第十二話 日常への帰還
俺と高城顧問は、冠木校長の仲介のお陰で、和解した。
五時限目と六時限目の間に、体育館で緊急に開かれた全校集会の内容を、簡単に説明するとこうなる。
実際には、冠木校長の演説が十五分も続いた。
校長室で聞いたような「人と人の些細な気持ちの擦れ違い」や「相互理解による成長」という耳障りのいい単語を並べただけの、含蓄のない無駄話にしか聞こえなかった。
そして、冠木校長の演説後、俺と高城顧問が壇上に立って向かい合い、固く握手を交わした。冠木校長が大きく拍手をすると、全校生徒が釣られて拍手をし、全校集会は終了。一連の騒動は幕引きとなった。
後にも先にも、こんなに不愉快な握手はないと思った。
全校集会終了後、俺と姫川を除いた生徒は、少し遅れて始まる六時限目の授業に向かった。
俺と姫川は、今日はもう帰宅した方がいいだろうという兵藤教頭の提案により、姫川の荷物を回収して、兵藤教頭の車で自宅まで送ってもらえる手筈になった。
僧根先生が、教室から姫川の荷物を回収して来てくれて、俺達は先に兵藤教頭の車で待っている事になった。
姫川は、校長室以降、口を閉ざしたまま喋ろうとしない。ただし、不機嫌が如実に顔に出ている。
全校生徒も教職員も体育館から居なくなった頃、兵藤教頭から車の鍵を預かった俺達は、昇降口で靴を履き替え、校舎裏の職員用駐車場へ向かう。
その道すがら、姫川はずっと俺の二の腕を掴んで居た。これが、腕を組んで歩くのなら色気もあるのに、鷲掴みだった。それなりに痛いので放してほしかったのだが、姫川は噛み付いたスッポンのように放してくれなかった。
兵藤教頭の車が分からなかったので、鍵に付いている開錠ボタンを押してみた。
黒塗りの高級感溢れるミニバンが反応した。テレビのニュースで、警察が家宅捜索をする場面でよく見る車だ。
車のスライドドアを開け、姫川を先に後部座席に乗せる。俺は車の外で兵藤教頭を待とうと思ったのだが、
「先輩、早く乗ってドア閉めてください」
不機嫌全開の後輩が、棘だらけで言うものだから、姫川から離れた助手席に乗り込んで、ドアを閉めた。車の鍵は、運転席に置いた。
後輩が大きく息を吸う音が聞こえたので、俺は両耳を塞いだ。
「あー! もー! 何なんですか! あの狸オヤジー!」
後輩が絶叫しながら地団駄を踏むので、車体が揺れる。
俺は、文句があるなら兵藤教頭に言ってくれ、と内心で呟く。そして、校内放送で呼び出され、職員室で兵藤教頭に会った時の事を回想する。
――兵藤教頭は、俺と姫川を確認すると、【「今はまだ堪えろ」と書かれたメモを見せながら、】
『校長室に来なさい。今回の件で、話がある』
言葉少なに、職員室の奥にある校長室へ先導した。兵藤教頭が、校長室へ続く扉をノックし、返事を待たずに開けてしまう。――
冠木校長の話を聞くまで、何を堪えろと言われたのか分からなかった。
そして、冠木校長の話を聞いて、その思惑通りになる事を、今はまだ堪えろという意味だと解釈した。
次の問題は、兵藤教頭が信頼できる人物なのかという事だった。普通に考えれば、教頭も冠木校長側の人間のはずだ。
判断するには、情報が少なかった。最悪の場合は、どんな手段を使っても姫川だけは守ろうと決め、兵藤教頭を信用することに賭けた。
俺が兵藤教頭を信じる方に賭けた事に気付いた姫川も、反論したい気持ちを、俺の腕を掴むことで我慢していた。
そして、車の中なら悪態を吐いてもいいと思っての、絶叫だった。我慢の限界だったらしい。
「先輩、私、こんなに悔しい気持ちは生まれて初めてです。あの怖い顔の教頭先生は、本当に信じて大丈夫なんですか?」
姫川が、後ろから俺の座席を掴んで揺さぶる。兵藤教頭に見付かったら怒られるから、止めてほしい。
「正直に言えば、俺にも分からない。でも、あの状況で冠木校長に反旗を翻しても、何も準備していなかった俺達の分が悪かった。多分、冠木校長は、前々から高城顧問と俺のいざこざを知っていたんだと思う。手回しが良過ぎる」
