終
いつの世だったか。干ばつによる不作が続くと誰かが嘆いていたので、雨を降らせた。
すると老年の男が、畑の様子を見に行った帰りに、増水した川の前で、足を滑らせたらしい。
それから己は、悪しき妖魔だと、まことしやかに噂されるようになった。
腹立たしくはなかった。人間は脆く、儚い生き物だから。
ただただ……哀しかった。
封印。例えるならそれは、糸だ。
何百年もの間、己という存在を雁字搦めに縛りつけていた、無慈悲な。
永すぎる時を生かされていた所為か、それが当然になっていた。傀儡のように、無力な人の身を持て余すのみで。
だのに、嗚呼──
「あなたは、優しいひとですね。こんなに透き通った唄声なんですもの」
鈴なりに成った白い花が一房、差し出される。
ざわ、と、凪いだこころが波打った。
このまま知らなければ、楽に過ごせたものを。
浅ましくも、熱を、知ってしまったのだ。
* * *
がむしゃらに前足を動かし、地を駆けて駆けて、駆け巡った。その末に得た光景が、よもや、こんなものとは。
「──退け、人間ども」
「天虎!?」
「馬鹿を言え、漆黒の毛並みを見てみろ! あの妖魔は……饕餮だ!」
「〝白衣の巫女〟は、一体何を……!」
「二度は言わせるな──退け」
慌てふためく神官どもを蹴散らし、水底に沈んだ少女を探し当てる。
爪や牙で傷つけるわけにはいかない。人の身で、人の腕で抱き上げるのは、当然のなりゆき。
「この娘は連れてゆく」
否やは言わせぬ。誰が何と言おうと、どんな顔をしていようと、どうでもいい。
〝白衣の巫女〟が、蘭山の清水に満ちた叢祠で、身を投げた。
「……ばかなことを」
彼女は糸を結ぶのではなく、解いたのだ。
霊力すべてを、犠牲にして。
「俺を、独りにしないでくれ……」
君のいない世界など、悪夢でしかないのに。
「俺の名を、呼んでくれ……瑶佳」
──懇願する黄昏の光に、雫が散った。
* * *
鳥も、花も、草木も。
蘭山に棲まうすべての生き物が、彼らを見守っていた。
甘い花の香る傍で、少女を抱いた彼が、朝も昼も夜も、片時も離さずにいるのを。
少女はやはり、目を覚まさない。
物悲しい旋律だけが、響き渡る。
「──見つけたぞ」
そんな折、唄を遮る声音があった。
夜闇の中で対峙した少年が佩いていたのは、ひと振りの剣だったか。
「──姉上を返せ、悪鬼め」
抜き放たれた刃が月光に反射する様を、亜麻色の絹糸に指を通しながら、ぼんやりと眺める。
たしかにこの腕の中に在るのに、己を〝透夜〟と呼ぶ鈴の音色は、どこにもなかった。
嗚呼。
夜明けは、いつなのだろう。
夜風が揺らす 水面の孤影
燃ゆる想いを秘めてまで
誰がために 馬酔木はたたずむ
波紋が静寂を崩すなら
その白い腕に わたしを止まらせて
玲瓏なる鈴の音
誘いましょう 夢の中へと
胡蝶が映る 泉の鏡
募る想いを凍らせて
風にそよぐ 馬酔木の花
岸辺の風紋乱すよう
わたしの翅 手折ってみますか
凛然たる鈴の音
訪いましょう あなたのもとを
透明なこころ さらせるのなら
その白い指の 香りをわたしに
導きましょう 夢の外へと
黎明の灯は あなたの傍に
【完】