結局何がしたかったのかしら?
リリカ・アンダーソン男爵令嬢はここ最近目が回るほど忙しく、慌ただしい日々が最近ようやく落ち着いたばかりだった。どれくらい忙しかったかというと、友人から誘われた茶会にも参加できず、ここ最近開催された夜会もすべて欠席しなければならなかった程。
今まで家を離れていたこともあって、久々の我が家ではしばらく放心するかのようにぼーっとして、シャッキリ動けるようになるまで少しばかり時間がかかってしまった。とはいえ、羽を休めたのは精々二日ほどだ。
三日目にようやく自分宛てに届けられた手紙などに目を通し始めて、そこでリリカは思わず今日の日付を確認した。
「あら、とてもギリギリだわ」
以前から約束してあった友人とのお茶会。
他の断るしかなかった茶会はさておき、これはそれよりもずっと以前からの約束であった。
その約束の茶会は本日。
昨日の日付だったら間違いなく手遅れだったが、今日なのでまだセーフだ。
リリカは大慌てで茶会に行くためのドレスを選び、身支度を整え使用人にも急いで用意してもらった馬車に飛び乗る。その颯爽と、という言葉で済ませられない慌ただしいアクションはとても貴族の令嬢とは思えない身のこなしであった。
なるべく急いで、けれども人を事故に巻き込まないよう細心の注意を払ってもらってたどり着いたのは、友人であり今回の茶会の主催者であるメイリン・フリューミア子爵令嬢の屋敷だ。
この時点で茶会が始まるまさに直前といったところであり、リリカは本当にギリギリでの到着であった。
「ごめんなさいメイリン、うっかり忘れるところだったわ!」
「あらあら、リリカったら困った人ね。でもちゃんと来てくれたのだから、いいのよ」
コロコロと鈴が鳴るような声で笑うメイリンは、リリカが時間ギリギリで到着したことについては一切不満を持っていないようだった。その様子に思わずリリカもホッとする。普段はもっと時間に余裕を持って行動しているのだが、ここ最近の忙しさのせいでどうにも時間の感覚が狂っている自覚はあった。
元々本日予定されていた茶会は、メイリンの親しい友人だけを招いたもので、格式ばったものではない。だからこそリリカの慌ただしい来訪は「あらあら」で済ませられた。
他にこの茶会に参加しているのは、メイリンと昔から仲の良いセシル子爵令嬢と、最近結婚し子爵令嬢から伯爵夫人となったカルメン、それからカルメンの友人であり騎士でもあるオリーブ伯爵令嬢である。
リリカからすればカルメンとオリーブは身分の差的な意味で(知り合った当初カルメンはまだ子爵令嬢であったが、いずれ結婚し伯爵夫人となるのは確定していた)本来ならば関わる事のない相手であったけれど、メイリンから紹介されて恐る恐る会話をしてみれば、案外話が合う人物であった。向こうも身分に関してはあまり気にしなくていいと言ってくれたこともあり、最初のうちは遠慮がちであったものの今ではすっかり気心の知れた仲だ。
「前に取り決めてあったとはいえ、もう少し後に開催したほうが良かったかしら?」
「けど、そうなると全員集まれそうな日が中々なかったのではなくて?」
「そうよ。だからこの日ってあらかじめ決めておいて、意地でも予定を入れないようにしていたんじゃない」
「そうですよ。それに……リリカの噂は既にいくつか耳にしましたよ。素晴らしいです! とこちらとしてはもう絶賛したいくらいですけど、そのせいで数日後にはまた忙しくなるのでしょう?」
メイリン、セシル、カルメン、オリーブの順にそれぞれ口を開く。
確かにそうだ。
確実に全員の予定が空けられそうな日は、今日しかなかった。
少し前まで貴族たちが通うことを義務付けられている寄宿学校に彼女たちは在籍していた。
だからこそ、その頃であれば時間をとって集まるのも容易であったのだが、卒業した後はそれぞれがそれぞれの生活に戻るわけで。
メイリンは近々結婚して相手の家に嫁ぐので今日を逃せば気軽に茶会の場所を提供するようなことはできなくなるし、セシルは婿をとって家を継ぐらしいので、こちらも忙しくなる。
カルメンもまた伯爵家に嫁いだことで覚えなければならないことが増えて忙しい身であるし、オリーブは騎士として場合によっては国を離れることもある。
誰かしら時間の都合がつけば会えないわけではないけれど、こうして一同がそろって、というのは本当に今日を除けば次はいつになるのやら……といったところであった。
――久々に会った友人たちと会話に花を咲かせる事しばし。
それぞれの近況やら、ここ最近あった出来事などでそれはもう盛り上がった。
同じ出来事でもそれぞれの目線から見た話で感じ方が違うものもあったし、リリカはそれでなくともここしばらく家を空けていたので、最近ここらであった出来事なんてほとんど知らなかったのだ。
へぇ、そんな事が。
まぁ、本当に?
