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縄の跡はクラヴァットに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
22/25

今日から(デュラン視点)

アレン視点と内容は同じです。

お好きな方をお読みください。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇


起きるとベッドにアレンは居なかった。


まだまだ朝と呼べる時間帯。


シャワーを浴び、服を着替えキッチンへ降りてゆく。


キッチンに立つアレンを見つける。


立ち止まりその背中を眺める。


前にもこうして過ごしたことがあった。


あの時にはまだ自分の気持ちがわかっていなかった。


それでもそこに居ることに喜びを感じた。


あの時に感じたもどかしさも今ならわかる。


今は、自分の生活にアレンの存在がしっかりと根を張ってゆくような満足感と安心感を感じる。


軽く頭を下げ、手元に集中する後ろ姿。


シャツの襟と、髪の毛の隙間から覗くうなじ。


気配を消し、作業がひと段落するまで眺めて待つ。


どうやらスープを作ってくれているらしい。


鍋に切った野菜を放り、火を着ける。


そこまでを見守り、足音を立てない様背後に近寄る。


そして背中から包み込むように抱き締める。


そしてうなじへキスをひとつ。


そうだ。ずっと、こうしたかった。


これができないことへのもどかしさだったのかと、自分を嘲笑う。


「早いな。」


そこに居ることが嬉しくて、そのことに感謝を伝えたかったような気もするが、それは照れ臭くてまだ無理そうだ。


「……目が冴えてしまって。キッチン使わせて貰いました。」


顔は見えないが耳や首筋が赤くなっている。


「もうお前の家だ。好きに振る舞えばいい。」


お腹に回した腕へおずおずと指先で触れる。


「……ありがとうございます。」


「言葉遣いも家では好きにしろ。」


「……はい。」


「今日は何かしたいことはあるか?」


俺がしたいことは決めてある。あとはアレンの希望と都合次第。


そこで徐にこちらを振り返り、仰ぎ見る。


「戸籍の申請に行きたいです。」


なんだそんなことか、と呆気に取られた。


「あなたの気が変わらないうちに急いで出してしまいたいんです。」


なるほど。それは俺の台詞だったのかもしれない、と得心がいく。


「わかった。電話してくる。」


真剣な眼差しで見つめてくるアレンのおでこにキスをしてから、電話を掛けるためにキッチンを離れた。


昼前に秘書が来ることになった。それまでに書類を書き上げておかなければ。


もう一箇所、電話を入れてからキッチンへと戻る。


そしてアレンが作ってくれた朝食を食べながら今日の予定を伝えておく。


「夕飯に客を呼んだ。帰りに買い物に立ち寄るから、何か欲しいものとか、食べたいものがあれば考えておけ。」


「わかりました。……お客様はどなたなのでしょうか?」


「メイドと庭師の夫婦だ。お前に会いたがってたからな。」


すぐに首肯する。一回しか会っていないから忘れていても仕方がないかと思ったが、覚えていたようだ。


「それと、ふたりが帰ってから、ピアノを弾いてほしい。」


今日したかったこと。


ずっと忘れられなかったアレンのピアノ。


突拍子もない頼みだったからだろう、とても驚いた顔をしている。


「もう弾けなくなったか?」


2年間全く鍵盤に触れることがなかった可能性もある。


それにゆっくりと被りを振る。


「そうか。楽しみにしてる。」


本当はヴァイオリンも聴きたい。


でもそれはまた今度だ。


照れるようなことは何もなかったはずだが、アレンの顔はまた赤くなっていた。


アレンには書類の準備を任せ、朝食の片付けと食後の珈琲を用意する。


書類を難なく仕上げたアレンの待つリビングへ、珈琲と残してあったチョコレートケーキを切り分けて持ってゆく。


「……ラズベリーに花言葉なんてないよな?」


食べたことで思い出してしまったので、一応聞いておく。


「ありますよ?」


聞きたくはないが、一応聞いておく。


「知ってたりするか?」


知っていて欲しくはないが、一応聞いておく。


「……愛情、それと、深い後悔……ですね。」


思い出さなければよかった。


またやられた。項垂れるしかなかった。


「どうかしましたか?」


見兼ねたアレンが心配そうに訊ねてくるが、それに首を振る。


「前も花言葉に恨み言を詰め込まれてな……お前、料理長に愛されてるな。」


今回は後悔しない結果にできたはずなのに、なぜか料理長に詰られているような、叱責されているような気がしてしまう。


今日の夕飯でふたりにも振る舞えば食べ切れるはずだ。


一刻も早く視界から消してしまおうと、大口を開けそこへ詰め込んでゆく。


反して、アレンは丁寧に味わうように少しずつ食べてゆく。


「うまいか?」


そんなことを聞かなくても、顔を見れば美味しいと言っているのは一目瞭然なのに聞いてしまった。


それにまた照れるように、はにかみながら頷く。


雰囲気は2年前とすっかり変わってしまっているのに、こうして変わらず残っているはにかむような笑い方を見ると少し擽ったく感じる。


今日は夜までキスも我慢するつもりだ。


だからあまり可愛い笑顔を向けないで欲しい。


俺の部屋の衣装部屋にアレンの服を一緒に収めるべきか、隣の部屋と繋げて新しくアレンの衣装部屋を作るべきか、そんなどうでもいいことに思考を転回させ、秘書が来るまで冷静さを保つよう努めた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



