デュランと縄と
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
帰りの車内はお通夜だった。
護衛ふたりが家に着くまでずっとめそめそしていたが、それを無視し続けた。
明日からはしゃきっとしろよ、と告げ家に入る。
簡単に何か作って食べて寝てしまおう、とキッチンへ向かう。
何かないかと冷蔵庫を開けると目に飛び込んで来たのは、食べ切れなかったケーキ。
手と、息が止まった。
もうお前が祝ってやる少年はいないんだ。
意を決してケーキを取り出す。
今日食べなければ捨てることになる。
甘さとバランスを取って珈琲を淹れることにする。
座る必要さえ感じず、キッチンカウンターに寄りかかりながらフォークでケーキを突く。
時折り珈琲を流し込む。
ケーキは3日目に格段に味が落ちるらしい。
昨日までは格別に美味しかった。
チーズケーキは日々育つから3日は楽しめると豪語していた料理長に文句を付けるべきかもしれない。
わかっている。
けど今だけは他人のせいにさせてほしい。
洗い物を済ませて部屋へあがる。
この家にひとりで居るのは15年以上前からの当たり前。
ひと月前に戻っただけ。
それだけと思わせてくれない何かが足を身体をどんどん重くしてゆく。
堪えきれず座り込んだソファ。
これはあの日あの部屋にあったソファ。
くそっ。こんな気持ちになるために部屋に移したんじゃない。
視線を上げた先、目に入ったテーブル。
これもあの日あの部屋で使ったテーブル。
ゲストルームで他人の目に触れる可能性を消したくて移動させただけのそれらが、きりきりと心臓を締め付けてくるようだ。
少年を手放したのは正しい判断だ。
手放したという表現がそもそも正しくない。
独り立ちして出て行ったんだ。
まるで自分の手の内にあったような感覚が間違いなんだ。
少年が俺に向けていたものは、一時の気の迷いだ。
あの日の残像に囚われてるだけ。
世界が広がればすぐに褪せて消えてゆく。
成人したんだ、娼館へも自由に出入りできる。
そこで男を買えば済む話だ。
握る手に力が入ったのも顎に力が入り歯を食いしばったりなんかしていない。
もう俺は少年の面倒を見ずに済むようになったんだ。
自由に好きに過ごせばいい。
ずっしりと重い身体が軽くなる頃には今まで通り、元通りになるさ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
暫くぶりに厨房に顔を出したらしい。
料理長に、誰かと思ったぜ!言われた。
危うく雇用主の顔を忘れられるところだったらしい。
若干いつもの熊加減に野生味が増しているように感じるのは気のせいだろうか。
久しく見ていないと熊加減を忘れてしまうのだろうか。
そして今日はどうしたと訊ねられた。
「前に作ってもらったチーズケーキの感想を言ってなかったと思ってな。」
それでどうだった、と先を促される。
「美味かったよ。ただ味が育つ感覚は分からなかったがな。」
正直にそう言った。
「あれはベイクド、つまり焼いてはいるが、チーズを発酵させる菌を殺さない程度の温度だから焼いた後も発酵が進むんだ。つまり日に日に味は濃厚になっていくんだ。」
なるほどと神妙に頷く。
俺の舌が鈍くて悪かったと謝っておく。
いいってことよと笑いながら返される。
「ところで、会長はいちごの花言葉って知ってるか?」
「知らん。それがどうした。」
「それなら後で護衛たちに聞いておくんだな。」
いつものがははと笑う熊ではなく、年長者を思わせる佇まいを見せた熊だった。
忘れなかったらな、と返し厨房を後にした。
それがどうしたと思うばかりの内容だったのが余計に気になった。
だから帰りの馬車でふたりに訊ねた。
「いちごの花言葉って知ってるか?」
護衛ふたりが視線を交わし合い頷く。
「先見の明」
「尊重と愛情」
「幸福な家庭」
「あなたは私を喜ばせる」
ふたりが交互に挙げてゆく。
まだ続きそうだったが、手を挙げて静止させた。
「それで十分だ。」
家までの道のりが長く感じるほどの沈黙。
そういえば前まではこれが普通だったな、とふいに思い出した。
絶えず笑い、色んな話をしていたのは少年がいたからだった。
また明日と言い護衛と御者を返す。
ひとり帰る家。
随分と広く感じる。
リビングへ向かう途中、唐突に存続を思い出したピアノ。
最後に部屋に入ったのがいつだったのか正確に思い出せそうにない。
扉を開けて中へ入る。
少年のために買ったピアノ。ヴァイオリンは持たせたが、さすがにピアノは持たせてやれなかった。
弾けるわけでもないがなんとも無しに椅子へ近づく。
椅子に違和感を感じた。
立ち止まり見据える。
椅子に置かれていたのは縄だった。
まさかあの日少年が持ち帰った縄だろうか。
それを置いて行ったのか。
あの日の震える声が蘇る。
思い出すたびに軋み、砕けそうだと。
何の跡も残らなかったのかと詰る声。
その場に座り込んでしまった。
俺は出来得る限りの最善を尽くした。
20近く年若い成人したてのガキにしてやれることはしてやった。
腑甲斐無いと、無責任だと、責任を取れと怒ってくれればよかった。
あいつが居たひと月、毎日が楽しかったんだ。
あいつが居たから楽しかったんだ。
あいつが笑うと嬉しくて、もっと喜ばせたくて。
なんでそんなこと料理長に気付かされなきゃならないんだ。
まるで家族を持ったようだった。
父性のようなものだと思いたかった。
ただの性欲を刺激する存在だと思いたくなかった。
でもそれは、でもそれなら、抱きしめて唇を、視線を奪いたいと思うのは違うだろ。
あの日々が続けばいつか我慢し切れない日が必ず来る。
あいつは刺激が強すぎる初めての経験で俺に執着しただけだ。
でも俺は散々女を抱いて来て、ああいう愉しみ方だって初めてじゃない。
商会を潰す手札になりかねないあいつを、世間知らずのガキを引き摺り込むのは俺が俺を許せない。
俺にはどうしようもなかったんだ。
あいつのピアノが聴きたい。
この縄を置いて行った意味は知りたくない。
あの無題のピアノ曲が無性に聴きたい。
全てを滅茶苦茶に破壊して突き進む激しく荒れ狂う嵐のような曲が聴きたい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
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