えぇ!? そんな事になってたの!?
友人たちの話は全部リリカにとっては知らない話で、だからこそややオーバーかもしれないリアクションがするっと出てしまっていた。
友人たちもそんなリリカの反応が新鮮で、ついついあれもこれもと興が乗って話していく。
メイリンたちからすればとっくに終わった話で、もう話の鮮度としても古くなったような話でリリカ以外に話したのであれば今更その話? と言われそうなものもある。
けれどもリリカはそういった話も知らないので、それでそれで? と話の先を楽しみに待っているのだ。そうして聞いた話に何らかの反応を示すので、友人たちもこんなに楽しそうに耳を傾けてくれるのなら話してよかったわ、と思えていた。
「あ、そういえばベネット男爵令嬢の家が没落して彼女が平民になった話ってしましたっけ?」
オリーブの言葉に、一瞬だが水を打ったように静かになる。
「あ」
「そういえば」
「ありましたねそんな事」
「え、あの人貴族じゃなくなったんですか?」
ここ最近の面白かった話で盛り上がっていたし、他にもあれもこれもと話したいことはあったのだけれど、四人の令嬢はそういやそれが一番の話題だったのでは……? とお互いの顔を見合わせた。
ベネット・ヒルグリム男爵令嬢。
国内ではちょっと知られたご令嬢である。
具体的に言えばとんでもなく美人という事で知られている。
国内で美人を述べろと言われれば、大半の人からは彼女の名が出るだろうと思われる程度には。
あまりの美貌に王太子が惚れこんでいるだとか、他にも求婚者が後を絶たないだとか、まぁ色々と噂されているご令嬢である。
さながらそれは木漏れ日の中でふと見かけた陽炎のような、ふとした瞬間に見た白昼夢のような。幻惑的な美貌を持った美女であった。
彼女が人間ではなく妖精や精霊の類である、と言われれば恐らく大半の者は信じるだろう。
そんな、現実離れした美貌の持ち主であったのだ。
とはいえ、正直な話彼女が優れているのはその美貌だけでそれ以外は普通である。
男爵家の生まれなので、高位貴族のような知識や教養は持ち合わせておらず、だからこそもし王太子に求婚されたとしても正妃はあり得ない。側妃になれればいいが、下手をすれば愛人扱いだ。
彼女が努力して高位貴族に遜色ない色々を兼ね備える事ができれば話は違ってくるかもしれない。
そんなベネット令嬢は、何故かリリカを目の敵にしていた。
リリカとベネットが住んでる場所が近いとかではない。出会ったのは恐らくデビュタントを済ませた後の夜会か何かだと思う。正直リリカにはわからない。ただ、リリカがベネットの存在を直接その目で見た時には既に何でか嫌われていた。
直接危害を加えられそうになったとかはない。こちらも相手も身分が低いとはいえ貴族令嬢だ。そんな暴力に訴えるような事はないし、そもそもお互い接点がまずないと言える。直接会うことも滅多にないので危害を加えようにもその機会がないだけなのかもしれなかったが、とりあえずリリカは今日も元気に生きている。
むしろベネットのほうが身の危険は身近にあったのではないだろうか。
何せあの美貌。一度見たら忘れられそうにない程の、神が作りたもうた芸術作品のような女だ。
よからぬ欲望を抱く者はそれこそ多くいた事だろう。羨望だけで済むはずもない。
何とかしてあの女を手に入れようと画策していた者は多くいたに違いないのだ。
ただ、王太子がアプローチしていたという話もあったからこそ、表立って手を出せる感じではなかったのかもしれない。王太子以外にも身分が高い貴族もこぞって、という噂もあったくらいだ。そこを下手に横から手出しするような真似をすれば、一体誰が敵に回るかわかったものではない。
面倒な相手に目をつけられていただろうけれど、同時にその目をつけていた相手によって抑止力が働いていた部分もある。中々に面倒な立ち位置に、本人が望む以前に強制的に置かれていたのがベネットだった。
暴力はなかったが、ちょっとした噂あたりは流されたらしい。
とはいえ、リリカに全く当てはまらないある事ない事どころかない事ない事ばかりの噂で、信憑性も何もなさすぎてそんな噂が出たとしてもすぐに立ち消えてしまったが。
彼女の美貌に狂わされてせっせと偽の噂を流すことを協力した信者がいたとしてもだ、噂があれこれ増えた時点で矛盾が生じてくる。
例えばリリカの胸は実はないのに詰め物をしてあるように見せかけている、という噂が出たとする。だがしかし同時に、リリカは自分の胸の大きさを鼻にかけて小さな胸の女を見下している、という噂も流れてくるのだ。
詰め物をした上でそう、と言われればまだしも、胸の大きさを強調するようなドレスを着て、だとかの噂の内容通りであるなら、胸を強調するようなドレスで詰め物は即バレる。
