第十四話 日常の風景(改)
高城顧問の一件や、冠木校長の横領疑惑など、非日常の出来事のオンパレードだった日の翌日。
普段通りに目覚めた俺は、日課のロードワークを熟し、朝風呂で汗を流し、制服に着替え、朝食を食べ、歯を磨き、家を出た。
いつもと変わらない、朝の風景だ。
電車に乗ると、同じ学校の生徒を何人も見掛ける。
昨日までなら、向こうが絶対に目を合わせないようにするか、猛獣を見るような目で見てくるか、いずれにしても忌避されていた。
今日はと言えば、相変わらず目を合わせないように注意している生徒が多い中、若干名、珍獣でも発見したかのような視線を感じる。これはこれで居心地が悪い。
「……まあ、一朝一夕で、どうにかなるとは思っていないさ」
針の筵よりは、住みやすい環境になっただろう。俺は前向きに捉える。
学校の最寄り駅で電車を降り、駅から学校へ歩く中でも、俺の周囲に見えない壁でもあるかの如く、他の生徒が避けて歩く。これは昨日までと同じ。
またしても若干名、俺を見付けて、何やら隣を歩く友人達と内緒話を始める生徒が居た。
同じ毎日を繰り返していると考えていた昨日までとは、明らかに違う今日を迎えた。
それだけでも、気持ちが明るくなる。
だから、校門に入った瞬間、俺は油断していた。
「来たぞ! 囲め!」
「「「「「「「「「「押忍!!!!!」」」」」」」」」」
号令と共に、俺は、三十人の生徒に取り囲まれてしまう。逃げる事が出来なかった。
内心で舌打ちしながら、周囲の生徒に見覚えがあることに気付く。
人垣の中から、号令を掛けた代表者が、何故か得意げな顔をしながら進み出て来た。
人垣の向こうには、この状況の見物人が、更に人垣を作る。
「はっはっはっ! 待っていたぞ、八王子!」
「……何の真似ですか、駒村主将」
ロールプレイングゲームの中ボス感漂う台詞と共に登場した駒村主将に、俺は苦情を申し立てる。
駒村主将は偉そうに腕組みしながら、
「一応、ケジメは付けとかねぇと、と思ってな」
「ケジメ?」
主語が無いので、誰のケジメなのか分からない。この場で、一月に出来なかった試合の仕切り直しでもしようと言うのか。
万が一に備え、臨戦態勢を整えようとするが、多勢に無勢では勝ち目が薄い。
三十六計逃げるに如かず、と突破口を探す。
「気を付け!」
突然の号令と共に、駒村主将が姿勢を正した。
「「「「「「「「「「押忍!!!!!」」」」」
呼応して、他の部員たちも姿勢を正す。
「八王子に、礼!」
「「「「「「「「「「押忍!!!!!」」」」」」」」」」
バッ、と音が出る程の勢いで、空手部全員が、中央の俺に向かって最敬礼する。
この異様な光景に、俺の思考に空白が生まれる。
空手部の人垣の外では、この状況をスマートフォンで写真撮影している生徒が居る。
「済みませんでした!」
「「「「「「「「「「済みませんでした!!!!!」」」」」」」」」」
「部活への参加、お願いします!」
「「「「「「「「「「お願いします!!!!!」」」」」」」」」」」
「……は?」
これが、駒村主将の言うところのケジメらしいと理解するのに、数秒の時間を要した。
「駒村主将、一体何の真似ですか」
「だから、言っただろう。ケジメだ。八王子が、部活に出ると言うまで、俺達はここを動かねえ」
それは、ある種の恐喝ではなかろうか。有言実行で、最敬礼の姿勢から誰一人動こうとしない。
その中心に突っ立っている俺も、嫌に目立つ。完全に取り囲まれしまい、逃げる事も叶わない。
野次馬の生徒達も増え、好き勝手に写真やら動画やらを撮影している様子が見える。またぞろ、妙な噂話が広まってしまう。
「それが目的か……」
衆人環視の状況で、これだけ派手なパフォーマンスをされては、悪目立ちが過ぎる。一番手っ取り早い解決策が、駒村主将の要求を呑む事。
昨日の今日で、よく空手部員全員をこの場に連れて来たものだ。駒村主将の人望の厚さに、感心する。
俺は、大きく溜息を吐いた。
「……分かった。分かりました。今日から、部活に顔を出します」
言った瞬間、駒村主将が、非常に蹴り飛ばしたくなるいい笑顔で顔を上げる。
「よし! 言質取ったぞ! 解散!」
「「「「「「「「「「押忍!!!!!」」」」」」」」」」
うおぉぉぉ、と雄叫びを上げながら、三十人の空手部員が校舎内に駆け込んでいく姿は、さながら、サバンナのヌーの大群だった。
俺は駒村主将達に呆れながらも、半分は、感謝する。お陰様で、部活に顔を出す口実が出来た。
空手部員の解散と同時に、野次馬の生徒達も蜘蛛の子を散らすように居なくなっていた。
八王子陸が、空手部全員を武力で従わせ、暴君として君臨した。
