第三十話 姫川舞衣の日常(夕)(後輩談)
随分、更新が停滞しておりました。
本日の最終授業が終わりました。
教科担当の先生が教室を退出して、間もなく担任の僧根先生が来て、簡単な連絡事項の伝達があり、放課後となりました。
「じゃあ、ホワイトボードの掃除、先に始めちゃうねー」
「あんこ、掃除の意味は分かってる? ちゃんと綺麗にするのよ?」
「だいじょーぶ」
「調子だけはいいんだから……」
今週の掃除当番に当たっている杏子は、率先してホワイトボードの掃除に取り掛かりますが、少し目を離した隙に絵を描き始める悪癖があるので、同じく今週の掃除当番である菜々子が目を光らせています。
杏子が四月に初めての掃除当番に当たった時、ホワイトボードマーカーとクリーナーを駆使して、教室の窓から見える桜並木を見事に描いた際には、その出来栄えの良さから消すか消さないかで一悶着がありました。
掃除の完了状況を見回りに来た僧根先生が、普段でも皺が寄っている眉間に更に深い皺を作って唸った後、職員室から集合写真撮影用の一眼レフカメラを持って来て杏子の作品を撮影し、ポスターサイズで印刷したものが、今でも教室後方に掲示してあります。
私は残念なことに、その場に居合わせることが出来なかったのですが、翌日、どうして掃除していたはずのホワイトボードに絵を描いたのか、杏子に尋ねました。
「いやぁ、うっかり高校生になった喜びが爆発しちゃってさ。でも、短時間でチャチャっと仕上げた割には、いい感じだったなぁ」
「少しは反省しなさい」
「あはっ、ごめんってばー」
一緒に話を聞いていた菜々子に注意されても、カラコロと笑う杏子でした。
菜々子と杏子は、同じ保育園に通っていた頃からの長い付き合いだそうです。
同い年ではありますが、菜々子は面倒見のいいお姉さん、杏子は元気一杯の妹という印象です。幼少期から一緒に仲良く過ごしていたエピソードをいくつも聞き、羨ましく思いました。
「菜々子ー、ヘルプ! 衣装の仮縫い手伝ってー!」
クラスメイト、かつ、陸上部員である人達と一緒に教室を出ようとしていた菜々子が、演劇部員のクラスメイトに呼び止められました。
「それくらい、自分でやりなさいよ演劇部。それで? どこをどうするの?」
「だって、先輩が急にフリルの数増やすって言いだすからー。ここと、ここと、ここのフリルをダブルにしたいんだけどー」
机四つで作業台を作り、黒いドレスを広げた演劇部員が、菜々子に作業内容を説明しています。
「そのくらいなら。ほら、半分手伝うから、早く終わらせるわよ。ごめん、部長に少し遅れるって」
菜々子は実際に、中学校一年生と小学校六年生になった二人の弟が居るので、掛け値なしにお姉ちゃんなのです。
杏子が放って置けない人柄であることを差し引いても、菜々子の面倒見の良さは人一倍でしょう。
親御さんが、家業の呉服店の仕事で忙しいため、腕白盛りの弟達の面倒を看る機会が多く、高いお姉ちゃんスキルを有しています。
生傷の絶えない弟達のために、消毒液と絆創膏は常備。
擦り傷、切り傷、打撲、捻挫の応急処置はお手の物。
裁縫道具も持ち歩いています。
取れたボタンの補修、ズボンの裾上げ、体操服の名札付けまで熟します。
その上、忙しい親御さんに代わって炊事に掃除に洗濯と、三面六臂の大活躍です。
高校生になって一層忙しくなった自分の生活の傍ら、家事労働も担っている菜々子は褒められるべきだと思います。
そんなお姉ちゃんへの恩返しなのでしょう。
最近は、弟達が掃除や洗濯を手伝ってくれるようになってきたと、嬉しそうに菜々子が話していました。
最早、お姉ちゃんからお母さんへグレードアップしたと言っても過言ではありません。
余談ですが。
