序
──唄が聞こえた。
いたずらに立ち入ることを赦されないこの蘭山で、唄声が聞こえたのだ。
少女はごく自然に身体の向きを変えると、峻険たる獣道を進んでいく。
そして一心に耳をかたむけて探す。清水より透明で、風のささやきより優しい声の主を。
「──誰そ」
「あっ、ふ、ふもとの街に住む者です! あの……」
ふいに声をかけられ、飛びのいた少女は、まったく同じ質問を返そうとして、すでに答えを知っていることに気づいた。
以前、長老が口にしていた。蘭山には古くから大妖が棲みついている。たしか名前は──
「……トウテツ」
間違いない。字は、難しかったから書けないけれど。
「人の子が、結界のすきまから入り込んだか」
聞こえた声が遠く、違和感を覚えた。
弟はもっと近いところで話をする。きっとトウテツは、羆みたいに大きいのだ。ううん、妖魔だもの。それより大きいかもしれない。
「ただちにこの場を立ち去れ」
そっけない言葉が耳に届いたと思えば、落ち葉を踏みしめる音と気配が、みるみるうちに遠ざかってゆく。
「待って! 待ってくださ、いッ!?」
足を滑らせ、直後に衝撃が襲う。ほろ苦い土の匂いで、むなしさが込み上げた。
はるか頭上でこぼれるため息。離れかけていた足音が近くなる。
もしかして、戻ってきてくれたのだろうか。
「お気になさらず。いつものことですから」
はにかんで頭上を仰げば訪れる、謎の沈黙。
「おまえ……目が、見えないのか?」
少女が血相を変え、ふり返る。
「そちらでしたか。これはその、えっと……っわ!」
曖昧な笑みを浮かべて後ずさったとき、膝に痛みを感じる。先ほど負った傷だと、すぐに思い当たった。
しかし、突如襲った浮遊感の正体がわからない。一向に落下する様子がないのだから。
もうひとつわからないのは、重力に逆らって身体を支えるモノの感触に、既視感を覚えたこと。
それは、人間でいう〝腕〟と、酷似していた。
茫然自失に陥った少女は、借りてきた猫のように、じっとせざるを得なかった。
どれくらい歩いたのか、やがて、心地よいせせらぎが鼓膜をくすぐる。
そっと抱き下ろされ、自然とついた手の平に、丸みをおびた小石の感触。
「……診せてみろ」
トウテツは、驚くほど器用に着物の裾をたくし上げた。力任せに引きちぎったり、鋭い爪で裂いたりする様子は、まったくない。
膝に冷たい水をかけられ、顔をしかめる。が、痛んだのはたったの一度きり。
なでるように傷口を清めてくれるおかげで、苦痛はなかった。
──トウテツって、指も人間と似てるんだなぁ。毛深くないどころか、すべすべしている。それにひんやりしていて、気持ちいい。
「子供が、夜半に何用だ」
「え、夜っ?」
耳を澄ませば、なるほど、昼はうららかな陽気も冴えた夜気に変わり、梟の声が聞こえる。
「薬草採りに、夢中になりすぎたのかな。友達が病弱だから、滋養のあるものを食べさせてあげようと思ったんです」
「自分の病を、治すためではなかったのか」
「わたしはいいんです」
まぶたを閉じたまま、頬笑んでみせる。
膝をなでる〝指〟が、動きを止めた。
「怖がらないのだな」
「はい。とても親切な妖魔さんとお会いしたので」
「のんきなやつ」
「わぁ、ありがとうございます!」
「……褒めたつもりはないのだが」
膝をなでる感触が、ふと離れゆく。
かと思えば、突然のことで狼狽する手を、ぐいと引っ張られる。
「羆は心外だ」
「え? あっ……!」
とたん、熱湯をかぶったみたいに顔が熱くなった。口には出していないつもりだったのに。
「ごごご、ごめんなさい! わっ、悪気はなかったんです!」
「なら、黙ってさわれ」
「はい! わかり……はぃいっ!?」
トウテツに導かれ、指先がふれたのは、想像よりやわらかいモノ。自分の肌、とりわけ頬とよく似た感触を持つモノ。
続いてまぶた、額、鼻。手の平をかすめた絹糸のようなモノは、髪。
「ええぇええっ!?」
腕や指だけではない。触れるモノすべてが、自分と同じ人間のモノだった。
