02 白い犬には秘密の話
雪尾さんは、素直じゃない。
祖父に対する態度を見る度に、そう思う。
今もそうだ。
水色の専用のボウルに、いつもより少なめに入れられた牛乳の白い水面を、雪尾さんはじっと見下ろしていた。少し不満げな色が、その青い目に浮かんでいる。
微妙な雪尾さんの表情の変化を、祖父が見落とすことは無い。だが、祖父はにこりと微笑む。
「雪尾さん、これ以上は駄目ですよ。悠に、牛乳もらったでしょう?お腹が丸くなりますよ」
と、祖父はまるで俺と雪尾さんの散歩を見ていたかのように言う。今日の散歩中、雪尾さんにこっそりと牛乳をあげていたことは、とうに祖父にばれていたようだ。
雪尾さんはそわっと耳先を動かした後、素知らぬ顔で牛乳に口をつける。ボウルの底まで綺麗に舐め取った後は、すまし顔で台所を出て行くが、あれは絶対に足りないと思っている目だった。
――もっと欲しいって、素直にねだればいいのに。
思いながら、鶏の西京焼きを箸で突いていれば、向かいの席の叔父から「遊んでないで早く食べろ」と注意される。
はーい、と気のない返事をしながら、俺は祖父を見やる。
席に戻って雪尾さんを見送っていた祖父は、ちらりとこちらに目線を寄越してきた。
「悠。後で牛乳あげたらだめだよ」
「……はーい」
しまった、ばれていたか。内心で舌を出す俺に、祖父は雪尾さんに見せた笑みを同じものを見せた。
その夜、不貞腐れた雪尾さんは、俺と過ごすことを決めたらしい。
勉強する俺の背後でぱったぱったと急かすように、しっぽが床を叩く音がしていたものだ。勉強を終えて、有線放送の映画を見にリビングに行けば、祖父はいなかった。ダイニングで喫茶店の帳簿を付けていた叔父に尋ねれば、部屋に戻ったようだ。
雪尾さんとソファに並んで座って、アクション映画を見る。その間、雪尾さんは伏せの体勢で寝そべって、俺の膝に顎を乗せてきた。いつものことだ。顎の辺りを掻いてやれば、満足そうに目を細める。
映画を見終わって、部屋に戻る俺の足元に寄り添っていた雪尾さんは、しかし途中で立ち止まる。祖父の部屋の前だ。
雪尾さんの頭を、ぽんと叩いた俺は、先に歩き始める。足元に触れていた柔らかな毛の感触はなくなっている。振り向いた先、扉に消える白いしっぽの先端が見えた。
――雪尾さんは、夜は祖父と一緒に寝る。
それは三年前からの習慣だ。
三年前、祖父は心筋梗塞を起こして倒れた。
寝る前の祖父の自室での出来事で、俺も叔父もすぐに気づくことはできなかった。
真っ先に気づいたのは、俺の部屋のベッドで微睡んでいた雪尾さんだった。
急にがばっと起き上がったと思ったら、すごい勢いで部屋を飛び出したのだ。
後を追おうにも、あまりの早さでどこに行ったのか分からない。とりあえず部屋を出た俺の前に雪尾さんが再び戻った時、すごい形相で吠えられて、脚を押された。
ただならぬ様子に驚きながら、俺は雪尾さんに押されるまま祖父の部屋の前につく。その時には、さすがに雪尾さんの意図に気づいた。
急いで部屋に入れば、祖父が倒れていた。
床に吐瀉物が広がり、胸を押さえて身体を丸める祖父の姿に、俺は動転する。
その視界に、雪尾さんが映った。
祖父の顔を覗き込み、起きてというように鼻先でつつく。不安そうに耳を伏せて、祖父の肩を押す。
青い目を揺らがせて、心細く鳴く雪尾さんの姿に、自分がしっかりしなくてはと我に返ることができた。
すぐに叔父を呼びにいき、救急車を呼んで――。
幸いにも、祖父は一命をとりとめた。
発見が早かったおかげだと、病院から戻ってきた叔父から聞いた。
手術後、一般病棟に移された祖父を見舞いに行ったときの光景を、今でも覚えている。
救急車で運ばれる祖父についていき、家に戻らなかった雪尾さんを、俺は何日かぶりに見た。雪尾さんはベッドに眠る祖父の傍らに蹲り、じっと祖父の顔を見つめていた。
病室に入ってきた俺の方も振り返ることも無く、ただ、じっと、祖父だけを見つめていた。