誰が信じるというのだそんな噂。
むしろ騙されるほうが馬鹿、とはっきりわかるようなものすぎて、騙される奴はいなかった。
リリカの存在を知らない誰かであれば信じたかもしれないが、リリカはそれなりに有名で人前に出ることもあるのでそういった噂を信じる者は果たしていたのかどうかも疑わしい。
ちなみにリリカの胸のサイズは平均である。
仮に詰め物をするにしても、だったらもうちょっと盛った方が……と言いたくなるサイズといえばいいだろうか。なので巨乳を自慢しているとかいう噂が出たとして、あれは平均サイズだしリリカがそこら辺のサイズを理解できないはずがないだろうと言われて終わる。それどころか、彼女の胸を大きいと断じるなんて言った相手はさぞ無いのだろうね……と憐れまれかねない。
他にもいくつかの噂が出たけれど、大抵それと真逆の噂も同時に出るので真偽はどっちだ、と確かめたくなる相手がちらほらと出て、結局それが根も葉もない噂であるとなるまでが一連の流れでもあった。
噂の出所がベネットである、というのは貴族たちの間では表立って言われてはいないが、それでも大抵は気付いている。誰から聞いたか、というのを遡れば大体ベネットにたどり着くのだ。
噂を、それも悪評を流すにしてももっと上手くやりようがあるだろうと思える。
ベネットの顔が圧倒的にいいから騙される者も現れるけど、仮にベネットがリリカを消して頂戴と信者に言ったとして、今までの噂から判断されるリリカ像がさっぱりわからない。
ついでに趣味の悪い噂を流す事で周囲からひそひそされていたようだけど、ベネットはそれらを事実無根だわ……と被害者のように振舞ったりもしていた。
だがしかし、被害者面されてもどうあがいたところで噂の出所はベネットである。
ただ、ベネットはお顔は良くても頭はあまりよろしくないのか、人を陥れるのが壊滅的に下手くそだったのもあって、リリカの名誉が失墜するような事はなかったのだ。信者を使ってどうこうするにしても、その人の使い方が下手くそであった。
対するリリカは、ベネットに並ぶ美貌の持ち主とかではない。どちらかといえば平凡な顔立ちだと言われる方だ。リリカとベネットに共通するのは男爵令嬢という点と、種族的なものだろうか。それ以外の共通点は探せば他にもあるかもしれないが、少なくともパッと思い浮かぶのはこれくらいである。
ただ、ベネットと違いリリカは才女と称される人間であった。
ここ最近忙しかったのは、寄宿学校時代に書いたレポートがお偉いさんに認められ、ちょっと研究のために隣国に赴いたりして、そっちでやった研究のいくつかが思った以上の成果になったり、そこから更に新しい発表をした結果それが画期的だと称賛されたり、まぁ、色々あったわけだ。
ベネットの信者がリリカを害そうにも様々な噂が流れすぎて、人前に出る機会があるリリカは名前が同じだけの別人だと思われているのもあってかこれまた無事である。
そんなわけで、ベネットが何かを言っていたとしてもリリカの耳に直接入るような状況でもなかったし、だからこそ平民落ちした、というのはまさしくリリカにとって驚愕の――というのは大袈裟だが、それなりに驚くべきニュースであった。
確かにあの美貌に狂わされた連中は大勢いるけれど、しかし周囲のまともな人間が彼女との縁談を望まなかった。王太子が彼女を妃に、と望んでいてもすぐにそれが実現できなかったのは彼女の身分も勿論だが、彼女の気に入らない人間をどうにかして追い落とそうという性格面もある。
貴族として生きている以上、邪魔な相手を追い落とす事はそれなりにある。だからこそベネットの行いは悪と断じるには少しばかり難しいものではあるのだが。
いかんせんやり方が大変よろしくなかった。
気に入らない相手を失脚させる方向に持ち込むにしても、粗が目立ちすぎるのだ。そういう事は普通もっと証拠が残らないようにやるべきものであるはずなのに、ちょっと調べればゴロゴロ出てくる証拠の数々……
こんなの嫁にしてみろ。自分の首まで締まるのは目に見えている。むしろベネットは破滅願望がある、と言われた方が余程納得と理解ができるというものである。
そういったあれこれを突きつけて問い詰めれば、ベネットはそんなつもりはなかった、誤解だわ……なんてさも行き違いがあったような言い方をするが、結局のところどんなつもりだったのかを言う事はないし、最終的にはほろほろと涙を零してその場を逃れようとするだけ。
確かに彼女の美貌に狂わされる者はいるけれど、直接彼女と関われば大抵は即座に夢から醒める。
何せ、彼女には人を惹きつける程の魅力はなかったのだ。外見以外。
口を開けばいらぬ事ばかりを言い出すような女だ。
