アルと新しい日常
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「昨日も説明したけど、君には経理と事務を担当してもらうよ。」
とても優しい笑顔で院長先生が声をかけてくれた。
新しい物で目の前も心の中もいっぱいにしたい。
思えば一目惚れだったんだろう。もっと早くに気持ちに気付いていたら何か変えられただろうか。
「それから、君は胸の内に溜め込む質のようだから、彼女たちに稽古を付けてもらうことをおすすめするよ。」
何を言われているのか分からなかったけれど、稽古は付けてもらうことにした。
仕事は覚えることがたくさんあるし、常に周りに人がいるから気を引き締めることができた。
それが救いだった。
辛いのは仕事も稽古も休みの日。
毎日こなす稽古の基本メニューをこなした後も一日は続いてゆく。
ひとりで部屋にいることが耐えられず近所を当てもなく歩き回る。
そうして辿り着いた図書館で本を借りることや、ヴァイオリンを弾くことが昼間を乗り切る支えとなった。
夜には孤独に襲われ、それを埋める一時の幸福。その後の寒々しい虚しさ。
それらから逃げるたびに精神が削られてゆく。
夜なんて、休日なんて、来なければいいのに。
それでも近所を当てもなく歩きまわったおかげで診療所に来たことのある患者たち以外にも顔を覚えてもらえ、挨拶できる人が増えた。
仕事と家と商店街での小さい生活圏に慣れ始めた頃、院長先生と姐さんのひとりに呼び出された。
「どうだい、慣れたかい?」
院長先生が訊ねる。
皆さんのおかげで何とか、と答える。
「でも、寂しいんでしょ?」
姐さんの言葉にこそ寂しさが込めらているように思ったが、孤独感を悟られていたことに羞恥で赤面する。
「見苦しいところを見せていましたか……すみません。」
「見苦しいとかじゃなくて、ね、謝らないでいいの。私たちはあなたが心配なだけよ。」
「急に決まったことだとは聞いてたけど、向こうでも慣れたところだったんだろ?そこからまたすぐ新たな環境に移るってのは思っている以上に負担になるからね。」
話の先が見えないが首肯しておく。
「もし馴染めそうになかったら戻ってもいいんだから、気を張りすぎないでいいんだよ?」
院長先生が朗らかに言うが、その言葉は否定させてもらった。
「いいえ、戻って来て良いとは言われていません。だから戻る場所はありません。」
「え、どうしてそんなこと思うんだい?」
院長先生と姐さんが怪訝そうな顔を見合わせて訊ねる。
「厄介者だからと追い出されたんですが、聞いてないですか?」
ふたりがぶんぶんと首を振る。
「もしかして理由とか何も説明されてない?」
理由は知っていますと首を振る。
「あいつは言葉が少ないところがあるからね、私が勝手に説明するからね!」
身を乗り出した院長先生が語り出す。
真っ当とは言えない商会で預かることで君に不名誉が及ぶこと、マフィアに目をつけられた君を手の内に置けば力で奪われる可能性があることを危惧した結果、一番綺麗で安全な場所に君を預けることにしたんだよ。そう教えてくれた。
「僕が一応まだ貴族だから、商会に不利益を与えるための餌に使われかねない、置いておくにはリスクの高い存在なのは間違いありませんから。」
違うよと慌てながらも力強く否定するふたり。
「もちろん、商会を守る義務もあるからそういう理由もあるとは思う。でも違うよ。君にそんな辛そうな顔をさせるような理由は、何もないんだよ。あいつは君を守るために必死なだけだったよ。」
「守る?嫌われて捨てられたわけじゃない?」
ぽつりと呟いた言葉はふたりにしっかり届いてしまったようで、姐さんにはきつく抱きしめられ、院長先生には両手を握られていた。
「そんなことないよ!そんな風に思っていたのならさぞ辛かっただろうね。あいつの馬鹿さ加減を見縊ってて悪かった!」
今にも泣き出しそうなふたりに泣いていない僕があやされる。
「そっか……」
信じたわけではないけれど、そうならいいなとは少しは思えた。
