。


今ではもうトレードマークになったそれ。


「……痛むか?」


微笑んでゆっくりと首を横に振る。


痛むのが良いから。


少しだけクラヴァットを緩め、首筋に顔を埋める。


真新しい縄の痕。


ひりつくそこに冷たい唇を感じる。


ひりつきを抑えつけるように強く吸い上げられる。


唇が離れた途端に煽るひりつき。


あがりそうになる呼吸を必死で抑える。


吸い上げたそこを、縄の痕を指先ですりりとなぞってからクラヴァットを締め直してくれる。


その顔に見逃したくない何かがあり、ただ見上げ見つめる。


これでよし、と頭を撫でられる。


見逃したくない何かがまだ何かわからないから。


デュランのネクタイを握り締め、そのまま引き倒すように後ろに体重を掛ける。


すぐ後ろにあった壁に背をつく。


咄嗟のことでも難なく反応して見せたデュランは肘を壁に着き、僕を押し潰さないように隙間を作ってくれたようだ。


それを確認してから更にネクタイを引く。


「……キス、して、」


最後まで言い終わらないうちに降ってきたのはキスの雨か嵐か。


向けられる眼差しは暗く獰猛さを滲ませている。


それを視線で絡め取る。


デュランの吐く息が熱い。


ネクタイを引いていることで首が圧迫されているのかもしれない。


でもその熱い息が飲みたい。


もっと。


下へ、下へと引き寄せる。


ネクタイを握ることでできた身体と身体の隙間。


今度はその隙間が恨めしくなる。


ネクタイを放り捨て、首に腕を回し身体を引き寄せ隙間を埋める。


デュランも壁の間に腕を入れ腰を抱き寄せてくれる。


僕の両脚を押し拡げるように差し込まれた太腿に素直に体重を預ける。


堪らず漏れる吐息。


さっと抱き上げられ廊下を進む。


「……今日は休む。雨だからな。」


賭場の受付へ電話を入れたらしい。


そしてリビングのソファへ掛けるデュランの太腿の上に乗せられる。


さっきまでの激しさは一旦鳴りを潜めた。


そして贈られるのは、聞こえてくる雨音と同じような軽さの淡く優しいキス。


さぁさぁと降り注ぎ、屋根伝いに滴る雫は時折りぴちゃん、ぴちゃんと落ちる。


雨は静かに地へ再び戻ってゆく。


次第に雨脚が強くなり、雨の礫が窓を打ち、風が唸る。


深く熱く攻め立てる、雨脚に負けないようなそんなキスを。


地を激しく打つ雨は次第に行く先を失う。


雁字搦めにしては、溶け合う榛色と琥珀色の瞳。


縄の跡はクラヴァットの下でじりじりと熱を上げてゆく。


もっと、ひどい嵐になればいい。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



拙作ですが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。

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