びっくり仰天して抜けそうになる腰を、正真正銘の〝腕〟が支えた。
「だってトウテツは妖魔で、妖魔は色んな動物が混ざった姿をしててっ!」
「俺は妖力を封印されてから数百年間、ずっとこの姿だ」
「あ……」
うなだれそうになり、暗い気分を振り払うよう声をあげる。
「今日はもう帰ります。それで、帰ったらみんなに伝えます。トウテツはとっても親切な妖魔だよって。怖くなんかないよって。だから」
「無駄だ。長い年月を経て凝り固まった概念は、容易にはとけまい」
「でも、真実を理解しないのは、間違っています!」
さらに言い募ろうとした口を、〝指〟で制される。
「おまえ、名は」
その答えだけしか言わせないかのように、〝指〟は動かない。
「……瑶佳、です」
「〝瑶佳〟」
名前を呼ばれた刹那、背筋が戦慄する。
なぜだろう、手足がぴくりとも動かせない。
「真名を口にするとはな。名を呼ぶ言霊は、最も強力だ。むやみに口外するな」
指が離れる。と、肩に鉛を置かれていたような感覚がなくなり、四肢の自由を取り戻すことが叶った。
「俺は余計な干渉を好まない。害することも、媚びへつらうこともしない」
せっかく近くに感じるのに。鼓膜を震わせるのは、抑揚にとぼしく、感情を読み取りにくい声音だった。
「だが、今宵の出来事を他言しない、これから先もそうすると誓うなら、俺は拒まない」
「……え? それって」
「来れば、話し相手くらいにはなれる」
頭上では、いつからか、穏やかな響きが奏でられている。
「わたしを……必要として、くれるんですか?」
「二度は言わない」
……あぁ、何だろう、これは。
胸を震わせる熱いものが、あふれて、止まらない。
こころに、花が咲いた。
* * *
三年の月日が流れ、十六歳を目前に迎えた春。
今日も今日とて、瑶佳は意気揚々と獣道を登る。
つと、道標にしていた旋律が途切れた。不思議に思って歩みを止めると、そばでそよ風が駆け抜ける。
「こんにちは、透夜。今日もいいお天気ですね」
両肩に回された腕にそっと手を添え、笑いかけた。
「あぁ、満天の星だ。……もう真夜中だぞ。身体をこんなに冷やして……」
「暖めてくれていたんですか? てっきり、甘えたくて抱きついてきたのかと」
「瑶佳、これ以上俺を怒らせないでくれ」
怒るというより、心配のあまり、泣きそうな声音だけれど。
自分にとって、昼も夜も同じだというのに。つくづく心配症である。透き通る夜という名を贈ってから、特に。
「少しおふざけがすぎました。ごめんなさい」
「解ったなら、いい」
見えるはずないのに、笑った顔が温かくて、まぶしいと感じる。
「わざわざ夜更けに抜け出してきたんだ、何か、話があるんじゃないか」
「そうですね……でも、やめました。どうやら透夜は、わたしをあまり長居させたくないようですし、ちょっと眠れなかっただけですから」
透夜の腕をすり抜けて、振り返る。
ぬくもりを失い、じかにあたる夜気が、肌を凍らせてしまいそうだった。
けれど、名残惜しさを感じては駄目。今夜はもう、お別れのご挨拶を。
「また明日来ることにしますね。おやすみなさい」
「……瑶佳」
背を向けるより先に、名を呼ばれた。
ふいに伸びてきた手が頬を包み込む。と思ったら、額にやわらかく、熱い感触を落とされる。
それは、ほんの一瞬だけのおまじない。
「よい夢をみられるように。……おやすみ」
こんなとき、笑ってくれたら冗談ですまされたかもしれないのに。からかう素振りなんて微塵も見せないから、余計いたたまれなくなった。
うなずいて、顔を伏せたまま、足早に歩み出す。
冷たい夜の風なんて気にならないくらい、頬が火照っている。頭が甘くとろけたまま眠りにつけなくなる瑶佳のことを、きっと彼こそが知らない。
「……ありがとう、透夜。そばに、いてくれて」
閉ざされた闇の中に在っても、これほど清々しい気持ちになれるだなんて。
──あなたのおかげで、迷いは晴れた。