陸上部でスプリンターとして活躍する菜々子の脚力は、弟達を追い掛けて捕獲するために自然と身に着いた能力であると、本人が語っていました。
将来、剣崎呉服店を引継ぐかどうかは未定で、今は、走るのが楽しいので陸上部を頑張っている、とも言っていました。
クラスメイト達の会話に耳を傾けながら、私はクラス日誌にペンを走らせています。
「舞衣、クラス日誌、もう終わる?」
「あ、和、お帰りなさい。教材の片付け、お疲れ様」
「あれっぽちじゃ、筋トレにもならないよ。舞衣が日誌書いてくれれば、今日の日直の仕事も終わりだから、部活に行って暴れられるぞー!」
身長も高いので、教室中に和の声は教室を超えて廊下にも響いたことでしょう。
でも、このクラスになって三か月も経過すれば、和の大声に驚く人数も、随分少なくなりました。
教室のあちらこちらで、楽し気に笑う人達がほとんどで、とても良いクラスメイトだなと思います。
今日は、私と和が日直でした。
最後の授業で使った教材を、本当は二人で片付けるように教科担当の先生からは言い付けられていたのですが、役割分担しようと和が言い出して、肉体労働と頭脳労働に分かれることにしたのです。
和の名誉のために言っておきますが、日誌を書くよりも、教材を片付ける方が手間が掛かります。
和は、職員室で教材を運ぶ実技棟の教材室の鍵を借用し、教室に戻って来て総重量約十キログラムの教材を持って、クラス教室側と連絡通路と実技棟側の廊下及びワンフロア分の階段、総延長約五十メートルの道程を往復してくれたのです。
まあ、睡眠学習のせいで日誌に記載するべき授業内容が分からないので、率先して肉体労働に挙手したと見られても仕方がありませんけれど。
「さて、日誌も終わり。じゃあ、職員室に日誌と教材室の鍵持って行くから、和は部活に行っていいよ」
「まじ? ありがとう、舞衣。今日、先輩達レギュラーと私達で紅白戦やるんだよ。正直、ウズウズして一秒でも早く部活行きたかったんだ」
「和は、本当にバレーボール好きだよね」
「いやいや、単に好きなんじゃないよ。バレーの試合で勝つのが好きなの。前回は、コテンパンに負けたからね! あれから、連携とか色々見直して、今日は絶対にレギュラー陣に勝つ!」
和は体型にも恵まれていることもあって、個人のポテンシャルだけ見れば、二年生や三年生のレギュラーメンバーにも比肩します。
本校のバレー部は定期的に、仮チームを組んで、部内紅白戦を開催しているそうです。
二年生三年生のレギュラーメンバーと、三セットマッチ。
試合内容を顧問や外部から招いているコーチが見て、見込みのある選手は随時レギュラーメンバーと入替えがあります。実力主義です。
よって、部内の紅白戦とは言えども、レギュラー陣も真剣に取組みます。手加減無しです。
だから、和以外の一年生二年生は、レギュラーメンバーに闘志を燃やしたりしません。
相手が強ければ強い程、和のモチベーションは高まります。
いわゆる、バトルジャンキーです。あるいは、ベルセルクです。
ただし、個人の技能がいかに高くても、それだけではレギュラーメンバーに選抜されないのが、チームスポーツの醍醐味だと和は豪語します。
優先されるべきは、チームプレーの能力であり、個人の技能ではないのだそうです。
和は、中学生時代は、チーム最強の選手でした。
それはもう、地区大会では一騎当千の活躍だったそうです。自分が頑張れば頑張る程、チームは勝利に近付くと信じていましたし、実際にそうでした。
でも、高校に入学して、先月、初めての紅白戦を経験して、和はより一層『個人の実力よりもチーム力』と言うポリシーを強く持つようになったのです。
紅白戦のチーム構成は、先んじて顧問とコーチが決めていて、和のチームは一年生だけで組織されました。
