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01 白い犬と彼の秘密


 ぱたり、ぱたり。

 今日も、俺の足元で白いしっぽが揺れる。




「ただいまー」


 ドアを開ければ、薄暗い玄関でぼんやりと光る白いしっぽが揺れた。

 白く輝く美しい毛並み。三角のピンと立った耳に、眦がきりっと上がった青い目。鼻面がしゅっとした顔は凛々しく、四肢はがっしりとして、後ろ足で立ち上がれば俺と同じくらいになる大きな体。


 玄関マットの上には、俺を出迎えるように大きな犬が座っていた。

 狼に似た風貌の、かっこいい犬だ。しかし大きな図体の割には、ちょこんと前足を揃えて、可愛らしい座り方をして俺を迎える。


「ただいま。じーちゃん達は店の方?」


 ローファーを脱ぎながら尋ねると、犬はまるで俺の言葉がわかっているように、ふんふんと頷いて返してきた。

 犬は青い目を輝かせながら、廊下を進む俺の足元に引っ付いてくる。

 自室で私服に着替えようとする俺の周りを回って邪魔なので、「ちょっと待ってて」と、犬の長い鼻を軽く押さえた。

 犬は、きゅうん、と少ししょげたように鳴いたが、大人しく少し離れた場所でお座りをする。

 その最中も、ぱったぱったと急かすように床を叩くしっぽ。慣れているから焦らないけれど、相変わらずかわいい。

 横目で見ながら、細身のジーンズと長袖シャツに着替えた。春が来たとはいえ外はまだ寒いので、パーカーを羽織ってから、スマホをポケットに突っ込んだ。


 部屋を出て、玄関でスニーカーを履いて家の裏手に回れば、レトロな建物がある。

 年代を感じさせる白い漆喰に黒い瓦屋根という和モダンの建屋は、祖父と叔父が営む喫茶店だ。裏口から入ってキッチンに顔を覗かせると、ちょうどカウンター内にいた祖父がこちらに気づいて顔を向けてくる。

 ほっそりとした長身に、白いシャツと黒いズボン。喫茶店の制服代わりの黒いエプロンを身に着けた祖父は、生え際の後退が見られない灰色の髪を緩く撫でつけている。ぴんと伸びた背もあって、年齢よりも若く見られることが多い。

 近所で『老紳士』と女性に評判の祖父は、端整な顔立ちに微笑を浮かべた。


「おかえり、はるか

「じーちゃん、ただいま。ちょっと散歩行ってくる」


 言いながら足元の犬を指さしてみせれば、ふっと祖父の口元が綻んだ。色素の薄い茶色の目が柔らかく笑まれて、目じりの皺が深くなる。


「いってらっしゃい。気を付けて」

「うん」

「おーい悠ー、夕飯までには帰って来いよー」


 俺と祖父の会話が聞こえたのか、店のホールで働いているであろう、死角で姿の見えぬ叔父のしのぶが声を張り上げる。

 店内に響く声に、カウンターにいた常連のおばさん達がくすくすと笑った。「いってらっしゃい、悠君」「今日もお散歩?」と口々に声を掛けられたので、俺は軽く頭を下げて、そそくさと店を出る。

 ぐるりと回って前庭に出れば、黒塗りの古びた木のデッキでは、四代目の看板猫が仰向けに寝転がっていた。

 キジトラ模様の小柄な猫は、気持ちよさそうに白い腹を上下させて寝ている。見事なへそ天だ。野生動物の警戒心のかけらもない。

 緩み切ったキジトラ猫に、足元の白い犬がうずうずと身体を揺らす。気持ちはわかる。俺もあの腹をわしゃわしゃと撫でたい。でも。


「だめだよ」


 犬が猫に飛びかかろうとするのを、寸前で制した。さすがに猫が気の毒だし、後で俺が猫に怒られる羽目になる。別に怒った猫は怖くないけど、拗ねられたうえで凹まれると、宥めるのが面倒なのだ。

 「行くよ」と犬に声を掛けて細い煉瓦の路地を進む。通りに出てすぐ、『喫茶 シリウス』の古びた看板の前を通り過ぎたところで、近所の顔馴染みで常連客のおじさんと出会った。


