T 夏の甲子園
ヒロの高校は夏の甲子園に初出場する。
応援に行くのか行くまいか……分岐が迫る!?
「おいヒロ、お前、昨日……九条をおんぶして階段を下りたのか?」
――だから~、どっから聞いて来るんだよそんな話を!
昨日、翔は補習をさぼって休んでいた。つまり、部活にも来ていないはずなのに――!
ウエイトリフティング部のネットワーク網……。恐怖を感じてしまうぜ――。
バレているなら……もう隠す必要もない。隠しても無駄か……。
「ああ」
顔を合わさずに素っ気なく返事する。翔は下唇を出して、眉間にシワを寄せ、顔をクシャクシャにしながら悔し顔を見ぜる。
「いいよなあ〜」
いいだろう~とは言わない。九条にしてみれば、俺なんかにおんぶをされている姿を、数人とはいえ見られ、野次馬どもに言いふらされているのだから……。このバカ!
「で、どうだった?」
「……軽い貧血だった」
「違うだろ! そうじゃなくてだなあ」
「あー、安心しろ、すぐに良くなったから。心配するな」
「う〜ん〜ヒロくぅんの意地悪う〜!」
さっきと同じ顔してやがる。気色悪い声を出すな!
……どーせ、九条のお尻が柔らかかったかとか、聞きたいんだろ?
ぜってー教えてやるもんか。ベ~ダー!
「まあ、それはいいとして……ヒロは結局どうするんだ?」
「なにがだ?」
脈略のない話の切り替えに……ついていけんぞ!
「野球部の応援バスツアーだよ」
「行くかよ」
即答だ。
「なにが悲しくて高い金払って野球部の応援になんか行かないといけないんだ」
一泊二日での応援バス……。まるで町内会旅行のようだぜ。しかも一人五万円って……なんだ? さらに雨で試合の日が伸びたり、勝ち進むにつれて料金も割り増しになるらしい……。バカバカしくて払ってられるか。それに、うちの両親も……俺以上にケチだからなあ……。
「だよなあ~。別に俺達が行って応援したからって……勝敗には全然関係ないよなあ」
翔は俺の回答をおおよそ予測していたのだろう。鵙美にも話が聞こえていたみたいで、俺と翔の話に入ってくる。
「でも、初出場なんでしょ? 凄く盛り上がっているみたいよ」
「興味ねーよ」
知った友達が出ているのならともかく、俺にしてみれば上野と橘なんて、言わばライバルのようなものだ。なぜそれを応援などしなくてはならない――!
「九条さんも行くよ~?」
――言うなよそれ……。って、どうせ……翔も知っている事なんだが……。
「それに、野球部応援している女子達も殆ど行くらしいぜ、前日から……。行ったら行ったで楽しいかもよ?」
……野球部の応援はつまらないが……前日がホテルに泊まるっていうのは、まるで修学旅行のようで……興味がないわけではない……。だが……、各家庭での部屋割りだから、泊まるホテルが違えば、その時点で九条と話せる可能性はゼロだ……。
たとえ九条と同じホテルに泊まれたとしても、いつも彼女の周りにはボディーガードのように友達が集まるのだろう。
話す機会……ホボホボゼロだろう……。
……春佳の家は応援バスに行くと親から聞いていた……。
春佳はまだ上野を狙っているのだろうか……。未練タラタラだな……とバカにしてやりたいぜ……。くそお……。
「あ~? いま、ヒロ君の中で葛藤してるでしょ? 行こうか行くまいか?」
「行ったところで話す機会……ほとんどないだろうって考えてただろ?」
――二人して、こいつらは〜!
成績底辺のクセに、――なぜ俺の考えを言い当てやがる~! くそぉ!