だからこそ社交の場では遠巻きにされていたし(あまり彼女と関わらず深く知らない者は彼女の美貌に嫉妬していると思っていた)、深い付き合いの友人というものもいなかった。
いや、過去にいなかったわけではないのだ。
ただ、美貌の彼女の隣にいれば嫌でも自分は引き立て役になる。
だがしかし、外見以外は残念な代物であるベネットの近くにいて普通の振る舞いをするだけで、逆に自分の株を上げるしたたかな者も中にはいた。
そういった相手は早々に結婚相手を見つけ、ベネットから離れ遠く離れた地で幸せに過ごしている。
もう少しだけ、せめてあとほんのちょっと思慮深くあればベネットへの周囲の反応も違ったと思うのだが……
「一体何をしでかしたんです……? いえ、普段からそれなりにやらかしてはいるようでしたけど」
ベネットが噂を流す人物はそれなりにいた。
その中でも一番あたりが強かったのはリリカだ。
一体リリカの何が気に入らないというのか……そもそもろくに関わったこともないので、彼女の不興を買った原因がよくわからない。これが初対面の時にうっかりドレスの裾を踏んづけただとか、転びかけた自分の肘が彼女の顔面にクリーンヒットしたとかいうのであればまだわからないでもないのだが、そういった事実は無い。
正直な話、社交界ではベネットの噂なんて信じてる者は極僅か。それも信者と呼べるような者たちだけなので、悪評を流されたとしても正直流された側はあまりダメージを受けていない。勿論最初の頃は多少なりともその噂を信じられていたけれど、今ではすっかりメッキが剥がれた状態なのだ。
彼女の信憑性のない、どころか思い込みで流す噂を信じるような者は基本的に他の噂にも軽率に踊らされるだろうし、そういう意味では大半の貴族からするといい見分け方の指針であった。
勿論、不愉快に思った事はある。
けれどもわざわざ相手のところに乗り込んでどういうつもりか、と問い詰めるつもりもなかった。
正直リリカは忙しくて、ベネットに割くだけの時間がなかったのだ。そんなことをする暇があるなら、一つでも論文を纏めて発表している。まだまだやるべきこと、やらなければならない事、やりたい事はたくさんあるのだ。
優先順位を決めるとどうしたってベネットの存在は下から数えた方が――いや、一番下にあるといってもいい。
ある意味で娯楽のような話題提供者ではあるけれど、そんな彼女の動向を一々気にしていられる程の暇人は多くはない。
「えぇと、そうね。また、噂を流していたのだけれど」
「えぇ。いつものね」
「そう、いつもの、貴女に関する噂よ」
相槌を打てばさらにそう続けられ、本当にいつものやつじゃない、と思う。
それ以外の感想を抱け、と言われても出てこない程度には定番すぎた。
なんというか、ベネットがリリカを嫌っている、というのはリリカも認識している。とはいえ何かをした覚えはないのだが。
だがしかし、その噂のことごとくが的外れというか、本当にそれは私のことを言っているのかしら? と思えるようなもので。むしろ適当な人物をでっちあげて、それにリリカと名付けていると言われた方がまだしっくりくる話だった。
最初の時はその噂を信じた者もいたけれど、今では信じているのは盲目的なまでにベネットを信仰している者くらいだ。しかもそういった信者は実際のリリカを目の当たりにしてもそれが本人だと気づいていない。
何故なら今までベネットが流したリリカの噂を総合すると、リリカという令嬢は髪が山よりも高くそびえたっていながら令嬢にあるまじき短さで、目はぎょろぎょろと常に大きく見開かれているけれど細すぎて開いているのかいないのかわからない。鼻は団子のようにまるく、しかしカギづめのように鋭く、唇は分厚いが女性にしては薄く色気が足りないらしい。
この時点で何言ってんだ? と言いたくなるのは仕方がないが、更に体型もふっくらしているだとか、まともに食べていないのかガリガリであるだとか、同時進行で対極的な情報を垂れ流すものだからもう本当に誰の事を言っているんだ、少なくともそれは一人の事ではなく複数名の誰かをさしているのでは? としか言いようのないもので。
こんなのを信じるのはベネットを妄信的に崇めている信者くらいだ。そして信じる情報をもとにリリカに嫌がらせをしようにも、該当する人間などいるはずがない。
外見に関する噂だけでもこれだ。
内面も含めたらもうそんな人間いるはずがないだろう、とどんな学のない人間でも一笑に付すだろう事が窺える。むしろいるなら見てみたいとか言われそう。
「それで、今回は一体どんな噂を流したのかしら?」
悪評を流されてる割にリリカが怒り心頭という感じでないのは、単純にここまでくると一周回って面白くなっているからだ。
