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縄の跡はクラヴァットに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
21/25

今日から(アレン視点)

デュラン視点と内容は同じです。

お好きな方をお読みください。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇


すぐ隣にデュランが寝ている。


くっついたところから伝わる体温、聞こえる寝息。


夢じゃない。


まだ朝は早いが日は登っている。


こちらを向く寝顔は普段より格段に無防備で可愛げがある。


まだ寝ていてもいいが、どうしようか。


触ってみたいと思っていた髪に腕を伸ばし、軽く触れる。


それがくすぐったかったのが、少し唸り寝返りを打つ。


その寝返りでがっしりと拘束される。


腕は背中に回され、顔は胸に押し当てられた。


そのまま微睡むも、目が冴えてしまった。


構ってくれないデュランをベッドに残し、朝ご飯を作ることにする。


まだ起きて来ないだろうと紅茶を淹れてひと休みする。


夢じゃない。


何を考えていてもその思いに行き着いた。


さて、パンと目玉焼きにソーセージがあるから、スープを作ろう。


デュランに教えて貰った適当さで野菜を切り鍋へ放り込んでゆく。


あとは火が通ってから味を整えるだけ、そう思った瞬間背中から抱き締められた。


これは僕もやりたいこと。


うなじに触れる柔らかな感触に、おはようございますの言葉は流れて消えた。


「早いな。」


抱き締められたまま耳元に届く声は、寝起きだからか少し掠れている。


「……目が冴えてしまって。キッチン使わせて貰いました。」


「もうお前の家だ。好きに振る舞えばいい。」


好きに使っていいと言われたことは予想以上に嬉しかった。ここが僕の家。


あなたにももっと好きに触りたい。


けれど何かがその手を押し留めようとする。


今はお腹に回された腕を指先で捕まえるだけが精一杯。


「……ありがとうございます。」


「言葉遣いも家では好きにしろ。」


「……はい。」


「今日は何かしたいことはあるか?」


「戸籍の申請に行きたいです。」


見上げたデュランは、なんだそんなことか、と呆気に取られた様子だ。


「あなたの気が変わらないうちに急いで出してしまいたいんです。」


急がなくても良いのに、と思っているような顔をしている。だからやっぱり僕が過剰な意味で受け取っているだけなんだろう。


「わかった。電話してくる。」


さらりとおでこにキスをしてからキッチンを出ていった。


昨日はあんなにたくさんキスをしたのに今朝はまだ唇に貰っていない。


こうやって待つしかできないことが少しだけ苦しくて切ない。


これも何かが足に纏わりついて重くて動けなくなるせい。


それが何なのか。


考えることを放棄し朝食を食べる。


そこで今日の予定を聞かされる。


「夕飯に客を呼んだ。帰りに買い物に立ち寄るから、何か欲しいものとか、食べたいものがあれば考えておけ。」


客。それは誰だろう。僕よりも親しい相手なのだろうか。どうしよう、また苦しい。


「わかりました。……お客様はどなたなのでしょうか?」


「メイドと庭師の夫婦だ。お前に会いたがってたからな。」


それを聞いてさっきまでの息苦しさはきれいに消えてなくなった。


あのふたりは大好きだ。


「それと、ふたりが帰ってから、ピアノを弾いてほしい。」


緩んだところへ唐突に掛けられた言葉。


びっくりして声も出ない。


ピアノがどうなったのか怖くて聞けないでいたし、ゲストルームの扉を開ける勇気も出なかった。


まさか残してあるとは思わなかった。


「もう弾けなくなったか?」


いいえ、教会でピアノを借りて時々弾いていました。と伝えたかったが、未だ驚きから声が出せない。


