03 老紳士と白い犬の秘密(前編)
久しぶりの更新です。
今回は初登場の人物が主人公です。
病院は苦手だ。
だって、清潔で明るいはずの白い壁にも天井にも、黒い影が見えるから――。
「――だからさ、いつもおかずに醤油かけ過ぎなんだって。味みないであんなに醤油かけてどうするの。塩分取り過ぎ」
「……マホ、お前、小言がばあさんに似てきたな」
「そのおばあちゃんから伝言。今後うちでは減塩醤油しか使わないって」
きっぱり言った私に、ベッドの背もたれに寄り掛かった祖父は嫌そうに顔を顰める。
減塩醤油なんて醤油じゃねぇぜ、とぶつぶつ呟いて不満そうだが、夜中にいきなり倒れて救急車で運ばれて、心配するこちらの身にもなってほしい。
――数週間前、夜中に祖父が心筋梗塞で倒れ、病院に運ばれた。
祖母は祖父に付き添って救急車へ、両親はばたばたと寝巻のまま車で病院に行った。家に残された私は、不穏な空気を感じ取って心細くて泣き出す弟達と共に、不安な夜を送ったものだ。
何とか処置が間に合って一命をとりとめたから良かったものの、集中治療室に見舞いに行った際、いつも元気で賑やかな祖父が何本もの管に繋がれ、ぐったりとしている姿を見た時はひやりとした。
経過は良好で一般病棟の大部屋に移され、憎まれ口を叩くほど元気になった祖父に、内心ではほっとしている。同時に、あれほど心配させて、と少し腹も立っていた。
私は顰め面で、持ってきた大きな紙袋から祖父の着替えを取り出して、ベッド横にある棚の引き出しに入れた。
てきぱきと片付ける私を眺めながら、祖父が尋ねてくる。
「そういや、マホ、ばあさんはどうした?」
「家で電話番。今日はお父さんもお母さんも仏事が入ってて、夜までいないから」
――『真歩子、帰りに病院寄ってきて』
今朝、そう言って大きな紙袋を渡されて、入院中の祖父の着替えを持っていくよう母から頼まれていた。
私の家は、寺だ。
祖父と父は、いわゆるお坊さん。契約先の葬祭場や檀家の法事で読経をあげ、亡くなった人々を弔うのが仕事である。しかし今は祖父が入院中のため、父と、臨時で手伝いを頼んだ若い僧侶、そして母が仕事を回していた。
ここ最近は特に忙しく、両親は不在がちで、祖母が私達の面倒を見てくれている。寺には檀家からしょっちゅう電話が入ってくるため、祖母もあまり外出はできない。
よって、手の空いている者――私が急遽、学校帰りに祖父の着替えを持っていくことになったのだ。
祖父が入院中の総合病院が、高校から電車で一駅の場所にあり、家から行くよりも近かったせいもある。弟達も来たがっていたが、次の土曜日にと言い含めて諦めさせた。
「龍太や虎太のやつも、連れてくりゃあよかったのに」
「いやだよ、引率するの私になるし。それに騒がしくなるじゃない」
「お前ひとりでも騒がしいじゃねぇか」
「は!? 騒がしくなんか――」
言い合っていると、突然、横から小さく吹き出す音が聞こえた。慌てて振り向くと、向かいのベッドにいた年配の男性が口元を押さえている。
しまった、と私は恥ずかしさで頬を赤くしながら、頭を下げた。
「す、すみません、うるさくしてしまって……」
「いいえ、こちらこそ失礼しました、お嬢さん」
向かいのベッドにいる男性が、丁寧に謝罪してくる。
お嬢さん、と呼ばれて思わずどきりとしながら、私は男性を見た。
彼は、ほっそりとした老爺だった。
年は自分の祖父と同じくらいだろう。しかし、豊富な銀髪や整った面立ちは、祖父よりも格段に若く、そして格好良く見えた。ベッドの背もたれに寄り掛かって文庫本を開き、老眼鏡をかけている姿は、病院着なのにとても様になっている。
『老紳士』という名称がぴったりだ。
老紳士は私を見て、そして祖父を見て微笑んだ。
「藤井さん、可愛いお孫さんですね。それに、礼儀正しい子だ」
「いやいや、メグさんよ、お世辞はいいって」
祖父は手と首を横に振る。
「そんな可愛いもんじゃねえよ。うちン中じゃ二番目に強いんだって。あ、一番は俺の連れな。ったく、倅の嫁さんは優しいってのに、誰に似ちまったんだか」
「お母さんはおじいちゃんに遠慮してるだけですー。私や龍太郎には厳しいんだから」
「ほら見ろ、こんな生意気な口きくんだぜ? 昔は『じーちゃん、じーちゃん』って、いっつも泣きながら手を握ってきて、離れずついてきたってのに」
「ちょっ、やめてよ! だいたいそれは――」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
たしかに、私が幼い頃に祖父にべったりだったのは事実だ。けれど、それには理由がある。
――じーちゃん、助けて。
――怖いのがいるの。こっちを見てるの。マホを追いかけてくるの。
――怖い、怖いよぅ。助けて、おじーちゃん……
脳裏によみがえる自分の声が、遠く響く。
「……」
黙り込んだ私に、にやにやしていた祖父が徐々に笑いを引っ込めた。
「おい……なんだ、怒ったのか?」
おろおろと尋ねてくる祖父に、私はつんと横を向く。
「怒ってません」
「怒ってんじゃねぇか……」
祖父はきまり悪そうに頭を掻くと、ベッド横のテーブルに置いていた小銭入れを手に取る。五百円玉を取り出し、私に差し出した。
「ほら、何か甘いもんでも買ってこい」
腹減ってると怒りやすいって言うしな、と祖父は言う。
お小遣いで機嫌を取ろうとしているようだ。別に小遣いが欲しかったわけじゃないが、祖父の仲直りのきっかけを断るのもなんだと思い、素直に受け取った。
「……売店行ってくる」
「お、おう」
「……なにか、欲しいものとかある?」
私が尋ねると、祖父はぱっと表情の曇りを取り払った。
「じゃあビール――」
「却下」
私が即答すると、祖父は口を尖らせながらも笑い、向かいの老紳士はそんな様子を微笑ましそうに眺めていた。