直接顔をあわせるような事になればもしかしたら手にした扇でぶん殴られるくらいの事はされるかもしれないけれど、直接会う機会がまずない。茶会は誘う顔ぶれが重なるでもないし、夜会はリリカが忙しくて参加を断っている事がほとんど。リリカとベネット、共通の知り合いというのはおらず、だからこそ親友面をして近づいてリリカに危害を加えようという者もいない。
もうどんな荒唐無稽な話が出てきても驚かないぞ、くらいの気持ちではあったが、その結果ベネットは貴族ではなくなってしまったという事だし……はてさて、一体どんなとんでもない話をベネットは生み出したのだろう。
「それがね、なんと今回はリリカがザッカールマン教授を殺害したんですって」
「まぁ」
紅茶でも飲みながらのんびり聞こうと思っていたが、流石に紅茶を口に含む直前で良かったとリリカは思う。ちなみにザッカールマン教授というのはリリカの論文を見て研究室に誘ってくれた人で、ついでにいうなら隣国の発表に共に参加した人物だ。リリカからすれば恩人のような相手であり、恩師と呼んでも過言ではない。
彼がリリカの論文を見出してくれなければ、隣国に行く機会など到底なかっただろう。
そんな相手を殺すとは、なんともぶっ飛んだ噂である。殺害動機がどこにもないではないか。
「あまりにも有り得ない話だったから、流石にそれは誰も信じちゃいないわ。一部の頭の悪い信者以外は」
カルメンの言葉はとても辛辣であった。
リリカが出した論文は薬草学に関するものであり、またそこから発生した研究で本来のものとは違う効果のある薬が出来上がってしまったが、そちらは美容に大変効果のあるもので、今現在美容に興味のある情報通の貴族たちはリリカが生み出す事になったそれらが商品化されるのを今か今かと待ち望んでいる状態だ。
本来の薬の方もその過程で改めて作成されるようになり、そちらも流通できるようになれば一部の病は根絶も夢ではないと囁かれている。
とはいえ、病を根絶するなど簡単な話ではないのでそれは過剰な期待ではないかとリリカは思っているが。しかし、特効薬が出来上がればその病で命を落とす人は減る。なるべく多くの人に行き渡るようになればいいな、というのがリリカの正直な気持ちだ。
ザッカールマン教授は、公爵家の人間である。
彼がリリカのバックについてくれたおかげで、リリカの研究成果を丸ごと奪ってしまおうという輩が出ることはなかった。むしろ、教授がこの研究を発表してくれた方がもっと色々と話は早いのではないか、とリリカは思ったくらいだが、教授は人の手柄を横取りするようなことをするような人ではない。それは間違いなく君の成果であり功績である、と教授は言っていた。
手厚いくらいの保護をされているような状態で、リリカからすればどれだけ感謝してもし足りないくらいだ。
彼が口利きをしてくれたから、今後は王立研究院で働く事も約束されている。
というか、他にもいくつかの発表をしてしまい、それらのせいで手が回らないくらいなのだ。まさか自分でもこんな立て続けに画期的な薬の開発ができるなんて思っていなかった。
正直男爵家という身分のせいで権力を盾に面倒なことを言い出す貴族がいるのではないか、と懸念していたのだが、それも教授がどうにかしてくれることとなっている。
教授の知り合いの伯爵家、そちらへ近々リリカは養子として入る事になり、そこから更に教授の推薦した侯爵家の青年と結婚することが決まっている。
教授陣営に取り込まれている、と言われてしまえばそれまでだが、今から他の誰かをパトロンとするにも派閥の問題が面倒だし、何よりザッカールマン教授はリリカの本来の家族に関してもある程度の保証を約束してくれた。
ちなみに結婚が決まった青年と顔を合わせてみれば、何気に知り合いであったというのもある。
同じテーマで研究している同士でもあった。今まではライバルのような立ち位置だったが、これからは協力して研究ができる。共同で研究をしようにも以前は色々なしがらみがあったのでそれも中々難しくはあったが、これからはそんなこともなく遠慮なく共同での研究がし放題だ。
ただの顔合わせが研究に関する話で盛り上がり、とんでもない時間が経過していたのはちょっとはしゃぎすぎたかな、と反省している。
ともあれ、そういったあれこれがあるからこそ、リリカはとてつもなく多忙であったわけだ。
そしてベネットが貴族でいられない理由はそれだけでよく理解できた。
殺害しようとしている、とかであればまだ、そのような噂を聞いて、だとか何らかの不穏なものを感じて、だとかで誤魔化しようはあった。けれども、殺害した、と断じたのだ。