「そうか。楽しみにしてる。」


楽しみにしてくれているだなんて。


確かに褒めて貰ったけれど、あの時はつい感情を乗せてしまったことが恥ずかしくて、切なくて。


そんな演奏を聞かせただけなのに、楽しみにしてもらえて嬉しい。


ピアノが残してあって嬉しい。


心がほくほくと温められてゆく。


書斎で書類を準備するよう言われ、片付けもしていないのにキッチンから追い出された。


そして書類を仕上げリビングへと戻る。


そこへデュランが珈琲とチョコレートケーキを切り分けて持って来てくれる。


「……ラズベリーに花言葉なんてないよな?」


2日目でも変わらず美味しいなと頬張っていると、徐に訊ねられた。


「ありますよ?」


訊ねる割に、その表情は渋い。


「知ってたりするか?」


「……愛情、それと、深い後悔……ですね。」


しかし意味を聞いたデュランはがくりと項垂れた。


「どうかしましたか?」


「前も花言葉に恨み言を詰め込まれてな……お前、料理長に愛されてるな。」


前といえば、あのチーズケーキだろうか。


確かチーズケーキには苺ジャムが乗っていた。


貴族間では何かに意味を込めることが多すぎて、花や宝石などは今でもつい癖で意味があるのか探ってしまうことはあるが。


まさかいちごジャムに?


あの苺に料理長が恨み言を詰め込んだ?


それは僕のためにという意味だろうか?


“先見の明”


“尊重と愛情”


“幸福な家庭”


“あなたは私を喜ばせる”


料理長がどんな恨み言を込めたのかが分かりそうなのに、わからない。


今回は、後悔するなよというメッセージで間違いないだろう。


それはデュランにも後悔することがあったということだろうか。


それは僕に向けられた言葉でもあったとしたら。


僕の気持ちは料理長にはすっかりお見通しだったわけだ。


懐が深くて優しい料理長が大好きだ。


そんな彼に愛されているのなら嬉しい。


後悔しない結果にたぶんできたと思います、と胸の中で料理長へ報告しておく。


「うまいか?」


もしもふたりへのメッセージが込められているのなら尚更大切に食べたいと思うくらい特別美味しいです、と頷きだけを返す。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



迎えに来た秘書と3人で出掛ける。今日護衛ふたりはお休みだ。


「アル君、向こうの部屋はどうしますか?」


これは戸籍を提出しに行くことから、こちらに残ることを察してくれたのだろう。


「いくつか取りに行きたいものがあるので、それまでは。その後は家具を残したままの状態で家主に返還しようかと思ったのですが、いいでしょうか?」


食器やカトラリー、それとカーテン。


家具は家に持って来ても余してしまう。それならば次に部屋を使う人が好きに使って貰えれば、きっとその人も楽ではないだろうか。


ただお金を出したのはデュランだ。あくまでも所有者はデュランだと思っているので、視線で訊ねた。


「好きにしろ。院長にも挨拶に行くから、その時だな。」


デュランと一緒に診療所へ行けるらしい。姐さんたちにも、こっちで頑張れそうだと伝えたい。


そう考えながら秘書といつがいいかな等と話していると、突然デュランが項垂れた。


本日2度目なので少し心配になるも、放っておけと手を振られる。


そうして出向いた役所では、書類に不備はなかったため即時受理されただのアールから、アレン・ガルシアに僕は生まれ変わった。


デュランの家族になれたと浮き立つ心で訪れたのは久しぶりの市場。


嬉しさと懐かしさで、周りが輝いて見えた。


そして夕飯のリクエストには、野菜を食べたいとお願いした。


たくさんの食材を買い込み帰宅する。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「……明日も休みだな。」


