急
そこにあるのは春の陽気ではなく、一点の曇りもない清廉な気の流れ。
ともすれば痛い緊迫感の中、崔牙は姉の代わりに視線を巡らせる。
天井が吹き抜ける、白い石造りの叢祠。入口の両脇を神官が固め、人が一人やっと通れるほどの道が、真っ直ぐと伸びる。周囲は清水が満ち、音もなくゆらめく。
その先、拓けた大広間にて、神官長を従えた長老が、じっとこちらを見据えている。
「〝白衣の巫女〟となる者よ、こちらへ」
崔牙は、またたく間に血の気の引く思いだった。
この叢祠の水は、蘭山の湖から特別に引いていると聞いたことがある。
当時は幼くて、何のためにそんなことをするのかまったくわからなかった。だがたった今、理解した。
「待て、それは駄目だ!」
長老の待つ場所へ向かうには、あの心許ない細道を通らなければならない。
取り囲む水深は、大人の身長をゆうに超す。瑶佳は目が見えない。あまつさえ、儀礼用の重い衣裳を着用しているのだ。もし足を踏み外したりしたら──
「崔牙、これも儀式なのです」
「ですが、姉上!」
「わたしを信じなさい」
弟を諭す言葉は、瑶佳自身にとっての叱咤だった。長く息を吐き出すと、崔牙の手を離し、歩み出す。
衣裳の裾が水面をかすめる度、崔牙の鼓動を乱す。
しかし瑶佳の足取りは、凛然たるものだった。ぴんと背を張った姿勢、絶妙な平衡感覚で、一歩一歩を踏みしめるように進む。
永遠にも似た時間は、やがて終わりを告げる。瑶佳は細道を渡り切ってもなお歩みを進め、長老の前へ至ると、膝をつき、頭を垂れた。
宝冠から垂れた冕旒が、しゃらん、と音を立てて揺れ、淡い色の髪が肩を滑り落ちる。
「無垢なる娘に、麒麟の加護があらんことを」
長老の言葉を合図に、瑶佳の両まぶたへ指の腹を押し当てた神官長が、言霊を発する。
「五苦が一苦を耐えし者、功徳によりて證果を得ん。これを以って、汝の血肉とせよ」
瑶佳が膝をつく石の床に、光の紋様が浮かび上がる。
刹那、崔牙の視界が白く染まった。
たまらず目をつむる。だが崔牙は見た。必死にこじ開けた視線の先で、床の紋様が輝く帯となって浮かび上がり、姉の身体に集束するのを。
「姉上っ!」
輝きが完全におさまるのを待たず、石の床を蹴っていた。細道を疾走し、瑶佳のもとへ一直線に駆けつける。
「姉上、しっかりしてください、姉上!」
夢中だった。うずくまる姉の肩を揺さぶる。
髪と同じ、亜麻色の睫毛が震える。やがて現れたのは、大きな胡桃型の紫水晶。己と同じ色彩の瞳が焦点を結び、そして、笑んだ。
「まぁ……すっかり大きくなりましたね、崔牙」
「あね、うえ……姉上、よかったぁ、姉上ぇっ!」
平生の落ち着きをかなぐり捨て、人目もはばからず崔牙が瑶佳を掻き抱くのも、仕様のないことだった。
六年だ。六年ぶりに、姉は自分を見つめてくれた。これ以上に歓喜すべきことなど、ほかにありはしない。
「瑶佳」
「はい、心得ております」
咳払いと淡泊な声音が響く。目尻をにじませた崔牙の胸をそっと押し返した瑶佳は、長老へと向き直り、儀式を途中で遮ってしまったことを侘びた。
「その身に背負った使命を、理解しておるな」
凄みのきいた長老の視線に、崔牙は狼狽した。だが瑶佳は臆することなく、むしろ正面から対峙するように見返す。
「この地には、かつて水害によって民を苦しめた大妖、饕餮が封じられています。ここ黄州を治める己家の巫女として、ほころびの生じた封印を、より強固なものへとすること──それが、わたくしの使命です」
そのために、六年前の今日、瑶佳は自ら〝光〟を断ったのだ。苦行を経て返還された霊力は、より研ぎ澄まされ、悪を御する聖なる力として覚醒する。
そう、いにしえからの、伝承によれば。
「ではこれより、封印の儀を執り行う」
「恐れながら、長老。儀式の前に、しばしのお時間を頂戴いたします。──崔牙」
静寂に響く水音で、崔牙は呼吸の仕方を思い出す。ふいに呼ばれたこと、そして振り返った姉が、華奢な指先でそっと両頬を包み込んだことの意味を、すぐに理解できない。
「早くに父と母が身罷り、己家の血を引く子供は、我ら姉弟のみ。役目は重々承知しています。けれどね、崔牙、わたしはずっと、自由を願ってやまないのです」
「自由……ですか?」
「伝承はあくまで、言い伝えに過ぎなかった。あの唄声をこころで感じて、確信しました。わたしは、自由になりたい。運命に縛られず、心優しい彼のもとへと、飛び立ちたい」
「何を仰っているのですか? 彼、とは……一体、誰のことを言って……」
「崔牙。あなたを、愛しているわ。わたしの、たったひとりの家族……」
瑶佳の言葉が空気を震わせ、水面に波紋を描く。十四年も共にいて、まるで知らない姉の声音であった。なんて透明で、なんて――美しい。
「姉上、もしかして、怒っているんですか? 明鈴が、無理を言ったから。だったら、俺と一緒に裏山へ遊びに行きましょう。花桃じゃなくて、姉上のお好きな馬酔木の花を髪飾りにしましょう。だから……やめてください。そんな、今生の別れみたいな……」
「我儘な姉で、ごめんなさい。許してとは、言いません」
「姉上、お待ちくださ……!」
「あなたは、あなたの幸せを見つけて。……さようなら、崔牙」
最期は、きちんと笑えていただろうか。
衣裳を翻し、躊躇いなく踏み切った宙では、何も聞こえない。
そう、何も。己を呼ぶ、弟の絶叫も。
水飛沫に包まれながら、瑶佳はまぶたを閉じる。
──嗚呼。ようやく、愛しいあなたの傍に。
これから始まるのは、ずっと待ち望んでいた、夢物語。
どこからか流れ着いた白い花弁が、凪いだ水面一面を彩る。
かくて巫女は、ひとりの少女と成った。