高城顧問が放送室前から連行されて、俺達が呼び出されるまで、精々三十分程度だった。その短時間で、高城顧問の事情聴取を行い、俺や姫川の家庭事情まで把握するのは不可能だと思う。
「なあ、姫川。姫川の家の事情って、聞いてもいいか?」
「私の家の事情なんて大した事ありません。お父さんが、頑固親父ってだけです。頭固いんです。岩石です。ちょっと家系図が長いからって威張ってる、しょーもない家です」
姫川が、後部座席から立ち上がり、俺の座席の肩部分に両手を置いて、横から顔を出す。こちらの顔色を窺うような表情だった。
「先輩、本当に私の家の事知らないんですね。姫川って名字に聞き覚えありませんか?」
「いや、姫川から家庭の話なんて聞いた事ないから知らないな。俺には、姫川って名字の知り合いは、姫川しか居ない。あぁ、姫川のお母さんも姫川か。話した事はないけれど」
「な、何言ってるんですか!? お、お母さんはダメです。絶対ダメです。確かに、お母さんは若くて可愛いって評判ですけど、ダメです。先輩は、私にだけ依存してればいいんです」
「……俺は今、何を禁止されたんだ。あと、姫川に依存するのも駄目だろう」
「私のキャパシティーを甘く見ないでください。先輩の一人や二人、お茶の子さいさいです。あ、でも、先輩は一人で十分です。……あれ? さっき、俺には姫川しか居ないって言いませんでしたか? もしかして私、先輩から愛の告白されました?」
「記憶を改竄するんじゃない。ほら、兵藤教頭が来たから、大人しく座ってろ」
「ふふふっ。もう、先輩は恥ずかしがり屋さんですね」
ニヤニヤ笑いながら後ろに引っ込む姫川。
校舎から出て来た兵藤教頭が、足早に車に来ると、運転席に転がる鍵を拾ってスーツのポケットに仕舞い、運転席に乗り込む。
「済まん、少々遅れた」
兵藤教頭が素早くシートベルトを締め、車のエンジンを始動させる。俺と姫川も、慌ててシートベルトを締める。
「姫川の家は、桜木町だな。八王子の家は、どの辺りだ?」
兵藤教頭が、バックミラー越しに姫川に家の場所を確認し、続けて俺に問う。
「俺も、桜木町で降ろしてもらって構いません。若葉町なので、電車で帰れます。それよりも、さっきのメモの件、説明してもらえますか」
「そうです! 何の説明も無しじゃあ納得できません!」
俺の提案に、後部座席の姫川が追従する。
「うむ……。移動しながら説明する」
渋面の兵藤教頭が、車を発進させる。
見た目に反して安全運転の兵藤教頭は、進行方向を見ながら、
「本来は、お前らに話す事じゃないんだが」
と前置きした。
「今、俺達の準備が整っていない段階で、騒ぎが大きくなると困るんだ。だから、冠木が今回の八王子の件を部内で握り潰すのは好都合だった。お前らには辛酸を嘗めさせてしまったが。
その詫びになるか知らんが、お前ら、俺が今から話す事は、口外するな」
ご丁寧に、バックミラー越しの姫川と、助手席の俺を順番に睨む。教頭だと知らない人が同じ事をやられたら、寿命が縮むほど恐ろしいだろう。ただでさえ強面の兵藤教頭の目には、真剣な色が浮かんでいた。
「分かりました」
「はい」
俺達の返事を待って、兵藤教頭も一つ頷く。
「冠木は学校の金を横領して私腹を肥やしている。俺達は、それを暴く準備をしている」
「……冠木校長が?」
「……あの狸オヤジならやりそう」
俺も姫川の意見に同感だった。まともに会話をしたのは今日が初めてだったが、冠木校長は紛うことなき悪党だった。
「ふっ、姫川も言うじゃないか。だが、あの古狸、なかなか尻尾を出さない。俺が冠木の横領に気付いたのも、偶然だった。去年、空調の修理を依頼した業者が、見積書よりも金額の多い請求書を提出してきた。理由を問い詰めたら、差額分は冠木へのキックバックだと白状した」
不敵に笑う兵藤教頭。この人物に尋問された修理業者に少し同情する。さぞ、生きた心地がしなかっただろう。
高城顧問のような小悪党が居たかと思えば、今度は学校の資金で私腹を肥やす正真正銘の悪党がお出ましだ。