デュランが徐に秘書にそう告げた。明日もまたふたりでゆっくり過ごせるのかもしれないと思うと更に心は躍り出す。


「今日から1週間、会長は蜜月だと全職員に通達してありますので、出勤は1週間後で構いませんよ?」


「おい。さらっと蜜月を通達するな。」


みつげつ。


「おい、嘘だよな?」


「はい、1週間後で間違いありません。」


「……そこじゃない。全職員に共有されてないよな?」


ぜんしょくいん。


「嘘だろ。」


つうたつ。


「アル君に下心を抱く馬鹿野郎がいた場合、それが会長に知られれば本人の命は恐らく無いでしょう。それでは困るので、きちんと全職員に通達しました。」


「……なるほどな。」


みつげつって蜜月のことで合ってるかな?デュランはそこまでのつもりではないのに、それが全職員に通達…。

家族でたぶん恋人なだけだと露呈するかもしれないけど、抱く抱かないな関係だと皆に周知される羞恥。そこに事実が伴わなくても。


羞恥と恐怖で身体が火照る。


どうしよう。どこからか低い衝撃音も聞こえてきた。熱が上がりすぎて耳までおかしくなったかもしれない。


「今日は助かった。気をつけて帰れよ。」


馬車が立ち去る音に、馬車が近寄る音が遥か彼方から聞こえて来るような気がする。


「坊ちゃん!!何をしたんです!?」


誰かが肩を支えてくれている。


「俺じゃない。秘書だ。」


老夫婦が来たのだろうか。


「商会の職員全員に、アルは俺の嫁だと通達を回したそうだ。」


よめ。


もう無理だ。まだ1日も出勤してないけど辞めることになるかもしれない。


もう立っていることもできない。


「おめでとう。」


これは誰に掛けられた言葉だったのだろう。


誰かが背中を摩ってくれている。


ありがとうを言うこともできない。


蹲り固まる僕を持ち上げたのはデュランだ。


見なくてもわかる。だから手は顔から外さない。


「一旦部屋に戻るか?」


客人ふたりも来たし、部屋に戻ったところでこの心の病は治らない。それならば近くにいたいと、その提案を拒否する。


そのまま運ばれたのはリビングのソファ。


気付くと手には冷たいグラスを持たされていた。いつもは使わないのに今はストローが差してある。


冷たい紅茶を飲むと体温は少しだけ下がったようだ。


すると更に手にタオルを持たされる。


それが火照った顔に気持ちがいい。


タオルと紅茶で交互に身体の熱を下げる。可能な限り不都合な記憶を消し去ることに時間を使う。


今回のことで、秘書と作戦立案者であり最も尊大な功労者たる秘書の奥さんのふたりには言葉では言い表せないほどに感謝していたのに。


そんな感謝も灰燼へと帰す一歩手前にまで歩みを進めてしまった。


「落ち着いたか?」


デュランが心配そうに訊ねてくる。まだ少し熱っぽいがこれはもうどうしようもないのだ。


デュランの隣へ掛け、向かいには夫婦が。


大好きなふたりなのに挨拶さえしていなかったことに気付く。


「前にマーサが作ってくれたメニューなんだが、全部アルが好きそうなやつだったから今日はこれでお祝いだ。」


今はテーブルに乗るだけ乗せられている。


メインのラムチョップとデザートは後でな、と教えたくれた。


かぼちゃのスープ、お粥、グラタン。


どれも熱々で美味しそうだ。


特にかぼちゃのスープは、もはや飲み物ではなく食べ物で、かぼちゃの甘味が濃厚でいくらでも食べられる美味しさだった。


お粥はあまり馴染みがないものだったけれど、鶏ガラスープが染み込んだお米、お米をふわりと包むような卵、ピリリと味を引き締める生姜と胡椒が食欲を増進させる。


少し甘く味付けをしたマッシュポテトに、同じ様な甘い味付けの牛肉。その上に掛かるホワイトソースとたっぷりのチーズ。優しい味に心が緩む。


そしてメインにラムチョップと玉ねぎが丸ごと入ったスープ。

玉ねぎにコンソメの味が染み込んで、スープには玉ねぎの甘味が溢れて出ている。

ラムチョップには香草が強く効き、食べる手が止まらないし、塩味と脂を中和させるためのパンにはバターがたっぷり練り込まれていて余計に手は止まらなくなった。


どれも全部がお気に入りの料理になった。


しかも作り方を教えて貰ったからデュランがいつでも作ってくれると言う。


デザートの前にほんの腹ごなしだと言ってデュランと庭師はふたりでそこまでの料理の分の洗い物を。その間に、メイドに聞かれて今日のことを話して教えていた。


そこへプリンとチョコレートケーキを持ってふたりが戻る。


そこにデュランが添えてくれたのはミントティー。気持ちも口もすっきりとさせてくれる。


プリンは卵味が濃厚でしっかりとした弾力で、どこか懐かしさを感じさせる安心させてくれるデザートだった。


そしてチョコレートケーキは言わずもがなの美味しさ。


朝も食べたけれどまだまだ飽きはこない。


「それで、坊ちゃんはきちんとプロポーズしたんです?」


メイドがデュランに話しかける。


「したが、通じなかった。」


え?プロポーズ?