今日は秘書に護衛に就いてもらって出掛けることにしたが、そういえばこの3人で馬車に乗ることは殆ど無かったな、と馬車に乗ってからそんなどうでもいいことに気付いた。


「アル君、向こうの部屋はどうしますか?」


秘書が名前を呼ぶのを初めて聞いたが、そんなことよりもその返答が気になる。


「いくつか取りに行きたいものがあるので、それまでは。その後は家具を残したままの状態で家主に返還しようかと思ったのですが、いいでしょうか?」


家具を買った俺の承諾が欲しいということか。


「好きにしろ。」


それに頷くふたりに追加で伝える。


「院長にも挨拶に行くから、その時だな。」


しっかり自分が同行するつもりだと伝えておく。


なんだかこのふたりも前より親密そうなんだよな、と思いを巡らせ失敗する。


そうだ、俺はこいつらに嵌められたんだった。


陰で何度も会ってやり取りをしてたはずだと思い至る。


こいつの近況でも教えてくれればよかったのに、と心でぼやき己の女々しさに更に打ちのめされ項垂れる。


そんな胸の内を知らないふたりには何事かと心配されるが、放っておけと手を振り答える。


余計に格好の悪さが露呈してしまいそうだ。


役場では、恙なく書類は受理された。


アレンがどういうつもりだったかは知らないが、俺の中では正式な嫁、アレン・ガルシアになった。


食材の買い込みにはいつもの市場へと立ち寄った。


懐かしさからかアレンは周りを嬉しそうに眺めていた。


そして買い物を済ませ、家へ帰り着く。


「……明日も休みだな。」


秘書にそう告げた。特に何かすることがあるわけではないが。


「今日から1週間、会長は蜜月だと全職員に通達してありますので、出勤は1週間後で構いませんよ?」


「おい。さらっと蜜月を通達するな。」


秘書は仕事はできるが、頭のおかしなところがある。


きょとんと不思議そうにする秘書。


「おい、嘘だよな?」


「はい、1週間後で間違いありません。」


「……そこじゃない。全職員に共有されてないよな?」


きょとんと不思議そうにする秘書。


「嘘だろ。」


天を仰ぐ。


「アル君に下心を抱く馬鹿野郎がいた場合、それが会長に知られれば本人の命は恐らく無いでしょう。それでは困るので、きちんと全職員に通達しました。」


天を仰ぐ。泣きそうだ。


「……なるほどな。」


確かにかなりの牽制にはなるだろう。


秘書として各所を連れ回せば、いずれわかるやつにはわかるだろうとは思っていたが。


アレンも一緒にそこまでを企んでいたのかと目をやるも、そうでは無かったらしい。


真っ赤になってわなわなと震え、口は半開きだ。


道連れにして悪いな。


秘書に向き直る。


未だきょとんと不思議そうにしている。


その頭を撫でる、ように見せかけ後頭部を鷲掴み、頭突きを一撃。


「今日は助かった。気をつけて帰れよ。」


痛みに悶絶する秘書を馬車へ放り込み送り返す。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



未だ震えているアレンを担ぎ上げようかと悩んでいると、そこへちょうど今夜の招待客たちが到着する。


馬車から降りたふたりを待ち構えていたと思ったのだろう、一瞬喜びを見せるも震えているアレンに気付くとそれも消え失せた。


「坊ちゃん!!何をしたんです!?」


オールワークスメイドのマーサが憤怒の形相で迫ってくる。


「俺じゃない。秘書だ。」


両手を挙げ降参を誇示する。


アル坊ちゃん、大丈夫ですか?と肩を支えている。


