アルとヴァイオリン
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
このままずっとお世話になれるとは思っていなかった。
次が決まるまでだと最初に言われていたから。
それを忘れていたわけではないけれど、ひと月近くも経つと、もしかしたらと期待してしまっていた。
その淡く芽吹いた期待をばっさりと、あまりにも唐突に塵にされた。
あの人に気に掛けてもらってることはわかっていた。
けれどもそれは自惚れることを許さない、哀れな子どもを庇護するだけのものだった。
用意してくれた職場が、部屋が、街がどんなにいいところだと説明されても、どうでもよく思えた。
もうここに居場所はない。
切り捨てるくせに温かい言葉を掛ける。
だから微笑んで応えた。
なんて残酷な人だと。
勝手に好きになって追いかけて、強引にプライベートに分け入って、踏み荒らした僕にあの人を責めることはできない。
感謝を伝えるつもりだったのに、感謝よりも先に溢れ返り零した恨みごと。
求めて止まないのに、こんなに苦しいのに、どうして僕だけ。
全く揺らがない底冷えするような拒絶。
あんな声を聞くことになるならば伝えなければよかったと毎分毎秒後悔と絶望が交互に襲いかかる。
あの日手に入れた高揚感と恍惚感との果てしないほどの隔絶。
翌日普段通りに接した僕に少しの罪悪感を覚えているようだった。
あの人の心に波を立てることができるのならこの際、罪の意識でも構わないと少しだけの優越感で自分の心を立て直す。
そうやって必死に護っていたのに。
気に入ったものを少しずつ増やしていけばいい。
食器の話なのはわかっているのに。
ひとり分だけの食器に、ひとりきりの自分の孤独が見えた。
気に入らなかったから増やして貰えなかった。僕も食器と同じ。
悲しみと怒りでぐしゃりと心が歪んだ。
噛み付いてやりたい衝動に駆られた。
護衛のふたりが居てくれなかったらあの日を乗り越えられなかったと思う。
ひとり残された部屋に寂しさは募っても、無自覚に僕の心を掻きむしるあの人はもういないことに安堵もする。
それなのにどうしてもと選んでしまった榛色。
あの人の瞳の色。
榛色を選んだ理由に気付いたのは護衛のひとりだけ。
あの時少しだけ眉を下げたのを見るに、きっと僕の気持ちだけじゃなく今日の重い空気にも何かを察しているんだろう。
明日からの新しい環境に思いを巡らせるも、それを絡め取ってゆく榛色。
愛しさが重石となり息がひどく苦しい。
会おうと思えば会えるだろうが。
あの人はそう言った。
でも、きっとあの人は会いに来ない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕が欠陥品だと見限られたのは15歳の時。
デビュタントも貴族学院への入学も直前で取り止めになった。
むしろ直前に分かって良かったと安堵された程。
成人するまでに出ていけ。それだけ。
残された3年で身の振り方を自らで決めろと言われた。
それでも3年もの猶予をくれる寛大さに感謝した。
それからは身に付けた教養を活かせる働き口や、自活能力を新たに身に付けることに時間を割いた。
それでも貴族学院を出ていなければ王宮などの主要施設で文官として働くことは難しい。
ましてや勘当されたと知られれば余計にその道は険しくなる。
貴族とは縁もゆかりも無い平民の方が採用されやすいだろう。
平民になることに忌避感はなかった。
貴族の生活に未練がないことの方に自分で驚いた。
心を残すような友人も、家族も無く。
父の求めるものも、やり方も僕には受け入れがたいことだった。
そこから単身逃げ出せる身軽な自分を褒めたくもなった。
そして街へ出た。
生鮮食品や生活用品を扱う市場、隣接した通りには食べ物の屋台が多く出ている。
どれもが目新しくただ眺めて歩くだけでとても新鮮で楽しかった。
そして目に入ったのは、護衛らしき男性をふたり引き連れ市場を歩く男性。
見るからに一般市民に見えないその人。
黒いロングコートに黒い中折れ帽。
進行方向を遮らないように気をつけた方がいいと思わず恐怖を抱いた。
護衛たちの手にも食材などを詰めたと思われる紙袋。