「……バーカ。そんなこと考えるわけねーだろ! 俺は行かねよ。どうせ負けるだろうし、暑いし」
そもそも、うちにはそんな金ねえんだ。
「じゃ、私もやめとこ」
「俺もやーめた」
鵙美も翔も俺の答えを聞いて、ニコニコとそう言う。
「お前ら……自分のことくらい、自分の意思で決めやがれ!」
九条が教室に入って来て、その話は中断した――。
その日は九条とは……話せなかった……。
明日は野球部の一回戦。
トーナメントの最後の方だったから、ちょうどお盆休みと重なり、校門の重い鉄製ゲートも閉じられていた。
大型の応援バスが何台も朝早くに街を出発し、今日と明日の二日間、この町はゴーストタウンのようにひっそりとするのだろう。
鉄製のゲートが閉められているのを、やはりなと……呆れながら見つめる。
「だから言ったじゃねーか! 今日も明日も、お盆中は学校、閉まってるって!」
「だったらちゃんと連絡票に書いて配って欲しいわ!」
――! まさかの……逆切れ? 鵙美は一体誰に対して怒っているのか……。
ゲートの前で途方にくれた俺に鵙美が膨れっ面を見せる。
「じゃあさあ、せっかく学校まできたんだから、どこか行きたい!」
「金ねーよ」
それに世間はお盆だぜ? 都会ならともかく、この辺りの店は殆ど閉まっている。
お盆に殺生しちゃあいけないんだぜ!
「じゃあ夏祭りの埋め合わせ! まだしてもらってない!」
……余計な事ばかりよく覚えていやがる……。
だが、あの日は俺だって……なんも楽しいことなんかなかった……よな。
「仕方ないなあ……。確かに、来てすぐに自転車で帰るのもバカバカしいし……。じゃあどっか金が掛からないところにでも行くか?」
「うん!」
なにが「うん!」だ。……嬉しそうな顔しやがって。
「じゃあ、海、いこっか?」
「制服でか?」
「お金かからないし、近くだからいいじゃない」
……砂浜で、靴と靴下を脱ぎ捨てて……波を避ける。
「キャ!」
とか言っちゃって……。ハハハ、ハハハって……わけもなく笑って走る……。シチュエーションはいいと思う。……鵙美以外ならなおさらいい。
「あ! 今、私をいやらしい目で見たでしょ!」
「……。見てねーよ。ごめん」
「私を岩から突き落として、びしょ濡れの濡れ濡れにして、白いシャツが透けて萌え〜って! 想像してたでしょう!」
「黙れ! シャラップ! 海、行かないぞ!」
ツバ飛ぶわ! 妄想が俺のより先走っていやがる!
「アハハ、それはダメ~」
崖から突き落としてやりたい……。
リアス式海岸の恐ろしさ……思い知らせてやりたい~!
「近くに化石が採れる場所があるって聞いたわ!」
「化石だと?」
十五年くらい住んでるけど初耳だ。聞いた事ねーぜ。
「学校からまっすぐ海に向かって、長い階段を降りた遊歩道のところらしいわよ」
「その噂は……本当か?」
「ネット情報!」
うーん。五分五分……フィフティーフィフティーってとこだな。
「ポロッと崩れやすい岩場があるんだって!」
「――ああ! それなら聞いた事はある。岩の色が青黒いところだ」
……だが、そんなとこから恐竜や三葉虫の化石が見つかるのだろうか……。
「とりあえず、掘るもの準備して行ってみましょ!」
「ああ。だが、学校は閉まってるし、俺は金ねーぞ」
脆い岩とはいえ、素手で岩は砕けないだろう。
「物置に金槌くらいあるんじゃない?」
校門のゲートは閂をずらせば簡単に開けられる。手に錆が付くから嫌なんだよな……。
ギーキッキイイ――~。
鳥肌の立つような音を立てやがる~! ゆっくりやっても早くやってもキイキイ音は変わらない!
錆びたゲートを手で動かす俺を、鵙美が手伝ってくれるのはいいのだが……。足でグイグイ蹴って手伝うのが……なんか腹立たないか……?