仮チームでも、各出身中学校では実力者と称されたメンバーで構成されたので、和も仮チームのメンバーも、勝利は難しくとも、レギュラー陣と互角の勝負が出来るだろうと考えていたそうです。
ところが、蓋を開けてみれば、手も足も出ずに、和のチームはレギュラー陣に見事なストレート負けを喫しました。
「もう、凄いって言うか……凄いんだよ! どんな練習してんだってくらい、あっちの連携のパターンが多くてさ。そりゃ、こっちは俄仕込みだったけど、フェイントもクイックもバックアタックも、ほとんど先読みされちゃっててさ、もう、全然通用しないんだもん。
もう、悔しくて悔しくて。次の紅白戦は、絶対に勝つって皆で決めてて! レギュラー陣の弱点調べたり、連携の練習とか、やりたいこと盛沢山って感じなんだよ!」
紅白試合の翌日、和は落ち込む素振りすら無く、意気揚々と語ってくれました。
ここで戦意喪失するどころか、逆に対抗心を燃え上がらせる辺りは、紅白戦を仕組んだ側の思惑にどっぷり嵌ってしまっているように思えますが、和もそのチームメイトも元気一杯なので良い事なのでしょう。
現に、昼休みに集まって仲良く食事をしながら、一生懸命に作戦会議をしている和達の姿を何度も見ました。
学校の部活動は、プロスポーツチームと違って短いスパンで卒業という選手の入替えがありますから、後進の育成プログラムが重要と聞きます。
和を筆頭に、その仮チームのメンバーは、次期レギュラーメンバーなのではなかろうか、と私は予想します。
「じゃあ、舞衣。また明日ね。あんこと菜々子も、じゃあね」
荷物をまとめた和が、小走りに教室を駆け抜けます。
それを見送りながら、私と杏子と菜々子が声を掛けます。
「紅白戦、頑張ってね」
「なごみん、あでゅー」
「また明日、和」
本当は、廊下を走るのは危ないから注意しないと駄目なのですが、今日くらいは大目に見ることにしましょう。
「さてと。じゃあ、私も職員室行って、部活に合流しようかな」
筆記用具を鞄に仕舞い、独り言ちながら周囲を見ます。
菜々子は、手元の衣装に迷いなく縫い針を通しています。
杏子は、性懲りもなくホワイトボードに校庭の葉桜の風景を描き始めています。
「こら、あんこ! 掃除しなさい!」
「あうっ。ごめんって、つい。たはは」
菜々子に見付かりました。
「じゃあ、私も行くね。菜々子も杏子も、また明日」
「姫もあでゅー」
「また明日、舞衣」
教室に残っている他のクラスメイト達にも挨拶しながら、私は教室を後にします。
廊下の人通りは少なく、ついさっき教室を出たばかりの和の姿も足音もありません。
一年生の教室が並ぶ二階の真下に、職員室や事務室があります。
廊下を進んで、階段を下り、ノックをしてから職員室に入ります。一年一組担任の僧根先生は、柔道部に行っているので留守でした。
その他の先生方も、部活動の方に参加しているため、職員室内は数名の先生しか居ません。
私は、持って来た日誌を僧根先生の机の上に置き、教材室の鍵を職員室に居た先生へ返却して、鍵の貸出記録用のノートに返却時間と学年組番号と氏名を記入しました。
先月は、職員室のキーボックスから鍵を失敬したり、マスターキーを摺り替えたりして、大騒ぎを起こしたものです。
今でも思い出すと、大それた事を仕出かしたものだと、自画自賛します。
高校生活は、順風満帆。
毎日が新鮮で、楽しくて、少し困ることもありますが、一秒たりとも無駄遣いできません。
私は一刻も早くラクロス部の練習に参加すべく、意気揚々と廊下を蹴りました。
「これはこれは、姫川君、御機嫌よう」
足元を泥沼に変貌させるかのような、陰鬱な声に捕まってしまいました。