「おう、悠君。今日も散歩かい?」

「はい」

「たまには彼女の一人や二人連れてきて、デートでもしなよ。もう高校生だろ?一人きりで散歩はつまらんだろ」

「そうでもないですよ」

「そうかい?変わってるねぇ」


 そんなやり取りをしておじさんと別れた後、俺は犬を連れて、駅前の商店街にあるドラッグストアに入った。

 大きな犬を連れて店内に入っても、牛乳の棚の前で立ち止まってじーっと物色する犬にも、誰も何も反応しない。

 小さな牛乳の紙パックを一つと、ミルクティーを一つ買って、ドラッグストアを出る。

 商店街を抜けた後は、近所の神社に向かった。苔むした階段を上る俺の前を、白いしっぽを振りながら犬が駆け上がり、時折振り返っては俺を待つ。

 階段ですれ違う老婆も、お参り帰りの若夫婦も、参道で挨拶する神主さんも。大きな白い犬に目も向けない。

 やがて、人気のない神社の裏手の広場につけば、犬は軽やかに走り回った。楽しげな様子を見ながら、ぽつりと呟く。


「……“一人”じゃないしね」


 ねえ、雪尾さん。


 囁く声に、呼ばれたと思ったのか。

 白いしっぽを揺らして勢いよく駆けてくる大きな犬――雪尾さんに飛びつかれて、俺は草むらに押し倒された。




***




 雪尾さんは『犬神』である。

 犬神は人に憑く犬の霊のことだ。その犬神を代々使役する家のことを『犬神筋』と言うそうで、俺の祖母は『白瀬』という犬神筋の生まれだった。犬神筋では、女子が生まれると犬神も生まれるそうで、雪尾さんは祖母と共に生まれた犬神だった。

 だからだろうか、雪尾さんは祖母にとても懐いていた。

 祖母の足元にぴったりとついて回り、見上げる青い目や振られるしっぽからは大好きという感情が溢れていた。見ているこっちが和むくらい……あと、ちょっとだけ祖父が気の毒になるくらい、祖母と雪尾さんは仲睦まじかった。

 

 もっとも、早くに祖母が亡くなった後は、俺の足元に引っついていることが多くなった。

 別に俺が祖母に似ているわけではない。

 むしろ、俺の容姿は祖父の若い頃にそっくりだ。祖父が大学生くらいの頃の写真を見せてもらったときに、古びた写真の中に笑顔の俺がいて、若干引いたものだ。


 なのに雪尾さんは、俺に懐いている。

 たぶん、俺が雪尾さんの姿が見ることができるからだ。

 犬の霊である雪尾さんの姿は、普通の人には見えない。喫茶店のデッキに寝そべった看板猫『キト』のしっぽが二つに分かれていて、実は四代目じゃなくてずっと初代のままであることも、他の人は気づいていない。


 俺は、祖父の容姿だけでなく、彼の能力もそっくり受け継いだ。

 普通の人には見えないモノ――幽霊や妖怪や、その他有象無象の生き物ではないモノを見ることのできる目を持つ俺は、祖父と同じように雪尾さんを見て、触れることができる。

 叔父も昔は少し見えていたそうだが、今は見えたり見えなかったり、ぼんやりと気配を感じることしかできないらしい。俺の父なんかは、一切見ることができなかった。

 