目の周りが黒く、丸い耳と尻尾を生やした冠木校長が、猟師の格好をした兵藤教頭に、尻尾を掴まれて逆さまに持ち上げられている場面を想像する。
「先輩、キックバックって何ですか?」
「簡単に言うと賄賂だ。業者に、正しい金額よりも多く代金を支払って、後から多い分を返金させる。他の人が見ても、表面上は分からない形で、不正にお金を自分のものにする方法だ。朝のニュースとかで聞い事あるだろ」
「私、ニュースなんて見ません。先輩、女の子の身支度がどんなに大変か知らないから、そんな事言えるんです。一度、家に泊まりに来てください。私が、身支度にどれだけの労力と時間を割いてるか、きっちり教えてあげます」
「不純異性交遊は看過出来んぞ」
「兵藤教頭。姫川の軽口に、真面目に取り合う必要はありません」
「不純じゃなければオーケーですね。プラトニックラブなら許されるらしいですよ、先輩。あ、でも、先輩は欲望と本能の権化ですから、無理ですね。何と言っても、私は先輩の可愛い後輩ですから」
「八王子、思春期のリビドーは理解するが、せめて経済的に責任を取れるようになってからにしろ」
「姫川、頼むから今は脱線しないでくれ。兵藤教頭も、悪乗りしないでください」
案外、この二人は仲良くなれるのかも知れないと思う。
俺のツッコミに、二人揃って一頻り笑うと、兵藤教頭が軌道修正してくれた。
「冗談はさて置き。俺達は、冠木が他にもキックバックを受けていると見込んで調べている。しかし、尻尾が掴めない。だから、妙な騒ぎを起こして冠木の警戒心を煽りたくない。
お前達に、今日の件を堪えてもらった理由はそれだ。安心しろ、お前達の仇は取る。
お前達が、俺の話を信じるか否かは、任せるが」
「俺達は、別に死んでいないんですが……」
兵藤教頭の話の真偽を確かめるには、俺自身が冠木校長の収賄を調べる必要がある。今は、安易に信じられないが、不思議と、この人物は信用出来る気がする。
これも、根拠のない直感ではあるが。
「一応、今の話は覚えておきます」
「ああ。それで構わん」
「兵藤教頭、さっきから俺達って言っていましたけれど、他にも冠木校長を断罪しようとしている人物が居るんですか?」
「妃と僧根だ。他の職員は、今のところ信用ならん」
偶然にも、あの校長室の中で敵味方が入り混じっていたらしい。
「教頭先生、それって私達も手伝えますか? 私、あの狸オヤジにぎゃふんと言わせたいです!」
姫川は、余程腹に据えかねている様子だ。さり気なく、俺も巻き込まれている気がするのは、気のせいだろう。
兵藤教頭は、上機嫌になる。
「今日の八王子と姫川の立回りは、見事だった。証拠集めと、それを活用する方法。俺は、お前ら二人は十分に戦力になると見込んだ。お前らがその気なら、願ったり叶ったりだ」
「姫川、気持ちは分かるけど、余計な事に首を突っ込むな。今回は上手くいったけれど、次もそうなるとは限らない。それに、危ない目に遭うかもしれないんだぞ」
「先輩は悔しくないんですか? あんな古狸にいいように丸め込まれて!」
「だから、気持ちは分かるって言っただろう。でも、俺は、姫川には危ない事をやらせたくない」
「大丈夫です。それに、私の事が心配なら、先輩が傍に居てくれて、ボディーガードしてくれればいいじゃないですか。先輩も、私と一緒に居る口実が出来て、一石二鳥でしょう?」
「それは……。いや、そうじゃない」
一瞬、納得しそうになってしまった。俺が姫川を守る以前に、姫川が危険に近付くのを避けるべきなのであって、根本的な部分が間違っている。
「盛り上がっている所悪いが、まだお前らの出番があるか分からんぞ」
兵藤教頭が、俺達の会話に割り込む。
「俺が、古狸の尻尾を捕まえない事には、何も始まらん。現状では、小口の取引数件分しか証拠がない。冠木を叩き潰すには、大口の取引のキックバックを立証する必要がある。しかし、あまり派手に動けば冠木と業者に警戒されて、証拠が隠蔽されてしまう。どうにも分が悪い。