それは、祖父が目覚めるのを待つというよりも。
祖父に何も起こらぬようにと、決して目を離すまいと、気を張っているようで――。
「……じーちゃんのこと、それだけ心配しているのにね」
本当に、素直じゃない。
苦笑を零しながら、俺は一人で部屋に戻った。
***
数日後、高校から戻った俺を出迎えたのは、猫であった。
家に帰りつく寸前、自宅兼喫茶店へと向かう細い煉瓦の道の先で、看板猫のキジトラ猫『キト』が、なぜか待ち伏せするように座っていたのだ。
にゃあ、と言う鳴き声とともに、頭の中に響く声がある。
『おう、ハル。おかえりー』
そう言いながら、キトはしっぽ……二つに分かれた二股のしっぽを動かす。
小柄な可愛らしいキジトラ猫、四代目『キト』は、ただの猫ではない。
四代目と周囲には言っているが、実は齢七十を超えた、立派な猫又なのである。ちなみにキトという名は、祖父がつけたそうだ。『子猫』が名前の由来であることは、いまだに彼には内緒にしているらしい。
「ただいま。どうしたの、キトさん」
しゃがみこんで訊ねると、キトはにししと悪い笑い方をしてみせる。細いひげがふわふわと揺れていた。
『ハルにいーもん見せてやる』
来いよ、とキトは先を歩き始め、店のある前庭の方ではなく、自宅の裏庭の方へと回り込んだ。
板塀の木戸から裏庭へと入り、しゃがみながら、ツツジの植木に隠れるように進む。そうして、隙間から向こうを見るよう促された。
緑の葉っぱの隙間から覗くと、裏庭の奥、家の縁側が見える。縁側に置かれたリクライニングチェアには、祖父が座っていた。
どうやら眠っているようで、祖父は目を閉じて、静かに胸を上下させている。厚いフェルトのブランケットを掛けた膝の上には、何か白いものが載っていた。
その正体に気づいたとき、俺も思わず頬を緩めてしまった。
黒い鼻先、シュッとした白い鼻筋。
雪尾さんだ。
祖父の膝の上に、雪尾さんが顎を乗せて、気持ちよさそうに目を閉じていた。きっと、あの鼻からは、ぷすぷすと寝息が零れているのだろうと、容易に想像できる。
――普段、祖父が起きている時には絶対にしない行動だった。
『あいつさぁ、メグが寝付いたの見計らって、いっつもああしてんだぜ。回りきょろきょろ見回してさ。オイラにも見られたくねぇんだろうなぁ』
だけど見てやったぜ、ハルにも見せてやったぜー、と意地悪くキトが笑う。
『ふはは、白いのが次にオイラに飛びかかってきたら、このネタで脅してやる!』
キトは勇ましく言っているが、果たして脅しはうまくいくだろうか。キトも雪尾さんにはてんで弱いのだ。
生温い目で見る俺には気づかず、キトはふんふんと鼻歌交じりに木戸の方へと向かう。
しゃがみこんだ体勢がそろそろきつくなってきたので、自分もキトの後に続こうとした時であった。
もう一度、祖父と雪尾さんのツーショットを見ておこうと振り返った俺は、ある事に気づく。
祖父の顔の角度が、さっきと違う。
背もたれのヘッド部分に寄りかかっていたはずなのに、ほんの少し、持ち上がっているような。
よくよく見れば、祖父が小さく瞬きした。
柔らかく細めた目は、膝の上の雪尾さんを見つめている。
唇にそっと浮かぶ笑みも、その穏やかな眼差しも、どこまでも優しくて――。
思わず息を止めて見ていると、祖父がふいにこちらに視線を向けた。
気づかれていたのかと一瞬焦ったが、祖父は笑んだまま、腕をそっと動かす。
薄い唇に当てられた、骨ばった人差し指。
――内緒だよ。
その悪戯めいたジェスチャーに、俺はふっと力を抜いた。笑みを零し、頷き返す。
祖父との間に『秘密』ができてしまった。
雪尾さんには、きっと、ずっと、内緒にすることだ。
素直じゃない、恥ずかしがり屋な雪尾さんにこのことがばれたら、きっとこれから、素直に甘えられなくなるだろうから。
俺と祖父との約束は、雪尾さんには『秘密』のことである。