リクルーターと愚痴
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
姐さんたちから、免許皆伝も夢じゃないと激励されるようになると、診療所に来てから2年近くが経っていた。
最初は辛いだけだった生活も周りの人たちのおかげで、目標を持てたおかげで、今では泣きながら眠る夜も無くなった。
診療所での仕事に稽古に勤しみ、ヴァイオリンを掻き鳴らし、本をたくさん読む。
時々あの人を思い出しては自分の気持ちに変わりがないことを、色褪せない記憶を確認する。
そんなある時、秘書が訪ねてきた。
護衛ふたりと違って秘書が訪ねてくるのは半年に一度程度。
事務的に生存と近況を確認して帰ってゆく。
珈琲や紅茶を出す暇も与えてくれないほどにあっさりと。
ただ今回は違った。
院長先生と姐さんたちにも同席して貰って話したいことがあるとのことだった。
「私のお嫁さんが安定期に入りました。ありがとうございます。
それで、あと4ヶ月程でお嫁さんの出産に備えて産休を、続けて一年の予定で育休を取ります。
有能な秘書に変わり、秘書業務を遂行しうるだけの有能な人材を探しているのです。
年齢、職歴、個人的嗜好は問いません。
条件は、体力があること。
読み書き算盤の得意なこと。
我らが会長を慕っていること。
そんな会長をおそばで支えるだけの気概があること。
どなたか、そんな人材に心当たりはありませんか?」
唐突だったが、皆がすぐにめでたい話だと気付き秘書に祝いを述べた。
そして僕以外の全員が手を挙げた。
丁寧にひとりずつから聞き取りをする秘書。
なるほど、毎日10キロ走っていると。
なるほど、柔術を得意としていると。
なるほど、小ささと軽さを武器にしていると。
なるほど、可愛い顔をしていると。
なるほど、性格も可愛いと。
そして、会長にベタ惚れと。
私も負けませんよ!!!
皆が皆、僕の名前を呼ぶ。
アル。アル君。
「まだ貴族籍は抜かれていないところが少しだけ気掛かりだから直前まで様子を見て、決めてもいいんじゃないかい?」
院長先生が提案してくれた。
「……立候補してもいいですか?」
あの人の傍に帰れるかもしれない。
「それでは仕事の都合を見てたまに来ますので、今からできる分の引き継ぎは進めておきましょう。」
よろしくお願いしますと頭を下げる。
「任せておきなさい。」
院長先生が、ふふっと笑った。
「免許皆伝できるまでは行かせませんよ?」
姐さんたちの目が燃えているように見えた。
がんばります……と気圧されながらもなんとか返した。
「護衛たちには、私が良いと言うまでは内密にしてください。」
了解です、と皆が頷く。
あと4ヶ月で会える。
まだ籍は抜かれていないというのに、もう帰るつもりになっている自分の浮かれように呆れた。
それに姐さんたちからも免許皆伝できるまでは他所へは行かせないと言われているのに。
1日、また1日と過ぎてゆく。
まだ4ヶ月も先の話なのに。
まるでそれが明日のことのように思えて、毎日眠る前には胸がドキドキした。
秘書はその翌週から2週間に1度程度で来ては、秘書たるもの常に全力で会長を愛せ!と1時間程度の説法から始まり、引継ぎ台帳への書き込みを忘れることがあっても会長語録への日々の追記を怠ってはいけないとの最重要任務の説明で終わる引き継ぎを着々と済ませていった。
引き継ぎの機会には、いつも前のめりになって拝聴しては、しっかりと書き留めた。
あの人に会える。
それも秘書が産休に入る予定までひと月を切ると、引き継ぎを殆ど終えてしまった。
けれどもまだ戸籍に変化はなく。
気持ちに影が差す時間が日に日に増えていった。
やっぱり、会えないかもしれない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「邪魔するよぉ。」
珍しい客が来たと目を輝かせ、身嗜みを整えながら自室の扉へ飛んでいった。
「先生!どうしたんですか!」
柔らかな微笑みと清潔感の隙間から流れ漂う色気。
「ちょっとお茶を飲みに寄っただけだよ。」
この人の隠しきれない色香が私を絡めとる。
「呼びつけてくだされば即刻馳せ参じましたのに。」
「呼べばすぐ来る犬は好みじゃないんだ。」
この人に煩わしそうに遇られると鼓動が高鳴る。
紅茶を淹れるのが一番巧いやつに茶を入れさせるように指示を出す。
「今うちに可愛いのがいるんだ。羨ましいだろう?」
「羨ましい限りです。」
あなたに可愛がられているなんて。なんて羨ましい。
「自慢のし甲斐もないねぇ。すぐ尻尾を振るような犬も好きじゃないねぇ。」
尻から首筋までをぞくりと撫でるような叱責に涎が溢れ、唾を飲み込む。
「その可愛いのがね、親が勝手に捨てたくせに籍から抜き忘れてるせいで、なかなか気楽に過ごせなくてね。」
溜め息を吐き、悲しげに伏せる目に濃厚な色気が香る。
その溜め息を取り込みたい。
「可愛いだけじゃなくて、可哀想なんだよ。まったく手のかかる親だよねぇ。」
お前もそう思うだろう?と、この部屋へ入ってから初めて向けられた目線。
腰が抜けるほどの甘やかな目つき。
「愚痴を聞かせて悪かったねぇ。邪魔したねぇ。」
今すぐかき抱きたいという衝動に抗えず伸ばした両手。
それを杖で一刀両断し、先生はお茶も飲まずに帰って行った。
手首が折れるほどの勢いで叩き落とした手には一瞥もくれることなく立ち去った。
せめて最後に蔑むような目で見て欲しかった。
「お前たち、2時間休憩をやる。その間にあのお方を悩ませている問題の裏どりをして来い。」
そうして人祓いをしてから自宅に帰るまで待てそうになかっただらしない下半身に喝を入れてやる。
そうして手下たちが戻り、集めた情報を合わせ作戦を練る。
件の親にどうやって思い出させてやろうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「貴族籍から抜かれたそうだよ。」
院長先生が診療所から帰ろうとした僕を引き留め、そう教えてくれた。
半ば諦めかけていたけれど。
間に合ってよかった。
ただのアールとしてあの人のところへ帰れる。
院長先生は優しく微笑み、よかったねぇと頭を撫でてくれた。
折を見て名前も変えたい。
アールには、貴族という意味も含まれている。
もし貴族に平民が名乗っていると知られれば良い顔をされないだろう。
新しい名前も考えよう。
あの人にどんな顔で会えばいいだろうか。
巡る思いのなかで思い至る。
それでもやはり、ここを去るのは寂しい。
院長先生、姐さんたち、食堂のおじさん、おばさん、近所の人たち。
ここで僕は好きな人をたくさん見つけられた。
特別なひとりを得られなくても、それでも幸せな時間は過ごせるんだよと教えてもらった。
早く会いたい。
でも残りの2週間を大切に過ごそう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。