庭師のエドが、それで?と促してくる。


「商会の職員全員に、アルは俺の嫁だと通達を回したそうだ。」


肩を竦めながらそう伝えると、それを聞いた途端アルが顔を覆い隠し蹲ってしまった。


「おめでとう。」


エドはそう言うと俺の肩を褒めるように叩いた。


マーサはアレンの背中を摩りながら喜べばいいのか心配すればいいのか悩ましそうにしていた。


エドに紙袋を預け、空いた両腕で蹲ったアレンを抱き上げる。


抱え上げても顔を覆い隠したまま震えているアレンに愛しさと笑いが込み上げる。


「一旦部屋に戻るか?」


念のためそう訊ねると首を振ったので、そのままリビングへと運ぶ。


可愛い生き物へは冷たい紅茶を捧げ、客人には温かい紅茶を。


手の覆いを外しても未だ顔に熱は集まったままのようなので、冷やしたタオルも追加で捧げることにする。


夕飯を作るためにキッチンへ戻ると客人ふたりも付いてきた。


敢えてアレンをひとりにしてやるつもりらしい。


それならばと、料理を手伝ってもらうことにする。


メニューは、ひどく落ち込んでいた時にマーサが作ってくれた料理。


もっと寒い時期に食べるようなものばかりだが、アレンにも食べさせたいと思っていたのだ。


メニューを伝えるとふたりは心得たと頷く。


時折りリビングを伺うも、アレンはまだ呆けたままだった。


恋人になるつもりはあっても、嫁になるつもりはなかったのだろうか。


そんな考えもちらりと過ぎった。


一度きちんと話したほうが良さそうだな。


今回は3人で準備をするので、あっという間に出来上がってしまった。


「落ち着いたか?」


まだぼんやりしているようだったが、食べられるとのことだったのでキッチンへ連れて戻る。


俺とアレン、夫婦がそれぞれ隣合わせで向かい合うように席に着いた。


「前にマーサが作ってくれたメニューなんだが、全部アルが好きそうなやつだったから今日はこれでお祝いだ。」


夕飯の希望を聞いた時に野菜と答え、やはりなと思った。


それでも変わっていない部分を見せられると嬉しく感じてしまう。


火照っている人に温かい食べ物は逆効果だったかもしれないと思い始めていたが、かぼちゃのスープで落ち着きを取り戻したらしい。


お粥、グラタン、ラムチョップ、玉ねぎスープ。


やはりそれらは全てアレンの気に入る料理だった。


デザートの前にほんの腹ごなしだと言ってエドとふたりでそこまでの料理の分の洗い物を済ませる。


そしてデザートにプリンとチョコレートケーキの両方を。


少し口が甘さで重くなりそうだったので、ミントティーを出してやる。


食事中は主に夫婦がアレンに向こうでの生活を聞いていた。


「それで坊ちゃんはきちんとプロポーズしたんです?」


マーサが徐に訊ねてきたので、首を振る。


「したが、通じなかった。」


「右フックか。」


エドが神妙に頷くので、それにも一応首を振る。


「それはまだだ。」


一応まだ戴いてはいないから嘘にはならないはずだ。


「もう!どんな遠回しに伝えたんでしょうねぇ!ねぇ、アル坊ちゃん?」


マーサが憤慨しながらアレンに同意を求める。


「…………プロポーズ?」


アレンがきょとんとしている。


やはりあれは通じていなかった。


「俺の籍に入らないかと言っただろ?」


アレンではなくマーサが大きな大きな溜息を吐く。


「坊ちゃん、やり直しを要求します。きちんとプロポーズもしていないのに、籍だけ入れてくるだなんて。言葉少なく態度や表情で語る方なのは理解していますが、愛を乞う相手への言葉だけは尽くしなさい。もう、まったく。」