八王子陸が、今日広まった新しい噂話を知るのは、まだ先の話である。
気を取り直し、他の生徒に混ざって校舎に入る。
下駄箱から上履きを取り出すところで、不審物を見付けた。
嫌な予感しかしないが、発見してしまった以上は、確認しておこうと、上履きと一緒に投函されていた茶封筒を取り出す。宛先も無ければ、当然、差出人も書かれていない。
殺風景な茶封筒の表裏を確認しながら、
「……姫川か? いや、姫川なら直接来るな……」
朝から、妙なイベントの発生頻度が高い。頼むから、今日くらいは遠慮してほしかった。
差出人が忘れたのか、茶封筒には封がされておらず、中には折り畳まれた紙が入っている。宛先が書かれていないので、俺が見てもいいものか判別出来なかったが、宛先が他人だった場合は、俺の下駄箱に入れた奴が悪い。
茶封筒から、三つ折りにされた一枚の紙を取り出し、広げて内容を確認する。
「我 ラ が 女神 姫 川 舞 衣 ニ 近 づく ナ 裁き ヲ 下 す」
「…………古風な手紙だな」
差出人は、複数であるようで、その全員が映画やドラマの見過ぎらしい。
雑誌からか新聞からか、切り抜いた文字を紙に貼った、懐かしさすら感じる脅迫文だった。
念のために上履きの中を確認したが、画鋲やらの危険物は仕込まれていなかった。案外、良心的な脅迫者達かも知れない。
文書内容から、間違いなく俺宛の手紙らしい。その辺に捨てる訳にもいかず、脅迫文を三つ折りに戻して茶封筒に入れると、不本意だが鞄に入れた。
家に帰ったら、母親の持っているシュレッダーで細断しようと思う。
「しかし、本当に人気者なんだな、姫川は」
妙なところで、その片鱗を見せられてしまった。可能であれば、見たくは無かったが。
周囲を確認しても、俺の様子を物陰から監視している人物は居なかった。脳裏に、ラクロス部の峰岸部長の顔が過る。考えすぎだろう、と浮かんだ憶測を振り払う。
八王子陸が、姫川舞衣のファンクラブ擬きに所属する全学年の男子生徒の三割を敵に回していることに気付くのも、まだ先の話。
上履きに履き替え、下履きを下駄箱に仕舞う。
教室に辿り着くまでに、三段落ちが待っているような気がして、足取りが重くなる。今日はもう帰ってしまおうか、とも考えるが、負けて逃げ帰るように思えて嫌だった。
「はぁ……。気は進まないが、今日一日くらいは我慢するか」
自分に言い聞かせ、気を取り直して教室へ向かう。
廊下で行き合う生徒達は、いつも通り俺と目を合わせないようにしているが、心成しか、スマートフォンの画面と俺の顔を見比べてから視線を逸らしているように見える。
不思議に思いながらも、階段を上り、二年生の教室が並ぶ廊下に出ると、そこにも関わり合いになりたくない光景があった。
俺の教室の出入口付近に、何故か生徒が群がっている。
どうしたものか、考えあぐねる。
今回は、少なくとも、俺の居ない場所で発生している。そう考えれば、俺には無関係な可能性が高い。教室の出入口は二か所あり、手前は群衆に塞がれているが、遠回りして別な出入口を使えばいいだけだ。
好都合なことに、群衆は俺に気付いていない。
少しばかり気楽になった俺は、そのまま廊下を進んで、賑やかな群衆の横を予定通りに通り過ぎる。三段落ちは、さすがに無かった。
その油断が命取りだった。
群衆の中から、俺に向かって飛び出してくる人物がいた。
「八王子先輩、おはようございます!」
強烈な既視感と共に、満面の笑顔で挨拶をして来たのは、姫川舞衣だった。
俺は辛うじて驚きを表情に出さず、姫川を素通りする。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ、先輩!」
素通りしようとしたが、姫川に両手でがっちりと腕を掴まれてしまい、あえなく失敗した。
「や、やべぇ……八王子だ!」「皆、逃げろ!」「散れ! 散れ!」
姫川が俺を捕獲した瞬間、さっきまで姫川を取り囲んでいた群衆が、口々に喚きながら散り散りに二年生の各教室や、階段へと逃走していった。
賑やかだった廊下が、打って変わって静まり返る。
「姫川、態と俺の名前呼んだな」
姫川は、基本的に俺の名前を呼ばない。
まだ腕を掴んで離さない姫川にその事を指摘すると、姫川は、怒って膨らんだ河豚みたいにむくれた。
「だって、しょうがないじゃないですか。私は、先輩に会おうと思って待ち伏せてたのに、関係のない人達が集まって来たんですから。
私がいくら、先輩に用事があって待っているので、放っておいてくださいってお願いしても、先輩と付き合ってるのかとか、先輩との関係はどこまで進んだのかとか、あんな奴は見限って俺と付き合えとか、減るどころか増えるんですよ?