「右フックか。」


え?


「それはまだだ。」


え?僕の話だとしたら殴られることになる。


とりあえず話についていけないし、聞こえたプロポーズという言葉が気になる。


「もう!どんな遠回しに伝えたんでしょうねぇ!ねぇ、アル坊ちゃん?」


メイドは憤慨してこちらを向き同意を求めて来るが、わからない。


だから一番気になった単語を呟く。


「…………プロポーズ?」


そこでデュランが割って入る。


「俺の籍に入らないかと言っただろ?」


はい。言われました。


けれど頷く余裕すらない。


そこでメイドが大きな大きな溜息を吐く。


「坊ちゃん、やり直しを要求します。きちんとプロポーズもしていないのに、籍だけ入れてくるだなんて。言葉少なく態度や表情で語る方なのは理解していますが、愛を乞う相手への言葉だけは尽くしなさい。もう、まったく。」


それじゃあ、まるで。


未だ困惑から抜け出せない僕の頭を、デュランがするりと撫でた。


つとそちらを見上げるとデュランは立ち上がり、僕を乗せたまま椅子を横向きにする。


「ふたりは証人だ。」


そして僕の正面に回り片膝を突き、胸に手を当てる。


「指輪が無くて悪いな。代わりに真心を。

……アレン、結婚してくれ。」


…………けっこん。


…………結婚。


……結婚。


「…………はい。」


はい、以外の選択肢は元から持っていない。


そして、今のはプロポーズ。


「……それでは誓いのキスを。」


庭師が神父のように厳かに促してくる。


もう、ずっとデュランから目が離せないでいる。これは現実なのか真実なのか。


デュランは立ち上がり、僕の膝を跨ぐように立つ。


背もたれに片手を預けたことで近付く顔。


昨日だって何回もキスをした。


つと顎を掬い上げ上向かせる。


真上に見据えるのはデュランの榛色の瞳。


僕の大好きな色。


顔は更に近寄りキスをされるかと思ったら、舌で唇を舐め上げてゆく。


こういうキスもあるんだ。初めてのやつだ。


遠くから女性の泣き声と喝采が聞こえる。


唇に残る感触と、結婚という言葉に榛色。


それしか考えられない。


そこへ再び冷たいタオルが渡される。


そして、きりりと冷えたミントティー。


心も身体も冷やしてから。


冷静になってから。


考えるのはもう少し後で。


今は無理。


言葉にもならない言葉が、感情が、身体中を駆け巡って熱だけを上げているから。


「今日は夜風に当たりながらゆっくり帰ろうな。」


ミントティーが無くなった頃、帰るふたりを見送りに立ち上がった。


僕にも夜風が必要だと思う。


玄関を一歩出たところでメイドが神妙な顔付きで居住まいを正し、庭師と揃って僕に正対する。


「アレン様。……どうか、デュラン様を末永く宜しくお願い致します。」


深く頭を垂れるマーサとエド。


初めて会ったあの日にデュランの客人である僕へ向けてくれた優しさでも、デュランの家族のひとりとして向けられた今日の親しさでもない、真摯な言葉。私たちの大切なものをあなたに託します、と。それはまるで花嫁の両親が花婿に託すような、信頼と感謝。


「……謹んで承ります。」


デュランの家族だと認めてもらえた喜び。


デュランの家族なんだと認識できた実感。


あなたたちの大切な坊ちゃんは僕が必ず幸せにしますという誓い。


それらをしっかりと受け取ってくれたふたりはデュランへ改めて、差し出口をお許しください、と頭を下げる。


「ふたりには感謝してる。これからも宜しく頼む。」


その言葉に一層腰を深く折り、また来ますと言ってふたりは帰って行った。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