ほんの少しゲートを開け、中に入った。
俺の手には当然のように赤錆が付いてしまい、手が……錆臭い。鉄棒の錆の匂いとは微妙~に違う。どっちかっていうと、甘酸っぱい。
いや、甘酸っぱいっていうと……いいイメージになるかもしれないが、そんないいもんじゃねー。甘酸っぱ臭い。とりあえず臭い!
「なにしてるの?」
――は!
「なんで何度も何度も手の匂い嗅いでるの? ……もしかして、匂いフェチ?」
……。
いや……手が錆び臭いから……。
自転車小屋の横に置かれている白色の四角い物置。百人は乗れないだろうが、かなり大きい。中には空気入れや自転車修理に必要な工具などが一通り置かれている。
倉庫をギーと開ける……。
暗い倉庫に光が差すと、一瞬、ザザッとなにか生き物が動いたような音がした――。
「きゃっ――。ま、真っ黒コロスケかなあ?」
「……それを言うならクロスケだろ?」
コロスケってなんだ? 刀を持った侍のお化けか?
倉庫の奥の棚に置かれた青色の工具箱をそっと開ける……。どうでもいいが、また鵙美が俺の腕に手を絡めてくる。
「だから、暑いだろうが! 引っ付くなよ」
「怖いのよ! ちょっとくらい男らしいところみせなさいよ!」
……俺は男らしいだろうが! 本当は怖くもなんともないくせに女子みたいに引っ付きやがって!
「もしかしたら、その縦長のロッカーに……白骨化した死体とかが入っているかもしれないでしょ!」
そういう事言うの……本気でやめよ……。
ホラーゲームとかをやってると、リアルでそういう敵キャラが出てくるんだよ! ああ~ああ~うなり声を上げて寄ってくるやつら……。夢にまで出てきやがるんだよ!
「変な想像すんじゃねえ! そんな風に考えるから怖いんだろ!」
慌てて工具箱から金槌とタガネを借りる。明日返したら文句は言われないだろう。
鵙美の手が一瞬離れたかと思うと、隅の方から何かを引っ張り出してくる。
「これは? これさえあれば、恐竜の骨でも掘り出せそうよ?」
「それは、やめとけ」
そんなバカでかいツルハシを担いで……海まで歩いていけるわけないだろ――。
海岸沿いのガードレールと自転車にチェーンを巻いてカギを掛ける。
断崖絶壁のような海岸沿いの岩肌に、下まで降りられる細いコンクリートの階段がある。一応、階段には手摺があるのだが、白い粉が付くから誰も触らない。
手摺の役目を全く果たしていない……。
鵙美は俺の手を手摺かなんかと勘違いしているのじゃないだろうか?
「これ、手摺が壊れて外れたら、下に落っこちて死んじゃうわ」
「だから、誰も握らないんだろうな。っつーか、手を握るのはいいが、体重掛けるのはやめてくれないか? さっきから重いんだけど」
ニッコリ微笑んでから……いっそう手に体重を掛けてきやがる――!
「女子に重いなんて言ったらいけないんだぞ~! 私はこれでも平均体重なんだからね!」
「わーった! 分かったから体重掛けるなって! 重い重い重い!」
「あー、また言った! えーい!」
「ちょっと待て待て! おも……ヘビーヘビー! 鵙美ベリーヘビー」
蛇~じゃないけど危ないって言いたいのだ!