いや、一体どんな方法を用いればあの教授をリリカが殺害できるんだ、とリリカとザッカールマン教授を知る人物はまずそこを疑問に思う。ザッカールマン教授は今でこそ穏やかなおじいちゃん先生、みたいな風貌をしているけれど、若いころは危険な地域に単身フィールドワークに出かけ、たまたまそこに根城を作っていた盗賊団を壊滅させたり、海を渡っているときに出くわした海賊たちを返り討ちにし逆に船を乗っ取ったりだとか、いろいろとやんちゃな話に事欠かない人物である。
正直今も現役バリバリである。見た目が穏やかになっているが、別の貴族を狙って襲い掛かってきた刺客を手にした杖で一撃で仕留める程だ。
ちょっと野山を駆け回る程度のお転婆さがある程度のリリカが彼を殺そうとするならば、それこそ万全の状態で尚且つ彼を陥れるための罠を用意したとして……正直それでも勝ち目は薄い。
「やらかしちゃったか~……」
だからこそ、リリカに言える事はそれだけだった。
自分の派閥に優秀な娘を取り込む事にしたザッカールマン教授が、その娘にケチをつけてくる相手を野放しにするはずもない。いくら荒唐無稽な噂を流しただけとはいえ、だ。
そもそも、リリカに殺される程衰えてはおらん、とか言いそうだなとリリカは思う。
それならまだ、リリカはザッカールマンに身体を差し出して研究成果のおこぼれをもらっているだとかの下世話な噂の方が信憑性がありそうだというのによりにもよって殺害した、ときたもんだ。教授からすればとんでもない侮辱だろう。いや、体をどうこうの方も大概だけども。
でもまだ信じられそうなのは下世話な方だと思う。
ベネットを直接追い詰めたのはザッカールマン教授ではないけれど、それでもそんな噂を流したのであればまぁ、今までの事も含めてそうなるよなぁ……としか思えなかった。
「すごかったのですよ、教授の奥様がそれはもう、えぇ」
にこーっと笑うオリーブではあったが、その笑みはどこか固い。夢に出てきました、と言ったその言葉で大体察した。そうか、とても怖かったのね……とこちらとしてもそれ以上その部分に関しては深く聞けなかった。
ベネットは確かにリリカに関する悪い噂を流しまくっていたけれど、他に被害者がいなかったわけでもない。彼女にとって気に入らない相手は最低一度はやられている。とはいえ、そこで彼女とやりあうような真似をする貴族はほとんどいなかった。ただそれだけだ。
「同じ男爵家の小競り合いで済むうちはまだしも、いくら王太子に求愛されてるとはいえ正式に妃になると決まったわけでもないし、ましてや側妃の立場が確定しているわけでもない。そんな状態でよく公爵家に喧嘩売るような真似できましたねぇ……」
「ほんとそれよね」
セシルの言葉に頷くしかない。
「流石にね、公爵家を敵に回すようなお嬢さんは……って事で王太子も目が覚めたようではあるのよ。あんなの妃にして御覧なさい。いつ他国にやらかすか」
「そうね、王太子が止める間もなく宣戦布告とかしそう」
流石にそんなことしないだろう、と思いたいが、いかんせん今までの行いを思い返せば絶対に無いと言い切れないのが怖い。
「教授のいる派閥ってかなり大きいし、その派閥に属さないだけならまだ何とも思われないでしょうけど、敵に回すような事しちゃうのは、ねぇ……?」
意見が対立する程度では別に徹底的に潰そう、とまではいかないが、流石に今回のその噂は内容が悪すぎた。
教授の奥様が動いたのは、教授がその時隣国にいたからに他ならないがもし公爵家が動かなければ、それ以外の貴族が排除に出向いたかもしれない。
何せ下手な事になってリリカの研究成果でもある薬や美容品が出回らなくなれば、それは彼らにとっても損失なのだから。己の利益のために動くのは身分が上だろうと下だろうと変わりはない。
「もうちょっと早めの段階で止めておけば、ここまでしでかさなかったのかしら……?」
「どうかしら。今までだって自分で噂を流しておきながら、追及されたら自分じゃないって言い張ってたような女よ。どうせ被害者面して、注意された事も曲解して歪曲させて広めたに違いないわ」
「そうね、以前一度忠告した相手がまさにそうなったみたいだもの、その方はもう関わることをやめたみたいですけれど」
リリカの呟きに、メイリンが首を横に振り、メイリンを肯定するようにセシルもまた頷いた。
ちら、とカルメンとオリーブを見れば二人も渋い表情を浮かべている。
「彼女の両親がね、流石に庇いきれなくなってしまって。というか、ザッカールマン教授に目をつけられた時点で、この国で生きてくの難しいと思うのよ。彼女の信者とも言える連中は大抵男爵家か子爵家、伯爵家の人もいたような気はするけど、そちらは数える程度。
今までの証拠なども突きつけられて、過去の行い全部清算させようとしたらあの家だけではとてもじゃないけど賠償しきれなくて。
信者たちが庇おうにも、賠償肩代わりしたら流石に家が傾くのがわかりきってる。信者たち全員で金額を集めたとしても、被害に遭った家が多すぎて……」