デュランの親のような人たちが、これからは僕の家族のような人になるのだとゆっくりと理解が浸透してゆく。


それはとても素敵なことだ。


「さて。ピアノを弾いてくれるか?」


今日は浮かれっぱなしで、熱に浮かされっぱなしだったけれど、ちゃんと弾けるだろうか。


ゲストルームに入ると、目に入ったのは記憶と相違ないピアノ。


ただその横には大きめのひとり掛けのソファが新しく据えられていた。


僕を鍵盤の前へ送り届けてから、ソファに掛けるデュラン。


この特別で大切な人に、どんな曲を贈ったらいいだろうか。


鍵盤の蓋を開け、指を慣らすために軽く奏でたものは以前とは違う曲。


浜辺へ打ち寄せる波が喜びと哀しみを交互に運んでくるような曲。


そして一曲目は以前と同じもの。


僕の好きな曲。どこまでも透き通り、多彩な光がきらきらと美しい。音色は色付くと教えてくれた曲。


次も以前と同じ即興曲。あの時はデュランが親のような想いであれ大事にしてくれていることが嬉しくて。けれどそれが切なくて悔しくて。それでもずっと一緒に居たいと願って。けれど今は同じ気持ちで弾くことはできない。一度はそんな想いさえ思い出せないほどに絶望した。今日という日が訪れることを知らなかったあの頃の僕にしか弾けない曲になってしまった。


それは少し寂しい。


そんな僕の傲慢を、幸福を、証明するよう。


そこで一度手を止めた。


デュランに捨てられたと思っていた。


あの孤独と絶望のなかでさえ、愛して、探して、求めて止まなかった。


そんな時に深く寄り添ってくれた曲。


あの曲を弾いてもいいだろうか。


深く息を吸い込み、一拍。時を止める。


第一音で暗闇の底へと突き落とす。


そこへ猛烈な吹雪が襲いかかる。突き刺さる冷気に呼吸もままならない。目も開けられない。


少しずつ弱くなる吹雪。


苦しいなら、抜け出したいなら今だと吹雪は唆す。


きっとこの吹雪から逃れてしまったら、僕には何も残らない。


それならば、この吹雪の中に留まり続けることが想いの証明。


これ以上の絶望など有りはしないのだから。


吹雪を強くするのは、温かな記憶。


弱くするのは、残酷な言葉。


貴方がいなければ明日に意味もない。


あの頃の激情を思い出し、指を腕を激しく振るう。


今でも僕の中に苛烈さだけは残っている。


それを貴方に知っていて欲しい。


さて、最後の曲はどうしようか。


今日という日へと道を繋げてくれた出会いに、貴方の存在への感謝を。


心からの愛情を込めて。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「……すごいな。」


デュランは今日も褒めてくれた。


「あの街の外れに教会があるんです。そこで時々ピアノを弾かせてもらっていたので、忘れずに済みました。」


「……そうか。」


街中を歩き回り見つけた小さな教会、そこに置かれていたのは不似合いな新品のピアノ。心が惹かれるように自然と足は向き、鍵盤に触れていた時に神父に声をかけられた。


「つい先日寄付されたものなんです。けれどこの辺りでピアノを弾ける人なんてそうそう居ないですから持て余してしまって。もし良かったら弾いてあげてくれませんか?」


その日から毎日のトレーニングで走る10キロの道程に教会を組み込み、ほぼ毎日立ち寄っては弾いていた。


あのピアノにも、他に誰か弾いてくれる人が現れたらいいのに。


そして、2年も経つのに全く狂いのない音。


誰かが立ち入っていた証拠。


「ピアノ、誰かが弾いていたんですか?」


「あぁ。俺は人差し指でメロディを少しだけ追いかける程度しかできないけどな。」


デュランが少しだけとはいえピアノに触れていたことが嬉しい。


「いつ迎えに行けるかわからなかったから調律は定期的に頼んでたんだ。」


「……迎え?……調律?」


「貴族籍から抜かれたら迎えに行くつもりだったんだ。俺が気付いたのが一昨日。迎えに行くより早く帰って来るなんてな。」


可笑しそうに笑うデュラン。


平民になるのを待っていてくれたの?


秘書のことがなくても、迎えに来てくれたの?