階段を降り切ると、飛び散った波飛沫がかかるくらい海に近づく。海沿いを遊歩道がずっと見えなくなるところまで伸びている。その遊歩道には飛沫で常に濡れているところや、黒い岩の破片が割れ落ちているところがある。
遊歩道の下を覗くと、澄み切った青い水にその深さを知ることが出来る。綺麗なのだが吸い込まれてしまいそうな恐怖すら感じる。
『化石掘削禁止!』
二人の目の前に、いきなりその立札が立ち塞がっっていた――。
「えー? そんなわけないわよ! ネットでは金槌で叩いて化石を採る動画までやっていたのに!」
「まあ……、この凄まじい石の破片を見りゃあ……誰だってこれ以上は削るなって言いたくなるよな」
それに、遊歩道の手摺を越えなくては岩には触る事すらできない。崩れるかも知れないような岩肌を登り、滑り落ちたりでもすれば危険極まりない……。
波が高い時も危険だ。波の高さが二mを超えれば……遊歩道にいてもびしょ濡れになるだろう。
三mを超えれば……飲みこまれるだろう。四mをこえれば……って、そんな日には海に近寄るわけねーな。
鵙美は早速岩側の手摺を、サッとまたいで超えると、岩を眼鏡越しにジーと見つめている。
俺は目がいいから歩道から岩肌を見つめていた。
この岩肌はどんどん崩れていくんだろうなあ……。波が叩きつけられ、削られ、この辺りの独特な地形を生み出しているんだ……。何年も、何万年もかけて……。まるで鍾乳洞のように……。
カン、カンカン! カンカンカンカンカンカンカンカン!
カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン……!
リアス式海岸が……泣くぞ。
人間の手によって、今、まさに何万年分も崩れていこうとしているようだぜ! ツルハシを持って来なくてよかったと……安堵のため息が出る。
「ヒロ君~。あなた、化石探す気、まったくないでしょ?」
「え? ――いや、大ありだぜ、大あり」
こうしてジッと表面を見て探しているじゃないか。
「――一つ見つけるまで、今日は帰らせないからね!」
「はあ? マジでか?」
夜になってしまったら……どうやってこの黒岩から化石を見分けると言うのか!
こうはしていられない……。仕方なく俺も手摺を乗り越え、岩肌を這うように……見たこともない化石ってやつを探し始めた。
小一時間くらいは経っただろうか……。場所も最初の所からかなり移動していた。
「本当に見つかるのかよ……」
「この辺りで化石を一日で五個……しかも一人で見つけたってブログがあったんだから! 私たちは二人いるのよ? 十個は取れないと不公平だわ!」
不公平になるのか? そんな不確かな情報を真に受けて……手伝わされる俺の身にもなって欲しいぜ。
今日も制服は汗だくだし、潮風や霧のような波飛沫が……しょっぱい。
「あー喉乾いた」
この前の山登りと一緒だ。なんの準備もしてきていない。行き当たりばったりくるもんじゃねーなあ。山も、海も!
「水ならあるよ」
鵙美は近くに置いていた鞄の中から、大きめの水筒を出して俺に渡してくれた。
「おっ、サンキュー!」
今日は学校で補習を受けていない。キンキンに冷えた水かお茶かポカリなんかを期待していたのだが……、
「ぬりい~。なんだこりゃ、水道の水じゃないか」
「贅沢言わないの。家出る直前に、ヒロ君バカだから水持ってこないかもって気付いたんだから。あるだけましでしょ」
バカ呼ばわりかよ……。それは別に腹立たねーけど、鵙美が違う水筒で、そっちは保温の水筒ってのが……。
やっぱり腹立つよな……。
中身が気になるよな……。
「あ~! また私と間接キスしたいんでしょ? 仕方ないなあ~」
そう言って水筒を差し出されたら……飲みたくても飲めないよな……。
鵙美は男心……分かっていらっしゃり……ガチでムカつく~!
何も見つからないまま……お昼の時間をとっくに過ぎていた……。
お昼ご飯……? そんなものを俺や鵙美が準備してくるわけがないないだろ。
そもそもだ、なんで鵙美は俺のための水道水を持って来ていたのかが気にかかる。最初から学校が閉まっているのを知っていて、今日、ここで化石取りをする予定だったんだろう! 用意周到だぜ。
しかーし! だったら、せめて腹の足しになるような物を、鞄にも入れてきて欲しかったぜ……。
水も水道水以外のお茶とか、凍らせた水とか……準備してきて欲しかったぜ――。
「おい、女子って、お菓子とか、カロリーのある物……持ち歩いていないのかよ?」
鵙美は自分の鞄を開けると、ガサゴゾと探し出した。
――なにかあるのかもしれない。まさか……酢昆布とかは出てきて欲しくないが、期待してしまう。酢昆布にじゃないぞ――。
鵙美が取り出したのは、小さくて細長い……?