 だからか、人懐っこくてさみしがり屋の雪尾さんは、見える俺の側にいることが多い。

 今は、祖母から譲り受けた祖父の犬神になっているはずなのに。俺の前では甘える雪尾さんは、祖父の前では澄ましていることが多い。


 その理由も、何となくわかる。

 六年ほど前、祖母が亡くなって半年くらい経った頃、俺は祖父に尋ねたことがあった。


『じーちゃん、なんで雪尾さんの頭撫でてあげないの?』


 祖父は、時折雪尾さんに触れることはあったが、しっぽばかり撫でていた。その仕草は、祖母と同じものだった。


『……未緒みおさんと、約束したんだ』


 祖父は、祖母のことを偶に『未緒さん』と呼ぶ。それを聞くと、祖母も祖父の事を偶に『めぐむ君』と呼んでいたことを思い出す。

 何でも、二人が付き合う時に互いに名前で呼ぶようになって、当時のくせが抜けないそうだ。

 二人が互いに敬語で話すことも多かった。祖父が祖母より四つ年下だったせいか、出会って付き合ってからも、敬語で話すくせが抜けないと苦笑していたものだ。


『雪尾さんは、未緒さんの犬神だから』


 私が先に撫でたらいけないんだと、祖父は自分に言い含めるように呟いた。


『未緒さんが雪尾さんを撫でた後に、俺も撫でてもいいですか、って頼んだんだよ』


 一方的な約束事だったけどね、と祖父は遠くを見て目を細めた。

 『俺』と祖父が自分を呼ぶのは、あまり無いことだ。だからたぶん、祖父がまだ若い頃にした約束なのだろう。

 でも祖母は、そんなこと気にしないで、雪尾さんを撫でてもいいと言ったに違いない。祖母はそんなひとり占めするような人じゃないと、俺も、そして祖父もわかっている。


 だけど祖父は、祖母が亡くなった後も、自分で取り付けた約束を守っていた。雪尾さんのしっぽに触れることはあっても、他の部分には極力触れないようにしている。


 雪尾さんのしっぽだけしか見ることのできなかった祖母への配慮と遠慮を、祖父はいまだに抱き続けている――




***




 草むらに押し倒された俺の顔を、雪尾さんが覗き込む。

 その青い目にいたずらな光が宿るのは、幾度か見たことがあった。


 例えば、祖母の一周忌を迎えた夜のこと。

 まだ小学生だった俺は、夜の庭で雪尾さんの隣に佇む、小柄な人影を見た。

 ショートボブくらいの髪に、眼鏡をかけた女性。ずいぶんと若く、大学生の祖父と釣り合う姿の若い女性は、写真の中で見た祖母に相違なかった。


 柔らかそうな祖母の手で頭を撫でられて、雪尾さんは嬉しそうに目を細める。

 幽霊になったから、祖母は雪尾さんに触ることができたんだな、と俺はぼんやり思った。

 そして同時に、ばーちゃんが頭を撫でたから、じーちゃんも撫でてもいいんじゃないかって。祖父に教えてあげようかと思った。

 だけどそのとき、雪尾さんとぱちっと目が合った。


 ――めぐむには、内緒だよ。


 いたずらっぽく光る目がそう言っているような気がして、俺はしばらく考えた後に了解するように頷いてみせた。

 

 ……雪尾さんは、祖父にだけ、ちょっと意地悪だ。

 大好きな祖母を祖父にとられたから、その仕返しなのかもしれない。


 まあ、雪尾さんは祖父のことも大好きみたいだけど。

 ただ、素直じゃないだけだ。好きな子ほどいじめたい、ってやつかもしれない。


 なんてことを思っていたら、雪尾さんが察したように、ぺしりと頬を前足で叩いてきた。


「……痛いよ、雪尾さん」


 草むらから身を起こせば、雪尾さんは俺の身体の上からどいた。

 隣に座った雪尾さんの前に、買っていた牛乳の紙パックを開いて置いてやれば、おいしそうに飲み始める。

 邪魔しない程度に、その丸まった背中を俺は撫でる。


 ――あの夜から、俺と雪尾さんの間には秘密の約束ごとができた。


 祖父への口止め料代わりに、こうして散歩でふたりきりになった時、雪尾さんを撫でさせてもらっている。

 ちょっと固めだけど、毛足の長いモフモフの毛は手触り抜群だ。

 額のところをわしわしと掻いてやれば、嬉しそうに細められる青い目は可愛い。撫でる度にぱたぱたと嬉しそうに振られるしっぽも可愛い。


 途中、牛乳から顔を上げた雪尾さんの頭を撫でれば、青い目がきらりといたずらに光った。


「……内緒だね」


 俺も目を細めて、そっと笑う。


 雪尾さんの素敵な手触りを日々味わっていることは、祖父には秘密のことである。






とりあえず一話分、書き溜めていた白いしっぽの後日談をあげます。懐かしい人物がちらほら……。

今後は、他の作品が落ち着き次第、あるいは筆休めのときになるので、かなり遅い更新になると思います。気長にお付き合いいただきますよう。

白いしっぽの世界を、時折思い返して懐かしんでいただければ幸いです。



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