「あらら、それで、没落して爵位返還、って事かしら?」
「えぇそうよ。平民落ちして、流石に王都とか大きなところでは暮らしていけなくなるからってどこだったかしら……片田舎の方に行くしかなかったみたいだけど……」
「信者の皆さんはついていかなかったの?」
メイリンの溜息まじりの言葉に、リリカはふと疑問に思ったことを口に出した。
これも下世話な話ではあるけれど。
ベネットのあの美貌は、おいそれと手出しできる感じではなかった。
王太子やそれ以外の者たちが求愛していたからこそ他の身分の低いものが横からかっさらうような事はできなかったと言ってしまえばそれまでだが、王太子やそれに近しい身分の者たちとて平気で公爵家まで貶めようとするような噂を流す相手と結婚するところまでは頭の中身がお花畑ではなかったようだし、平民になったから、と愛人として囲うにしてもだ。
そんなのを手のうちに置いておけば、あからさまな弱みになる。
だからこそ手を引いてしまった今、そして貴族ですらなくなった平民の娘として考えるのであれば、今まで周囲に群がっていた信者たちに絶好の機会が与えられたといっても過言ではない。
「あぁ、それでしたら、よからぬことを企んだ者もいたようですけれど、仲良く自滅いたしましたわ」
カルメンになんてこともないように告げられて、リリカは「あらまぁ」としか言えなかった。
今まで信者たちにとっては『皆のベネット』という存在だったのが『自分だけのベネット』になるかもしれないと考えたら、そりゃまぁ、欲を出してもおかしくはない。けれども、同じことを考えている同士が存在すると気づくのは容易だろう。そうしてお互いに潰しあったという事か。
「全てをわたくしたちが、というわけではありませんが、色々と邪魔な存在であった事は確実ですし、片付けようとしていた方々の手間が省けたのは事実ですわ」
カルメンが扇を広げ口元を隠しつつ「ほほほ」と笑う。リリカの知り合いは信者になったりはしていなかったが、他の貴族もそうというわけではなかったのだろう。身内の恥となりそうな相手を野放しにするのは問題があるし、いずれ折を見て……と画策していた家は果たしていくつあったのだろうか。
とはいえ、同士討ちで潰しあったというのであれば、その手間が省けたというのは確かだし余計な人材を回す必要もなくなる。やらなくていいような事なのにしなければ後々面倒な事になるのであるものだから、その手間が省けた事で喜んだ相手は果たしてどれだけいるのだか……
「そうそう。奥様があれこれ手を回したときに、気になったから彼女に聞いてみたのです」
思い出した、みたいな感じで両手をパンと軽く打ち付けてオリーブが言う。
「どうしてリリカに対してそこまで目の敵にしているのか、と」
オリーブは騎士という立場上、ベネットと少しの間ではあったが顔を見せる機会があったらしく、だからこそ直接その疑問をぶつけることができたらしい。
「わざわざ本人に? それきちんと答えてくれました? 今までだって噂流しておきながら、自分じゃありませんとか言ってたのに、そこだけ正直に答えるとかあるかしら?」
そしてリリカの疑問はもっともだった。
「なんでも、優秀だったのが妬ましかった、らしいですよ」
「えぇー……」
釈然としない。
リリカの気持ちを一言で表すならばまさしくこれだった。
「だって、他にも優秀な人はたくさんいるのに……?」
確かに今回はたまたまリリカに注目が集まるような事になったけれど、それ以外が何もしていなかったわけではない。建築学を専攻していた伯爵家のご令息が治水工事に関する案を出し、それがまた画期的との事で早速その案を採用した一部地域が存在するし、民俗学を専攻していた子爵家の令嬢が何故か過去に存在していたらしい幻の料理のレシピを再現させたりもした。その料理がかつて、ここがまだ別の国の名を冠していた時代のもので、文献にも名前だけはあったもののどういったものかが全く分からないレシピだったのを復活させたのだ。
失われた歴史の復活、と言えば大袈裟だが、そういった出来事がリリカが注目される以前にはあったし、むしろそっちの方が凄いなとリリカは思っていたくらいだ。
今回はたまたまザッカールマン教授によってリリカが注目を浴びる形になったけれど、それ以前からベネットのあたりは強かった。
同年代で、同じ男爵家の令嬢。それくらいしか共通点はない。
だから、だろうか? 先に出した二人はリリカたちが寄宿学校にいた時点で功績を出していた。直接ベネットが顔を合わせることもなく、だから遠い世界の人、くらいの認識だったのだろうか。
だがリリカは。
ベネットからすれば身近な存在だったのかもしれない。
けれどもやはり釈然としなかった。