いずれの店の店主とも気さくに話している。
外見から推し量った住む世界。
見せる人好きのする笑顔と和やかな雰囲気に、大きな落差を感じ困惑した。
気付けば林檎を売ってくれた店主にその人のことを訊ねていた。
またこうして見掛けられたらと、自然とその市場を訪れる機会は増えた。
店主の話から娼館というヒントを得て、冗談のつもりだったが男娼という道もあるなと思ってしまった。
それからも時々見掛けるその人の華やかさと沸き立つ色気に次第に当てられるようになり、あまりにもお粗末な作戦を立てた。
あちらから声を掛けざるを得ない状況を作り、そこから認知され、親しくなれないだろうかと。
そして賭場を訪れたあの日。まさか馬車で送って貰えるとは思わなかったが、近距離にいるその人はやはりとても魅力的だった。
そして以前チラと考えたことがまさか会話の役に立つとは。
自身の少数派な性的嗜好を満たしお金を貰える仕事はとても魅力的で理にかなっているように思えた。
この人の元で働けたら今後も会う機会があるかもしれない。
そんな浅はかな理由だったが、もう何でもよかった。
そして今日の御礼だとかそれらしい理由を付けてもう一度だけ話す機会が持てたなら、跳ね除けられるだろうけれど、お願いしてみよう。
その無謀な無作法が。
新しい世界への道標となった。
跡がすっかり綺麗に消えた頃。
本当にお店であの人に会うことができた。
と思ったら怒鳴られ連れ出されていた。
僕の素質を活かし僕を満たしてくれる最高の職場になるはずだったのに。
その代わりに得たのは、蜂蜜入りのミルクティーとあの人のそば。
あの日を思い出すたび昂るのは僕だけ。
あの人は僕を男性的な目で見ていない。
それを分かっていたから、強引に引っ掻きまわすようなことはできなかった。
そんなことをしたらあの家からも職場からも追い出されそうで、そちらの方が怖くてできなかった。
賭場の厨房で働くことにも楽しみを見つけられたし、護衛ふたりに御者、秘書、料理長をはじめとする面々と過ごすことが新鮮で楽しくて温かくて、余計にあの人に気持ちを押し付けることができなくなっていった。
最初の頃は、どうしてあんな面倒を持ち掛けた僕を気遣い家に置いてくれるのだろうと不思議だった。
けれど考えれば簡単。子どもで貴族だったから。
そしてあの人の家でも何度も何度もあの日を思い出しては、ひとり甘く満たされた。
あの日から僕はこんな身体になってしまったのに、あの人には何の感慨も与えられなかったようだと共に過ごすうちに理解させられた。
そして、それに苛ついた。
僕があの人に向けるものが性欲で、愛欲で。
僕の身体があなたを求めてる。
僕の心があなたに満たされたがっている。
僕はこんなにもあなたを求めているのに。
僕はどうしたらあなたに愛してもらえるだろう。
恋愛感情で愛して貰えなくても、せめてどうかこれからも傍に。
このまま親子のような関係でも。
そう考え始めた矢先、追い出された。
まるで僕の想いが日々強くなるのを見越したかのような唐突さだった。
これ以上想いを向けるなら側に置いてはおけない、そう言われたようだった。
その証拠にあの人は他の皆が掛けてくれてような、ありきたりな、それでも明日からも頑張れそうだと思わせてくれる言葉を何ひとつ掛けてはくれなかった。
別れの言葉さえ、元気でやれよの一言さえ無く。
最後に掛けてくれた言葉は、昼間なら部屋でヴァイオリンを弾いていいそうだ、よかったな。そんな言葉。
あの人はヴァイオリンを持たせてくれた。
それには感謝している。
それでもあのピアノはどうするのかとは怖くて聞けなかった。
あの人はピアノを弾けないから。
売られるのだろうか、他の誰かが弾くのだろうか。
誰かとあの家で過ごすのだろうか。
あのメロディがぼろぼろと崩れてゆく。
もうどんな曲だったのかも思い出せない。
今ならば弦が弾け飛ぶほどの情熱で、全てを飲み込む大波を、吸い込むだけで肺を凍らせる山頂の無慈悲な激しさを、野山に降り注ぐ雷撃を、表現してみせるのに。
どうしていつも夜なんだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。