だから、お前らの出番が回って来るかは未定だ。頃合いを見て、また声を掛けるから、その時に俺達に協力するか否か考えればいい。それまでは普通に学業と部活に励め」
兵藤教頭は、憎々しく舌打ちをした。
俺も、似たような手詰まりを経験しているから、兵藤教頭の歯痒さは分かる。見た目から、物理攻撃に特化していると偏見があった。兵藤教頭は、頭脳戦も出来るらしい。
「分かりました。ちゃんと、声掛けてくださいね。私、あの狸オヤジに泡吹かせたいです」
「間違いではないけど、絞め落すニュアンスに聞こえるぞ、姫川。兵藤教頭、必ず、姫川より先に俺に話を聞かせてください」
心成しか、姫川が武力行使を宣言しているように思えてしまう。姫川の細腕では、冠木校長の太い首を絞めるのは難しいだろうが。
「おう。まあ、その前に俺が古狸を仕留めてるかも知れんが。お前らの手を借りたい時は、また声掛ける」
仕留めるは、比喩であってほしいと願う。兵藤教頭が真顔で言うと、冗談に聞こえないので困る。
桜木町の駅前ロータリーで、俺と姫川は車を降りた。
明日は遅刻しないで元気に登校しろよ、と兵藤教頭が別れ際に言った。走り去る車を、姫川と並んで見送りながら、明日から普通の生活に戻れるのだろうかと一抹の不安を感じていた。
くよくよ悩んでも仕方がない、と泥沼化しそうな思考を中断する。
「姫川、家まで送るぞ」
「いいんですか!? あ……ちょっと、待ってください……」
言った瞬間、嬉しそうに目を輝かせた姫川。
そこまで喜ばれると気後れしてしまうが、何かを思い出した姫川が、鞄からスケジュール帳を取り出して、ページを捲る。今時、スケジュール帳でスケジュール管理している高校生も珍しい。
「……う、やっぱり……でも……うぅ……せっかくのチャンス……ぐぅ……」
呻きながら百面相を始める姫川。
パタン、と勢いよくスケジュール帳が閉じられた。
「今日は……今日は……ダメです。お父さんもお母さんも帰りが早い日です。帰って、冠木校長から、お父さんやお母さんに変な入れ知恵される前に、昨日から今日までの一連の話をします。だから、今日はここで大丈夫です」
絞り出すように姫川が言う。悔し気な表情の理由は分からないが、無理に家まで送る必要も無かったので、姫川の返事を素直に受け取る。
俺も、一応、親に今回の件を報告しようと思う。
「分かった。じゃあ、また明日、学校でな」
「はい。気を付けて帰ってくださいね。それじゃあ、また明日」
俺は小さく手を挙げ、姫川が笑顔で小さく手を振って、お互いに反対方向に歩き出す。
友達と、こうやって挨拶を交わしてから家に帰るのが、もう何年も昔だったように感じる。
定期券の範囲外なので、三駅分の切符を購入し、半端な時間で空いている電車に乗り込む。座席は空いていたので、座って見慣れない風景が車窓の外を流れて行くのを眺めた。
見慣れた駅で電車を降り、見慣れた道を歩いて自宅へ辿り着く。家族は留守で、玄関の鍵を開けて中に入った。
キッチンでコップ一杯の水を飲み、二階の自室へ上がる。着ていた制服をハンガーに吊るし、部屋着のスウェットに着替えたところで、ベッドに倒れ込む。スプリングが迷惑そうに軋む。
「昨日から、色々あり過ぎた……。疲れた……」
密度の濃い二日間だった。十六年の人生でも、上位にランクインする疲労感と脱力感だった。
また明日、と当然のように姫川は笑った。目を閉じると、やけに、その笑顔が思い浮かぶ。
「明日も友達に会えるって事が、こんなに嬉しいものなんだな……」
しみじみと、その実感が骨身に沁みる。
俺ごときのために、あんなに頑張って、怒って、泣いて、笑って。会話量も、感情表現の豊かさも、最初はしんどいと思っていた。今では、姫川と取り留めのない世間話をしたり、他愛のない冗談を言い合ったりするのが、どうしようもなく楽しい。
「こんなこと、姫川に言ったら、また小馬鹿にしてくるんだろうな」
それはそれで、また楽しそうだ。自然と頬が緩む。
明日は何を話そうかと考えながら、俺は心地よい眠気に呆気なく負けてしまった。
ぼちぼち日常パートに戻したい。