そんな俺とマーサ、神妙に頷くエドを不思議そうに見回すアレンの頭を一度するりと撫でる。


ちょうど今なら宣誓の立会人もいることだしな。


立ち上がり、アレンの反対側の空いている側へ回り込む。


後を回り込むついでにアレンを乗せたまま椅子を横向きにする。


「ふたりは証人だ。」


その正面に回り片膝を突き、胸に手を当てる。


「指輪が無くて悪いな。代わりに真心を。

……アレン、結婚してくれ。」


アレンのきょとんとした顔に向けた真剣な眼差しと、真摯な言葉。


「…………はい。」


アレンは瞬きもできないほどに驚いていた。


その一言を返すのでやっとだったのだろう。


これで宣誓になるだろう?と夫婦に目をやると、マーサは真っ赤な目をこれでもかと見開き、口を固く引き結び大粒の涙を流していた。


「……それでは誓いのキスを。」


エドが神父のように厳かに促してくる。


勘弁してくれよ、と思いながらもアレンを見やる。


その口の端にさっきまで食べていたケーキの、チョコレートが付いているのを見つけてしまい、ふっと口が緩む。


突いた膝を戻し、アレンの膝を跨ぐように近寄る。


腰を屈め片手は背もたれに預け、もう片手で顎を掬い上げ上向かせる。


真上からその琥珀の瞳を見つめてから。


愛してる。その気持ちを込めて。


口の端からチョコレートを舐め取った。


放心しっぱなしのアレンにも、泣きじゃくるマーサにも、拍手喝采なエドにも、慣れないことをして密かに心臓が痛む俺のためにも、今はきりりと冷えたミントティーが必要そうだ。


ミントティーを淹れ直す間に、エド以外のふたりには冷やしたタオルを差し入れる。


そしてミントティーに氷を入れて戻る。


誰も口を開けないまま、静かにミントティーを啜る時間だった。


マーサが落ち着いた頃合いを見計らったエドが徐に立ち上がる。


「今日は夜風に当たりながらゆっくり帰ろうな。」


マーサにお暇を促す。


そして皆で玄関へ向かう。


玄関を一歩出たところでマーサが神妙な顔付きで居住まいを正す。


それに気付いたエドもそれに倣う。


「アレン様。……どうか、デュラン様を末永く宜しくお願い致します。」


アレンに向け、深く頭を垂れるマーサとエド。


「……謹んで承ります。」


それはひどく柔らかな声色だった。


その言葉に頭を上げると、改めてこちらへと向き直り、差し出口をお許しください、と頭を下げる。


「ふたりには感謝してる。これからも宜しく頼む。」


その言葉に一層腰を深く折り、また来ますと言って帰って行った。


親のように慕っているふたりに馬鹿丁寧に挨拶をされたせいで背中がむず痒い。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「さて。ピアノを弾いてくれるか?」


気を取り直し、アレンをゲストルームだった部屋へと連れて行く。


ピアノを弾くアレンを斜め横から眺められるようにとソファも新設してある。


鍵盤の蓋を開け、指を慣らすために軽く奏でてみせた曲は以前とは違うものだった。


低音から高音域へと規則的に、少しだけ寂しげに音の波を浜辺へと運ぶような曲だった。


そしてまず弾いた曲は以前と同じものだった。


月の光を浴びる大きな樹の力強さは、どこまでも澄明で色鮮やかな音の泡は、まるでそのままにアレンを表しているようだと、ひとり納得しながら四季の移り変わりに耳を澄ませた。


次に続いたのは、恐らくあの時の即興曲。何度も何度も思い出した心惹かれた曲だった。それなのに少しだけ違うように聞こえる。たった一度聴いたきりで、間違えて覚えてしまっていたのかもしれない。あの日ほど訴える切実さはないようだ。


そこで一度手を止めた。


アレンが深く息を吸い込み、一拍。


時が止まる。


第一音で暗闇へと突き落とされた。さらにそこへ猛烈な吹雪が襲いかかる。突き刺さる冷気に呼吸もままならず前も後ろもわからない。少しずつ弱くなる吹雪。それなのにどこへも行けない絶望と、それならばいっそ吹雪と共に散ってしまえばいいと寄り添う孤独。それに共鳴する雷鳴。明日も希望も何もない。