優秀なのが羨ましくて妬ましくて、というのであれば、ベネットもベネットなりに勉強を頑張ればいいだけの話だったはずなのに。リリカは自分の好きなことを学んでいった流れで今回の結果になったに過ぎないのだから、ベネットもベネットなりに自分の好きな事を学べば、その分野でもしかしたら結果を出せたかもしれない。
彼女なら、自分の美貌を活かして更にそれを輝かせるようなファッションだとか、化粧の仕方だとかそっち方面で頂点に立てそうだなと思うのだが。自分を飾り立てるようなものじゃなくたって、例えば美容のためによく口にする食べ物だとか、そういうところから流行を作ることだってきっと可能だったはずなのに。
もしかしたら、実はそういうのが苦手で、やりたいことがリリカと同じ薬草学とかそっち系だった、というのであればまぁ、わからないでもないのだ。リリカがいるから自分は目立てない、トップに立つことができない。そういう風に思われていたのであれば。
けれどもベネットが薬草学に興味を持っていたという話は聞かない。聞いていたら信者があれこれと詳しい人物だとかと会うことができるように手を回した可能性がある。
――どちらにしても、と思う。
どちらにしても、ベネットはやり方を大きく間違えた。
嫌がらせをする程度であれば、大抵は受け流されて終わるだけだったのに、手を出したらいけないような人物を巻き込む形にした時点で。
彼女の破滅は決まったのだから。
ふと母の言葉を思い出す。
「争いっていうのはね、基本的には同じレベルのところでしか起こらないの。考えても御覧なさいリリカ。平民一人が王家に喧嘩を売って、争いになるかしら? ならないでしょう? 不敬だと一瞬で処分されて終わるわ。この国の平民たち全てが王家と喧嘩をしよう、というのであれば争いになるかもしれないけれど、個人間の争いであれば力量の差がありすぎると争う前に終わってしまうの。
だからね、リリカ。
もし喧嘩をするような事になるとしても。相手の力量はよく見てからになさい。仮に自分よりも上の相手とやり合わなければならないのであれば、なおのこと相手をよく観察なさい。一撃で確実に傷を負わせられるように」
何が切っ掛けでこんなことを言われたのかはもうすっかり覚えていないけれど。
けれども母のこの言葉は今でもしっかり覚えている。
それに当てはめるのであれば。
ベネットは果たして喧嘩を売っていたのだろうか、という気もする。
確かに人のことを貶めるような発言が多かったけれど、ろくに関わった事のない相手に言われても何言ってんだろうあの人……としか思わなかったのだ。
傷つかなかったと言えばウソになるけれど、関わりがなさすぎて妄想癖の激しい人なのかしら……? とすら思っていた事もあるのだ。
これがもし、言っている相手がメイリンだったなら、リリカは激しく傷ついてしばらく外を歩く事もできなかったかもしれない。大切な友人だと思っていた相手にそう言われたら間違いなく傷ついてみっともなく部屋の中でわんわん泣いたかもしれない。
でも、言ってる相手は友人ですらない相手だ。傷つくというよりも、何でそんなこと言われてるんだろう……? という疑問の方が大きい。
仮にベネットがリリカの顔の造形をぼろくそに貶したとしても、そこまで傷つくこともなかっただろう。実際ベネットとリリカを比べればベネットの圧倒的美しさは誰が見たって明らかなのだから。
ベネットがリリカを盛大に傷つけて精神に消えない傷を残そうとするのであれば、まずはリリカと友人になってそれこそ親友と呼ばれる程の仲になってから貶すべきだったのだ。
そうすればリリカは間違いなく友人の急な態度の変化に困惑し、またその友人から投げかけられた心無い言葉に深く傷ついたに違いないのだから。
友人でもない状況で、ベネットがリリカのことを嫌い嫌いと喚いたところで、じゃあお互いなるべく関わらないようにしましょうね、と距離を置く以外何ができるというのか。
もしベネットがそう言って、リリカがじゃあベネットのために私この世からいなくなってあげるね、とでも言うと思われていたのだろうか。そんなことあるわけがないのに。
「……結局、何がしたかったのかしらねぇ……?」
「さぁ? 蹴落としたかったにしても、やり方が稚拙すぎてわたくしたちにも理解できませんわ」
リリカからしてみればたった今聞いた話とはいえ。
とっくにベネットは平民となってしまっているし、それからそこそこの日が経っている。
だからこそこれは、自分を嫌っていた相手が知らないうちに勝手に自滅した話、としか言いようがない。
結局リリカはベネットの心のうちなど知る由もなく、その話題はこれ以上続くことでもない。
お茶会の話は早々に次の話題に移っていくのであった。