「リップクリームって……食べられるかしら?」
「……」
――喰いやがれえ! とは冗談でも言えなかった……。グスン……。ヒモジイ……。
「遊歩道の近くには、実はもう取りつくされていてないんじゃないか?」
また二人で作業を続けている。
制服を着た二人の姿はまるで……地質調査同好会のように見えなくもないかも知れない。金槌での岩の叩き方が……少しずつプロらしくなってきた。
カンカンの音が、コチコチになっている……。
「そうねえ。じゃあ、ちょっと上の方を探してみるか」
鵙美はそう言うと、両手を使って岩肌を少し登っていく……。
「おい、あんまり高く登ると……あぶねーぞ。おっ――」
……角度的に、もう少し近づけば……鵙美のスカートの中が見えるんじゃないか?
俺のムッツリスケベ心が俺の足を動かせたその時――!
ガザザ――!
「きゃー!」
「鵙美――!」
鵙美が岩から滑り落ちてきた!
俺は必死に両手を伸ばし――鵙美が地面に倒れ落ちるのを――なんとか受け止める事が出来た――!
人間はいざという時に、持っている力以上を出せるっていうのに――初めて気が付いた。
良かった――。本当に助かった――。遅れて額と体から汗がドッと流れ出る。
その時の鵙美は……羽毛のように軽く感じた。
両腕でまさかのお姫様抱っこを……していた……。
「大丈夫か! 鵙美――!」
「――! ヒロ……君」
助かった喜びがゆっくりと込み上げてくる。俺がもし……パンツ見に来ていなかったら、間に合っていなかった――。
鵙美が俺の腕の中で……そっと目を閉じた……?
大きく息を吸って――ゆっくりと吐き出す。
これも――分岐なのだろうか……。
鵙のクチバシみたいに……鵙美は唇を少し尖らせて……チューして下さいと顔にデカデカと書いてあるぜ……。
悩む。悩むよな――。
このシチュエーションだったら……軽くキスぐらいしても構わないのだろうが……。それにより俺は、高校生活をずっと鵙美と二人でエンジョイする――契約を交わすことになるのかもしれない~! ……そして、その後、結婚して子供は……五人くらい育てられるかなあ……。鵙美はなんとなく安産型だと勝手な推測が出来る……。しかし、俺の昔からの夢、大金持ちになってアイドルと結婚する夢は、本当に夢のままとなり、残りの人生をまっとうすることになるのだろう……。
あ~あ! 頭がいい俺って損している!
なんで今、そんな事を、この一瞬の間に考えてしまうのかっ!
いいじゃねーか、キスくらい……。うちの親父と母親は、毎日、出かける前に行ってらっしゃいのチューしてやがるぜ! 子供の目の前で! だったら……キスなんて挨拶みたいなもんじゃねーか!
――焦る俺の顎から汗が一滴流れ落ちて……抱っこしている鵙美の唇に落ちた……?
鵙美の唇が、ムニャムニャ動き……ペロッとそれを舐める……?
ゆっくり鵙美がその綺麗な瞳を見せ……、
「もしかして、今……キスした?」
瞳が潤んでいるのが……なんか痛い。
「してない」
「唇になにか湿りを感じたんだけど、……キスした?」
「してない」
「……」
「してない」
もう一度鵙美はゆっくり目を閉じ、唇を尖らせようとしたのだが……。ククックと笑ってしまい、うまくできない。アヒルのような口になってしまう~!