出掛け先から帰って来たところと思しき冠木校長が、レインコートを片手に、ニタニタとした笑みを浮かべてこちらを見ています。
梅雨の薄曇りの夕方。湿気で居心地の悪い廊下が、私の冠木校長に対するイメージにぴったりです。
嬉しくない邂逅に、それでも私は愛想笑いを浮かべ、一礼して挨拶します。
「校長先生、御機嫌よう、です」
上品に微笑み、優雅に一礼しました。
冠木惣一。
この学校の校長にして、私腹を肥やすために不正行為を繰り返していると推定される人物。
生徒や教師からは陰で、身長が低くて太っている体型のせいで『古狸』と呼ばれている男。
五月下旬に、先輩が高城顧問の悪事を暴いたところにしゃしゃり出て来て、訳の分からない屁理屈を並べて、喧嘩両成敗のような状況を作り出した冠木校長を、私は意識して避けていました。
まあ、普通の高校生活を送っている中では、学校のトップと個人的に会うことなど皆無なのですけれど。
「学校生活は、順調そうだねえ。生活態度も、学業成績も、部活動も優良な様子で、私も鼻が高いよ」
冠木校長はそう言いながら、日本人の平均よりも低いであろう自身の鼻を撫でます。
「お褒めに預かり、光栄です」
私の学業成績等の良し悪しは、冠木校長には無関係です。
大方、私と言う特殊なプロフィールの生徒が自分の学校に在籍していることを、自慢話にしているのでしょう。
家柄や、肩書や、自分への有益性だけで、他人の価値を決める。
私が嫌いなタイプです。
理由は知る由もありませんが、機嫌の良さそうな冠木校長は、尚も私に話し掛けます。
「流石、姫川家の御令嬢と言うべきなんだろうねえ。凡庸な一般人とは雲泥の差と言うべきか。やはり、血統書付きのサラブレッドは違うねえ」
「校長先生、今の発言は、姫川家への侮辱とも受け取れますよ?」
自分でも驚くほど、冷淡な声でした。
ところが、冠木校長は不気味な笑みを絶やしません。
「いやいや。姫川君、延いては姫川家の方々を侮辱など、とんでもない。
それでも、まあ、年長者の立場から恐れ多くも助言するならば、付き合う人間は選ぶべきじゃないかねえ。あまり低俗な人間と関わっていると、無用なトラブルに巻き込まれてしまうかも知れないからねえ。例えば、『悪い噂の絶えない二年生』など、姫川君の品位を下げてしまうのではなかろうかねえ」
「私の交友関係を心配される謂れはありません!」
露骨に先輩の悪口を言われて、反射的に大きな声で反論してしまいました。
でも、大事な友人である先輩を悪く言われて、黙っている訳にはいきません。
冠木校長は、不愉快な笑みを一層深くします。私の怒りを、面白がっているように見えます。
「いやいや。例え話だよ、姫川君。そう、向きになるものではないよ。年寄りの戯言と聞き流してくれて構わない。
まあ、何か困ったことがあれば、私はいつでも相談に乗らせてもらう所存だ。姫川君が付き合うべき人種は、どこの馬の骨とも分からない二年生ではなく、君と釣り合うステータスを持つ人物や、地位も権力もある大人だと分かる日が来ることを願うばかりだねえ」
「……そんな日は来ません」
「そうだねえ……そうだといいねえ」
先輩が以前、冠木校長のイメージカラーを『タールのような粘着質な黒』と表現していました。
今、私もそれを実感しています。
足元に絡みつく重油のような、不快で不気味な気配が、冠木校長にはあります。
「部活動がありますので、失礼します」
言い捨てて、冠木校長の返事も待たずに、私は踵を返しました。
冠木校長と言葉を交わす度に、底無し沼に引きずり込まれていくような感覚に襲われて、逃げました。
冠木校長は、特に私を呼び止めるでもなく、それでも、私が廊下の角を曲がるまで、私の背中に無言の視線を投げていたような気がします。