そこにノコノコ現れた先輩を、活用しない手はないでしょう。飛んで火に入る夏の虫です」
「どちらかと言うと、俺が虫除け扱いされていると思うけど」
今度は姫川が打って変わって、ニマニマ笑う。
「私に変な虫が付かないか、そんなに心配ですか? もう、先輩、私の事好き過ぎませんか? 急に彼氏面されても、それはそれで困るんですけど」
「だから、自分の都合のいいように捏造するんじゃない」
「捏造じゃありません。先輩の本心を代弁してあげただけです。それより先輩、今、私の顔見て逃げようとしましたよね。ナチュラルに傷付きました。埋め合わせしてください」
俺の腕を掴む、姫川の力が強まる。半眼で睨んでくる姫川。
「いや、悪かった。条件反射で、つい……。でも、埋め合わせする程の事ではないだろ」
俺の腕を放した姫川が大きく息を吸って、両手を口に添えて、
「先輩に傷物にされ――――むぐっ!!」
「待て待て、落ち着け! 分かった、埋め合わせする」
とんでもない事を叫び始めるので、慌てて姫川の口を手の平で塞いだ。
即座に俺の手を払い除けた姫川が、満足げに笑いつつ、
「分かればいいんです。さて……じゃあ、埋め合わせはどうしましょうか……。
そう言えば、先輩には全然関係の無い話なんですけど、隣町に私のお気に入りの喫茶店があるんです。その喫茶店で、久しぶりに餡蜜が食べたいなと思っていたところなんですよね。あのお店の餡蜜、黒蜜に拘りがあって、それはもう美味しいんですよ。先輩には、全然関係ないですけど。
今週末辺りで、そのお店で餡蜜を食べながら、今度のお出掛けプランを相談するのなんて、素敵でいいな~とか思うんですよね~」
姫川が、昨日の一件で他の生徒に囲まれるリスクを抱えても、この場所で待っていた目的が、これだと確信した。
人に囲まれる事も、そこに俺が通り掛かる事も、俺が条件反射で逃げようとする事も、全て折込済みだったに違いない。
俺はこの人気者の後輩に、この先勝てる見込みはあるのだろうかと、心配になってくる。
「……まぁ、とりあえず、今はいいか」
「うん? 何か言いましたか、先輩」
「いや、何でもない。……姫川の好きな餡蜜を食べに行くのも良いな」
俺の返事がお気に召した姫川は、満面の笑みを浮かべる。
「もう、先輩はそんなに私と一緒に居たいんですか? もう、しょーがないですねー。うふふっ」
一緒に行くとは言っていないのだが、姫川の機嫌がいいので良いかと思う。
ちなみに、姫川の「先輩に傷物に」発言を聞いていた二年生の女子生徒を発信源に、「八王子陸は女の敵」という情報が全学年の女子生徒に伝播されてしまったことを、八王子陸が知るのも、まだ先の話。
「では、先輩。リスタートです。改めて、よろしくお願いします」
改まって、姫川が握手を求めてくる。変な奴だと思うが、悪い気はしない。
姫川が、セカンドコンタクトと酷似した状況で待っていたのも、深い意味があったのかも知れないが、今のところ俺に知る由は無い。機会を見て、姫川に聞いてみようと思う。
まずは、礼儀を果たす。
「こちらこそ、よろしく」
姫川の小さい手と握手をする。自然と、お互いに笑顔になる。
改めて、不人気者の先輩と人気者の後輩の関係は、ここから始まるのだった。