もう雰囲気が台無しになってしまっている――。
「もう! ヒロ君のバカ! こんなチャンス滅多にないのに!」
そういって頬を膨らませて俺の腕からするりと地面へと降り立つと、プイっと背中を向ける。本気で怒っているのかツンデレを演出しようとしているのか……もう分かんねー。冷静に考えられない――。
「チャ、チャンスってなんだよ――! だいたい滑り落ちるんじゃねーよ、どんくさい」
「パンツ見ようとしたくせに!」
ガーン!
しっかりバレていたようです……。
だったら、わざわざ岩肌によじ登るなと言いたい――っ! 男はヒラヒラとかユラユラとかしている物に……本能的に惹かれてしまう生き物なんだ――!
しかし、鵙美の手には、ずっと一つの石が握られていた。
「その石……まさか」
「あ! そうなのよ、これたぶん化石よ! これ見つけて握ってたから、両手が使えなかったの!」
鵙美が見せてくれた黒い石……。
丸くて長細い爪ぐらいの大きさの貝殻の化石だった――!
「すげえ! やったじゃん! 本当に見つけたんだ!」
「うん! 見つけた! もっと褒めて~! もっともっと褒めてよ!」
俺はそっと掌を鵙美の頭に当ててやる。
「んーんーヨチヨチ! よくできました」
「なによその上から目線褒めは~!」
鵙美を褒めるならこれで十分だ。なんせ、俺に比べて背が低い。鵙美の頭がちょうど俺の肩の高さくらいで、なぜてやるのにちょうどいい高さだ。
今日の記念が見つかって……本っ当に良かった。
これで……やっと帰れる……。辺りはもう……夕焼け色に染まってきているのだ……。
「あ! 痛い!」
「どうした?」
「さっき落ちた時に足を捻ったみたいなの……」
「大丈夫か……。どうせ嘘だろ?」
鵙美の表情が痛い表情から……化石のように固まる……。バレバレだ。むしろそっちが痛いぜ。
「嘘じゃないもん! なんでそーなるのよ!」
「じゃあ足首、見せてみろよ」
「パンツ見えるからいや!」
スカートを抑える。なんか、腹立つ……。俺はそんなにスケベか? 普通ぐらい……じゃないのか?
「帰りの階段……登れそうにない! おんぶ!」
この断崖絶壁の階段を――上までおぶって上がれとおっしゃる気か――!
「そんな無茶な! 歩けるだろ!」
「イデデデ! あ~る~け~な~い!」
うっざ! 子供の真似しやがる~!
「九条さんはおんぶできるのに、私はできないわけ?」
できねーよ――! とはさすがに言わなかったが……。
「あのなあ~! あれは九条の体調が悪かったからじゃないか。それに、四階から一階へ階段を下りただけだ。逆にこれを登るっていうのはだなあ……」
――そう言った時、鵙美が両手で顔を抑えて、肩をヒクヒク動かしてしまった――。
それを見て俺は、言ったことを後悔……しなかった。
「嘘泣きするな」
肩のヒクヒクがククッと急に早くなる。たぶん、笑いをこらえてやがる――。
「仕方ねえなあ……。そのかわり、階段の上までだぞ」
「ラッキー。早く早く!」
一瞬でパッと笑顔を見せて立ち上がる鵙美。かなわねーぜ。……まったく。
「重っ!」
さっき羽のように軽かったのは、一体なんだったのだろうかと自分を疑ってしまうぜ。
「ん? なんか言った?」
鵙美の手が、少しきつくギューっと俺の首を締め付ける……。
「なんでもねーよ」
正直……階段を上るのは無茶苦茶きつかった。学校の四階以上の高さがあった……
途中、傾斜のキツイ所は手摺を頼りにするしかなく……、白い粉と錆が掌に独特の色合いと臭いを染みつけた……。
……今までで一番痛くなるだろうなあ……。明日の筋肉痛――。
「ありがと。今日は楽しかったよ!」
「それは……よかったなあ」
ハアハアと息を切らす……。