「あいつに頭を下げられたのは随分と久しぶりだったよ。しかも何回も。随分と君のことを買っていたし、頼りにしてもいたよ。でも君の安全のために頼むって何度も頭を下げてたよ。」
話ぶりから特異さが伺えた。
それに頷く姐さんの勢いがすごい。
「ほぼ毎日この辺りを通るし、週に一度君の様子を聞きに来てるんだよ?」
「……………え?」
「午後の巡回のルートに組み込んだみたいよ?それに寄っても君の話を聞いたらすぐ帰っちゃうのよ、君には内緒にしろって言って。ふふふ。」
それじゃあまるで。
鼻の奥がツンとする。
「あいつは君がとても大事らしい。」
優しすぎる院長先生の声音に揺さぶられた感情は、静かに一粒の涙になって落ちた。
「向こうの皆に会えなくて寂しいのかなって思ってたんだけど、悲壮感が壮絶で……心配になってね、話してみて良かったですね、院長。」
姐さんも涙ぐんでいる。
「あの人に、好きな人に、捨てられたんじゃない……」
もう一粒、零れ落ちた。
姐さんの拘束がきつくなり痛み始めたことに気づく。
優しい笑顔だった院長先生の目から笑いが消えた。
「あいつ、どうしてやろうかね?」
「えぇ、皆で充分に彼を懲らしめる作戦を練る必要がありますね。」
ふたりが頷き合う。
そんなことがあった次の日から姐さんたちは稽古や仕事の時以外でもたくさん僕にかまってくれるようになった。
そして姐さんたちとお茶をしては恋の話で盛り上がる、その輪に護衛ふたりが混ざるようになったのはもう少し後のことだった。
僕を送り届けてから初めての休みだったらしい。
護衛のひとりが教えてくれた。
「うん。毎日ご飯ご馳走になったし、忙しくなかったから良かったよ。」
忙しくないのに休みがない。
理解できなくて首を傾げる。
「いつも皆で食べて帰って、忙しくないのに仕事に出てたよ。会長も寂しいみたい。」
そんなこと、あるのかな。
「それを秘書に怒られて強制的に休みにさせられたんだよ。」
あの人が怒られている姿が全然想像できない。
あの人は今日をどのように過ごしているんだろうか。
ピアノはまだあるだろうか。
「うん。首領のところにカチコミに行った時から秘書はずっと怒ってる。」
カチコミって何?
「穏便な話し合いをしに行って扉壊して帰ってきたんだよ。」
どういうことだろう、話が全くわからない。
傾げた首を戻す機会が訪れない。
そこに院長先生も加わる。
「その時の秘書の小切手を切るスピードが早すぎて見えなかったってさ。扉が壊されたと思ったら次の瞬間には目の前に小切手が差し出されてたって。向こうの護衛たちが騒いでたな。」
朗らかに笑いながら語る。
院長先生が加わっても話はわからなかったが、秘書がすごいことは理解できた。
やっとで首を正面に戻せた。
それからも護衛ふたりは休みのたびに遊びに来てくれた。
僕が休みなら部屋へ、仕事なら診療所へ。
そして一緒にご飯を食べ、部屋でお茶を飲みゆっくり過ごしてから帰ってゆく。
護衛ふたりのおかげでさらに周りに賑やかさが戻ったように思えて気持ちが明るくなった。
毎日の基本メニュー。ランニング10キロ、腹筋背筋腕立てスクワット100回。
それをこなし終えた休日でも、図書館へ向かい歩けば声を掛けてくれる近所の人がいて。
図書館には勉強熱心で偉いねと褒めてくれる職員がいて。
部屋へ戻る帰り道にももうご飯は食べたかとうちの店で食って行くかと声を掛けてくれる人がいて。
部屋に戻ればあの人がくれたヴァイオリンがあって。
窓辺で風に煽られる榛色があって。
まだまだ寂しくなる夜も多いけど、慟哭するほどの辛さは無くなって。
毛布を抱きしめてあの人の匂いを思い出して、ぽろぽろと涙が零れる程度。
言葉にしてしまうと、きっと、もっと、ずっと辛くなってしまうから、まだ誰にも内緒だけど。
あの人に、デュランに、会いたい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
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