あまりの激情に息は止まり、全身総毛立つ。


苛烈さが消えることはなく、徐々に遠ざかってゆく雷鳴。


まるであの景色を見ていた窓にカーテンを引き、絶望も孤独も今もまだすぐそこにあるぞと脅しつけるような消え入り方。


これも有名な曲だからもちろん聴いたことはあったが、高度な技術と練度が必要だと思った程度。今のような壮絶な風景が見えたことはなかった。


鳥肌が引かないままに訪れる静寂。


これが最後かと思った瞬間、軽やかに音が踊り出す。


どこまでも柔らかく、優しく包み込む。静かな夜空を見上げると満天の星空。空は高く清く澄み渡っている。吐く息は白いのに、感じるのは温もりだけ。ひとりじゃない。違う。ふたりだけの世界か。


これはまた知らない曲だった。


そしてこれが最後だったらしい。


あまりの衝撃に拍手すらできない。


「……すごいな。」


やっとの思いで感想を口にする。


「あの街の外れに教会があるんです。そこで時々ピアノを弾かせてもらっていたので、忘れずに済みました。」


そんな偶然が起こればいいと期待して寄付したピアノ。まさか本当に本人の役に立っていたとは。


「……そうか。」


「ピアノ、誰かが弾いていたんですか?」


「あぁ。俺は人差し指でメロディを少しだけ追いかける程度しかできないけどな。それでも、いつ迎えに行けるかわからなかったから調律は定期的に頼んでたんだ。」


「……迎え?……調律?」


「貴族籍から抜かれたら迎えに行くつもりだったんだ。俺が気付いたのが一昨日。迎えに行くより早く帰って来るなんてな。

このピアノを買ったあの店の店主が調律に来てくれるんだ。その時に軽く鳴らしていく。何か違いでもあったか?」


そう教えてやるや否や、椅子から立ち上がり、ソファに掛ける俺の太腿に自ら乗り上がる。昨日の1日で随分と馴染んだ位置。


そして胸にしがみつく。


落ちないように腰へ腕を回す。


至近距離に顔はあるのに、アレンが下を向いてしまっているせいで目が合わない。


それでもおでこが赤いのはわかる。


ぴるぴると震えている。突然どうしたのだろうか。


「……どうした?」


「…………すき、です。」


ちらとだけこちらを見てすぐにまた下を向いてしまった。


「指輪、欲しいか?」


「……代わりに真心をくれるのでしょう?」


「あぁ、欲しいだけやる。」


「……じゃあ、全部、貰います。」


未だぴるぴると震え、頬は赤く染めたまま。視線もこちらに寄越さないくせに、よくも全部などと言えたもんだと可笑しくて笑いが零れる。


頭をうりうりと撫で回す。


反撃できずされるがままのアレン。


止めどなく零れるのは、ただただ愛おしさだけ。


キスを贈ることさえ躊躇うほどに愛おしい。


アレン、と呼びかけ耳元へ口を寄せ囁く。


「……愛してる。」


さっきはふたりが居たから言うのをやめたんだ、と笑いながら頭を撫でてやる。


「今日は結婚初夜だな。」


死ぬほど抱いてやる。


そう耳元で続ければ、いよいよ耐えきれずぱたりと胸に倒れ込んでくる。


それに笑い声を上げながら、そんな愛おしい生き物だからと大切に抱え上げ部屋へ連れ帰る。


“特別な誰か”そんなものは夢や創作物の中にだけ存在するものだと信じて疑わなかった。


“愛している”知っているし理解もできる。けれどそれを誰かに対して自分が感じることも、ましてや言葉として発することもあるはずがない、そんなことを考えることさえなかった。


ある日突然現れた、俺を買いたいと言い出すただひとりと出逢うまでは。


最初で最後のただひとりだから。


今夜は、絹に触れるように丁寧に、1ミリの変化さえ見落とさないようじっくりと、2年という過ぎた日々の隙間を砂粒で埋めてゆくように時間をかけて。


骨の髄まで、脳の髄までとろりと蕩けるような甘やかさで。


グツグツと、ぐらぐらと、煮え滾る岩漿のような灼熱で。


愛しているを伝えよう。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



お読みくださりありがとうございます。

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