鵙美は化石が見つかって良かっただろうが、俺の脳には……疲れた一日って記憶が刻印されてしまったぜ。腹もペコペコだしな……。
海にへと沈む夕日が鵙美の横顔と海を赤く染めていた……。上ってきた階段と夕日の沈む海の風景が、なぜだろう……心を落ち着かせてくれる。
ゲームに出てきた風景と同じ場所だった。鵙美の短い髪が、海風に揺れると、ドキッとさせるような大人の雰囲気を感じさせる――。
「じゃあね!」
「お、おお……」
鵙美が鞄を手に歩いて帰る姿を……ずっと見ていた。
今、ここで迫られていたら俺は――、確実にキスしていただろう。
シチュエーションって、大事なんだなあ。鵙美のくせに……。
次の日俺は、両足の筋肉痛に悩まされながら、家のリビングでテレビを見ていた。……ひょっとすると、俺にとって夏休み初日なのかもしれない……。
テレビからはカキーンと金属バット特有の音が聞こえてくる。
もし俺が……甲子園の応援バスに参加していたのなら……。
今日は一日、どんな日を送っていたのだろうか……。
『スットライーク、バッターアウッ! 試合終了です!』
「よっしゃー! ざまーみろ野球部! 初戦敗退! 所詮初戦敗退だ!」
テレビの前で甲子園なんて見るのは久しぶりだった。
「おいおい、自分の高校が負けて喜ぶ奴がいるか!」
親父の言葉を背中に、自分の部屋へと上がろうとする。
「嫌な奴が出てるんだよ。それに、俺は野球部に友達なんて一人もいないし――。どうせ、甲子園に行くためだけに都会からわざわざうちみたいな田舎の高校に来た奴も多いらしいし、なんでそんな奴らを応援しなくちゃいけねーの?」
「応援しなくちゃって……お前、一回から九回裏まで見続けたのって、生まれて初めてじゃないのか?」
「はあ?」
確かに、負けろとか思って、全部見てしまった。一球一球……全て。
途中のアルプススタンドに九条佑里香が映らないか……期待して見ていたんだが……。
画面では涙ながらに甲子園の土を握りしめる……野球部の姿が映っていた……。スタンドの応援団も涙を流し合っている……。
こいつらの……三年間が……終わったんだな……。
俺の……知ったことではなかった……さ。
さっさと野球なんて忘れて、勉強に励め……と、……今は言ってやりたい。
二階に上がろうとすると母からも呼び止められた、
「ヒロ、歯磨きくらいしなさい。あと、しっかり顔も洗って……」
「今日はどこにも行かないからいいじゃないか」
面倒くさいなあ……。
「身だしなみよ、身だしなみ」
二回も言わなくてもいい……。聞こえている……。
仕方なく途中まで上がった階段を下り、洗面台へと向かった。
「そんなんじゃ、いつまでたっても彼女できないわよ」
本当にうるさい……。ウザい……。俺は思春期真っただ中なんだぜ――!
「お父さんみたいに。クス」
「……」
「おいおい、聞き捨てならないぞ。お父さんにはちゃんと彼女がいたんだからな」
「それって、私のことでしょ〜」
「……」
ソファーからゆっくり立ち上がり、父は洗濯カゴを握る母へと近づいていく。
うちの家庭環境は――最悪だ。うんざりするぜ――。
また……いつものアレが始まるのか――。
「お前の他に……誰がいるっていうんだ? こいつー」
指で母のおでこを軽く押す父。
「テヘ」
「……」
頬を赤く染め照れる母。
「いつも洗濯ありがとう。愛してるよ、ママ」
「わ、私もよ……あなた……」
「……」
こいつら……朝っぱらから……なにのろけていやがるんだ? しかも毎日のように……!
開いたままの口から、歯磨き粉の泡が落ちそうになる……。
結婚してから十数年間……ずっとこんな調子なのが……痛い。
どこの家庭でも同じなのだろうと、中学の頃まで信じてしまっていた俺も……痛い。