「このピアノを買ったあの店の店主が調律に来てくれるんだ。その時に軽く鳴らしていく。何か違いでもあったか?」


僕が帰って来る日のためにずっと、ずっと。


デュランに捨てられたわけではないと理解させられて。


家族に迎えられるだけ大事にしてくれていることを理解させられて。


それは息子や弟としてではなく、たったひとりと選んだ相手としてだと理解させられて。


今日までの僕の想い全てが報われてゆく。


デュランも僕を想ってくれている。


そのことが今やっとで理解できた。


それならもう大丈夫。


ソファに掛けるデュランの太腿に自ら乗り上がる。昨日の1日で随分と馴染んだ位置。


これからもずっと僕だけの場所。


そして胸にしがみつく。


自然に腰を支えてくれる腕には、微塵も色香はないけれど、僕を案ずる気持ちに満ちている。


この幸せを、この気持ちを、どれだけ尽くしても言葉でも伝えられない。


目が合ったらきっと泣いてしまう。


そうだとしても。


「……どうした?」


「…………すき、です。」


ちらとだけ目を見つめる。


この言葉が向かう先は貴方だと、きちんと伝わるように。


たった一言に今日までの全てを詰め込んだつもりだ。


「指輪、欲しいか?」


「……代わりに真心をくれるのでしょう?」


「あぁ、欲しいだけやる。」


「……じゃあ、全部、貰います。」


全部欲しい。感情の全て、心の全て。


頭上では可笑しそうに笑うデュランの声がする。


冗談じゃないんですよ。


頭をぐりぐりと撫で回される。


本気なんですよ。


きっと目を見てしまえば、この心臓は止まる。


この人に想って貰えているという幸福で今でも死にそうだから。


だから今は抵抗も反抗もできないだけなんですよ。


アレン、と名前を呼ばれる。


その声の静謐さに、何事だろうかと顔を向ける。


耳元に寄せられた唇が、耳朶を捕える。


「……愛してる。」


静謐さはそのままに、海のような深い響きを持った言葉は耳を通り腹の底奥深くまで、深く深く沈み込み、そこで甘やかに反響した。


さっきはふたりが居たから言うのをやめたんだ、と笑う声は頭上から降り、先程までの静謐さは孕まずにただ優しい。


そして頭を撫でてゆく手もただ優しい。


「今日は結婚初夜だな。」


揶揄うようにぽつりと呟き、再び耳元へ口を寄せ、鼓膜を震わせる。


「死ぬほど抱いてやる。」


幸福と歓喜、興奮と正気は瞬く間に空高く打ち上げられ霧散した。


既に身体に力は入らない。


頭上から聞こえてくる笑い声はひどく満足気で、恨めしい。


抱き上げられ向かう先はどこだろう。


同じファミリーネームを名乗る。


ただのアールになった僕に、新しいファミリーネームを与えてくれる。


それはふたりが恋人同士になったところで庇護の域は脱するものではない。


そうなんだろうと思っていた。


それが、プロポーズだったなんて。


期待してしまわないように必死に堪えた僕は何だったんだろう。


本当に言葉の足りない人だ。


けれど、だからこそ今日ふたりの証人を得てまっすぐな求婚の言葉を聞くことができた。


どれだけキスをしてくれても、どこか心の片隅に焦げ付いた“僕が勝手に好きになった”が、自分から抱きしめることを許さなかった。


デュランが僕を想ってくれていたことがわかっても、どこか心の片隅に積もった“好きなのは僕だけ”が、自分からキスを贈ることを許さなかった。


けれど、“愛している”がそれらを綺麗に洗い流していった。


綺麗になった心の隅々に愛しているが積み重ねられ、押し込まれてゆく。


その愛しているは、僕が貰ったものなのか、僕が贈ったものなのか、最早判別は付かない。


けれどそれで構わない。


大切なことは、僕の心がデュランで形作られてゆく、ただそれだけ。


もう躊躇わない。


深い海の底の、激烈な負荷のように。


高い山の頂の、猛烈な吹雪のように。


天を引き裂く、苛烈な雷撃のように。


愛しているを伝えてゆくから。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇




お読みくださりありがとうございます。

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