第六話 ハニートラップ(裏)
時間は少し遡り、昼休み開始直後。
教師も生徒も、昼休みの和やかな空気に包まれる中、最初の異変は静かに起きた。
校内放送用のスピーカーから、電源が入った時特有のノイズが発せられた。気付いた人は、全校生徒と職員を合わせても、ほんの一握り。
この学校には「報道部」という、学校新聞の発行や、各種大会で活躍した生徒にインタビューを広報する部活があり、不定期に昼休みの時間を利用して、全校生徒に発表している。
スピーカーのノイズに気付いた人は、報道部の放送が始まるのだろうと思った。
しかし、一向に放送が始まる様子はなく、聞き間違いだったかも知れないと誰もが気に留めなかった。
次の異変は、その数分後に起きた。
スピーカーから、昔ながらの黒電話を彷彿させる電話の呼び出し音が流れ、これには全校生徒並びに全職員が気付いた。
特に、職員室にはこの時間帯人が少なく、嫌に放送の音が大きく聞こえた。
電話の呼び出し音が止まり、再びスピーカーが沈黙したかと思えば、今度はノイズ混じりに、女子生徒と男子生徒の会話が始まった。
『すみません。あと、人違いがあると困るので確認したいんですけど、三年一組、空手部主将の駒村和也さんですか?』
『ああ、そうだ。お前は一年の姫川だな』
『今日の昼休み、一人でここに来てください。大切なお話があります。今時珍しいよな、ラブレターなんて』
『デジタルな時代なので、こうゆうアナログな方法って、新鮮味があって良いかなと思ったんです』
『まあ、確かに悪くないな。場所が、ここってのも悪くないな』
三年生の駒村和也と、一年生の姫川舞衣の会話であることが判明し、会話の内容から、どうやら生放送による公開告白らしいと、学校中が色めき立つ。
ところが、会話が進むと、思わぬ方向に話題が飛んだ。
『去年の四月、空手部に入部した一年生が、顧問の先生と喧嘩したって聞いたんですけど、それって誰だったんですか』
『ああ、その話か……参ったな。高城顧問からは、箝口令敷かれてるんだ……』
職員室内に居た他の先生達の視線が、空手部顧問の高城圭一に集まる。
空手部の部室内での出来事で、空手部員以外の目撃者が居なかったため、箝口令を敷いていた。部員側も、特別重要な案件とは思っていなかったらしく、情報が漏れることはなく、教頭等への報告もしていなかった。
この放送はまずい。
高城は放送室へ行って、放送を止めさせるべく、校内の鍵を保管している棚を開けた。
「……放送室の鍵は、無いな。マスターキーはある」
高城はマスターキーを持って、職員室を出ようとした。
「高城君、今の話は事実か」
職員室の出口で、教頭に捕まった。
今は教頭の対処より、この放送を止めさせる方が重要なのだが、ここで逃げれば余計に立場が悪くなる。
「すみません。大した事ではなかったので、報告を省いて――――」
余計な事は喋るなよ、とスピーカーを睨み付けるが、そんな高城を嘲笑うように、駒村が箝口令を破る。
『八王子だよ。あいつ、初日の部活で、高城顧問の練習メニューにケチ付けてさ。何でも、個々人の得手不得手に合わせた練習メニューに調整した方が、上達が早いって。今の練習メニューには無駄が多いって言って、そりゃ、高城顧問キレるよな』
高城の全身の血の気が引く。駄目だ、これ以上この放送を続けさせたら駄目だ。
「教頭すませんが、話は後で!」
「高城君、待ちなさい!」
教頭の制止を振り切り、高城は放送室目掛けて走り出した。
放送室は、職員室のある廊下の一番奥にある。余計な事に、野次馬根性の強い生徒達が数人、放送室前に集まっていた。
「お前ら邪魔だ! どけ!」
半ば、生徒を突き飛ばすようにして放送室の扉に飛び付く。校内放送は、八王子のオヤジ狩りの件に及んでいる。さっきの箝口令からの、この話の流れは非常に食い合わせが悪い。ここで止めさせなければ、自分の保身に関わる。
焦っているため、マスターキーを鍵穴になかなか差し込めず、苛立ちが募る。震える手でどうにか鍵を差し込み、力一杯回す。
「……な、回らん! ふざけんな!」
鍵を間違えたのかと、タグを確認するが、マスターキーと書いてある。
「じゃあ、何で開かねえんだよ! 糞が!」
腹いせに、放送室の扉を力任せに蹴るが、防音仕様の重厚な扉はびくともしない。
『お巡りさんは、先輩の良識ある行動に感銘を受けて、学校に電話で連絡したそうです。お宅の生徒さんが素晴らしい行いをしました、と。でも、その美談は捻じ曲げられてしまった。この電話連絡を受けたのは、果たして誰なんでしょうか。』
「んなもん知るか! 俺じゃねえ!」
怒鳴る、喚く。
それに全く意味がないことを分かっていても、高城には他に何も出来る事がない。
高城は昔から、自分を認めない人間を否定して生きて来た。学生時代は勿論、教員になって三十年近く、自分の指導が絶対正しいと信じてやってきた。
それなのに、高城の人生の三分の一程度しか生きていない糞餓鬼に、練習メニューが悪いと指摘された。ただでさえこの二年、高城が顧問になってから、空手部の成績は右肩下がりで、校長や教頭から練習内容等の見直しを指示されていたのだ。
積もり積もったストレスの起爆剤としては、八王子の言動は十分過ぎた。
『そんな訳あるか! あの時、ちゃんと試合していれば、俺が勝った筈だ! それなのに高城顧問が――――!』
「駒村テメエ! これ以上喋るな! ブチ殺すぞ!」
再び扉を蹴る。
周囲には野次馬の生徒ばかりではなく、他の教職員も集まり始めている。
校内放送のスピーカーは、廊下に居ても姫川と駒村の会話が聞こえる程、その存在意義を遺憾なく発揮している。
『最後にもう一つ。先輩の一番最初の暴力事件なんですけど、先輩が病院送りにした他校生なんですけど、隣町の工業高校の生徒さんなんです。これも、同じ工業高校に通っている私の友達に確認しました。さて、駒村部長』
『……何だよ』
『二年前に転勤してきた高城先生の、前の勤務先ってどこでしたっけ?』
「あいつが……俺に逆らった八王子が悪いんだよ! あいつが余計な事言わなけりゃ、こんな事にはならなかったんだよ! ちょっと痛い目見せてやろうとしたのに! あいつが五人相手に勝ちやがるから! だから次の手、次の手打ったんだろうが!」
ガチャリ、と今まで沈黙を貫いていた放送室の扉が内側に向かって開く。
放送室の中には、高城を含め、群衆の期待を裏切って、一人の男子生徒しか居なかった。
「高城顧問」
「…………八王子」
平然としている八王子に対し、奥歯が割れんばかりに噛みしめる高城。
「天網恢恢疎にして漏らさず。いい大人なんだから、分かりますよね」
「八王子の言う通りだ。高城君、来なさい。詳しく話を聞こうじゃないか」
立ち尽くす高城に、教頭が声を掛けた。
高城は、糸の切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。