少年とお嫁さん
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
新しい街での生活に馴染んだ頃に今度は秘書が会いに来た。
秘書が来るのは初めてのことだった。
護衛ふたりが来るたびに面白可笑しく日々あったことを懇切丁寧実演付きで教えてくれるので、敢えて僕から商会での皆の様子を訊ねることはしなかった。
僕の生活を気に掛けてくれていたようだったので安心してもらえるように、いかに毎日楽しく過ごしているかを懸命に伝えた。
それを聞くと安心したのか、また来ると言って帰って行った。
誰かいい人ができていないかとか、家に誰か呼んでいるかとか、休みの日はどんな風に過ごしているかとか、新しいレシピはあるかとか、家の手入れに来る老夫婦は元気かとか、ピアノは、とか。
あの人のプライベートなことで聞きたいことはたくさんある。
けれど他人に聞くべきではないし、もし思いもよらない答えが返ってきたら泣かずにいられる自信がなくて聞けなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「お嫁さん!できる旦那が帰りましたよ!」
会長のことなんかきれいさっぱり忘れ、すっかり立ち直っている少年に会って来た。
未だに腑抜けたままの会長をそのままにはしておけない。
「はいはい、おかえりなさい旦那様。それで、どうしたの?」
私のお嫁さんは私に輪をかけて優秀ですから、私が悩んでいることなどお見通しなのですよ。
「私が会長をまったくだめじゃない男にしてみせます!」
「だめな状態とは?」
「今の腑抜け状態です。」
「腑とは?」
「少年です。」
「少年は詰め込まれたいのか?」
「未確認です。」
「いくぞ。」
私の優秀なお嫁さんのカウンセリングにより、急ぎ少年が腑となることを良しとするか否か、詰め込まれる覚悟はあるかどうかの聞き込み調査に、診療所へ取って返した。
診療所の戦闘看護師たちに聞けば一発だった。
その情報が欲しくば私を倒すがいい!という血気盛んな女性しか居なかったが、最後には皆がきゃっきゃうふふと、少年が会長を想う様をまことしやかに語ってくれた。
今後方向転換があった場合には即時情報共有をと電話番号を伝えた。
そして自宅へ戻り、作戦会議は次の段階へと移行した。
「両者が今後方向転換に走る可能性は捨て切れないです。その場合、作戦行動による不利益を出さない方法を考えたいです。」
「あるよ。」
「お嫁さん!さすがです!」
「子どもを作ろう。」
「私のお嫁さん………大胆すぎて惚れる。」
「だろ?」
「あ、今のニヒルな笑み、堪らないです。」
「じゃあ作戦行動開始だな。」
そうして私が運ばれたベッドの上。
私がなんとか息を吹き返すのを待っていてくれたお嫁さん、にやりと笑います。
「子どもができたら産休と育休を取りな。」
有能な秘書は理解しました。
「つまり秘書代理が必要になり、そこへ少年を当てがうのですね。」
お嫁さんが頷き、褒めるように頭を撫でてくれます。
「さらに少しでもその時期を早めるために、予定日のひと月前からの休暇を申請せよ、と仰せですね。」
お嫁さんはさらにおでこにキスをくれました。
「さすが、できる旦那様だな。理解が早くて助かる。」
産休とは子どもを産む女性が、予定日より凡そひと月ほど前から仕事を休むことができる制度ですが、我らが会長は言いました。
その日その時の状況に賭けるな。
かけるなら保険を掛けろ。
いつ来ると知れぬその日その時に必ず側に居ると、安心させてやれ。
場合によっては決死の覚悟になる出産。
不安、緊張、痛み、状況次第で本人に加わる苦痛は痛みだけに止まらない。
当事者なんだ、一番に頼られないでどうする。
子どもの成長は1秒ごとだ。
ふたりで育児を楽しんでこい。
そう言って職員たちに休暇を与えています。
とても良い父親になりそうなことを言ってくれる会長なのに自身は家庭を、決まった相手でさえ持つ気はさらさらありませんでした。
会長がどうして少年に惚れ込んだのかは謎に包まれたままでもいいのですが、天才的に有能な秘書にはわかってしまいました。
あれは父性の発現です。
我が子を思う気持ちです。
親子愛ですね。
それがどこかで何かに引っ掛かり、父性から糸が静かにするすると解れてゆき、剥き出しにされたそこには愛が残り、解れ溜まった糸の山、そちらには……恋があったのでしょう。
初めの頃は私たちの会長を誑かす鳶だと思っていた少年ですが、たったひと月で会長の心身の健康のために欠かすことの出来ない大切な存在になりました。
いかに有能な秘書でも全てのしがらみを燃やし尽くすことはできません。
それでも、少年を再び受け入れざるを得ない状況は私が必ず作ってみせます。
それまでにしがらみが燃え尽きたならそれはそれで良し。
そうでない場合には、秘書の仕事は会長本人に負担してもらいましょう。
さて、方針が決まれば行動あるのみ。
そんな心を見透かしたようにお嫁さんがニヒルに微笑み流し目でこちらを伺っているではないですか。
「私のお嫁さんが最高にイケてて心がイキました……」
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