定型文と不定形な感情
人との交流が得意ではなかった。
それも並大抵でなく。
いつから自分の言葉を失ってしまったのだろうか。
物心ついた頃には病的なほどの人見知りで口下手、さらには人に視線を向けられるとすぐに紅潮する上がりやすい性質だった。
頭の中で物事を考え発信しようとしても、人前に立つとどうにも思うように言葉が出ず、頭が真っ白になってしまうのだ。
そんな社会的動物と対極に存在する自分が、この世界で生きていくには相応の工夫が必要であって――例えば原始の生活を真似て無人島で自給自足の生活を送る、などといった勇気は当然持ち合わせていないが、それでも発声練習をしたりチャットや手紙を通して他者と交流を図ったり、自分なりに努力してきたつもりだ。
ただ、この生まれついての性は治そうと思って治るほど簡単なものでもなかった。
事態を深刻に思った周りにそう教育されたのか、はたまた自身でその境地にたどり着いたのか、いつからか『定型文』を駆使するようになった僕は自然、この人間社会にも不自然ながら溶け込めるようになった。
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
「ありがとうございます」
「すみませんでした」
「お疲れ様でした」
簡単なものから難しいものまで事前に登録しておけば、人前でも脳内の会話辞書から定型句を取り出すだけでインスタントで最低限度のやり取りは可能だったし、そうすることで逆説的に自己を確立できたような気もした。
定型文を介して意思疎通できるだけで個人的であっても一体感を得ることができたし、無謀にもどこかしらのコミュニティに割って入って行けるような気すらした。
もちろん、そんな勇気など持ち合わせていないが。
そうして十六年、この年までそうやって生きてきた僕は今日、二度目の言葉を失ってしまった。
出会いは突然であった。
雲一つない澄み切った青空の昼下がり。
僕はいつもの休日のようにバードウォッチングのため、心のオアシスである行きつけの自然公園へと自転車を走らせていた。
市内を抜けてペダルを回していくと、徐々に人通りが少なくなっていく。
対照的に自然豊かな景色が増えてくる。
目の前に広がる田畑と雑木林、地平線の果てに見える雄大な山脈と青空のコントラストが、不自由な人間社会に束縛された僕の心をじんわり癒していく。
涼しい風が火照った体を吹き抜けて心地よい。
抜けるような青空がまるで今の気持ちを映し出している、と思った。
「こんな晴れやかな日には良い出会いがありそうだ」
僕は額の汗を拭い、小さく呟く。もちろん『出会い』と言ったのは、何も人との触れ合いを指しているのではない。
野鳥や大自然との邂逅を期待してのことだ。
雑木林を過ぎて勾配の緩い上り坂に差し掛かった時、遠くの方で誰かが手を振っているのが見えた。
僕は思わず後方に目をやるが、それらしき対象は確認できない。
前方に車輪が進むにつれて、それが女の子らしき人、であると認識できるとドキリと鼓動が速くなる。
恋に落ちたというわけではない。
単に心の準備ができないまま、不意に会話が始まるのが予想できただけだ。
厄介ごとは嫌だなあ、と思いながらペダルを漕ぐ足を緩め、軽くブレーキレバーに手を掛ける。
もう目前まで迫った彼女に目を向けると、手を振って何か言いたそうにこちらを見ている。
辺りを見渡しても人の姿は自分と彼女以外にない。誤解して欲しくないが、僕は人が嫌いなわけではない。
面と向かって会話をするのが苦手というだけで、むしろこんな面倒なやり方を採用してまでもコミュニケーションを取っている時点で結構好きなんじゃないだろうか。
快晴の空の下、無視することもないかとブレーキを掛けて、スタンドを立てた。
恐る恐る彼女の方に視線を向ける。
自分と同じ高校のセーラー服を見るに部活帰りだろうか。
目線をゆっくりと上げると、艶のある黒髪のロングヘア―に包まれた、色白の透き通った肌に目を奪われる。
そこからパッチリとした瞳がこちらを覗いている。
彼女がニヤリと微笑んだ気がした。
僕の顔からポトリと汗が流れ落ちる。きっと顔を真っ赤にしているのだろう。
この暑さのせいだと思ってもらえるとありがたいのだけど。
僕はすぐに目線を落とす。
……おかしい。
何とも言えない間が空く。
どうしてこの子は何も話さないのだろう。彼女から僕を呼び止めたはずなのに。
上目遣いで一瞥すると、少女はキョトンとしたような目で、まだ僕を見つめている。
この空気に耐えられず、とうとう僕はいつものように脳内辞書から言葉をつむぎ出した。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
「……」
「初めまして」
「……」
「あのう、どうかしましたか」
「……」
僕は半ばパニックになって、使い勝手のいい言葉を苦し紛れに引っ張り出す。
「どうも」
この一言は、空気や行間を読む必要のある日本社会において、挨拶から謝罪や感謝まで状況次第でその後の文章を、相手が勝手に補完してくれるとあって大変便利だった。
普段から何か困ったらこの一言で逃げ切る心づもりだった。
それでも、彼女は無言で僕の顔をじっと見つめている。
と思えば、すっと視線を移し、そばにあった彼女の自転車を指差した。
目の前の人間に気を取られ過ぎていたのか、この時まで自転車は全く視界に入っていなかった。
彼女は両の手のひらをこちらに向ける。
その手は油で真っ黒に汚れていた。
なるほど。おそらく彼女が困っていた理由は、自転車のチェーンが外れて直せなかったことだろう。
チェーンの修理なら経験があるし、それぐらいなら僕にだってできるかもしれない。
疑問が一つ解決した。
ただ――彼女が一切口を利いてくれないという謎がまだ残されていた。
ひょっとすると、いやもしかしたら。察しの悪い僕でも何となくその考えにたどり着いた。
僕がその考えに達したと同時に彼女が口を開いた。
といっても、実際に言葉を発したわけではない。
耳に手を当てて、それから口の前で指先を交差させバッテンを作った。
今度は僕が、キョトンとした目で彼女を見ていた。彼女はおもむろに手を前に出して、独特の言語を繰り出す。
これは――手話だ。
そうだ、昔小学生の時にこの厄介な持病克服の方法の一つとして習得しようとしたことがある。
ただ、僕は耳や口が不自由なわけではないし、まだまだ子供だったから真剣に取り組むことをしなかった。
いくつか基本的なものを覚えた記憶はあるのだけれど、目の前で表現される手の動きには全く見覚えがない。当時の自分をほんの少し恨む。
それから、どうしようかと考えた。
アドリブに弱いのは重々承知していた。いや、我ながら自覚しているつもりだったというのが正しいのかもしれない。
わざわざ定型文を用意してまでも、それが通用しない現実をいざ目の前にすると、ショックで思わず素の言葉が飛び出そうなぐらいだ。
喉に引っ掛かった小骨のような煩わしさを取り払い、届かないとわかっていても身振り手振りと共に声を発する。
「あのう、わかりました。チェーンが、外れたんですね? 直せるかわかりませんが、やってみます」
精一杯目線を合わせ、自転車を指差しながら指を丸めてオーケーを示す。
心なしかいつもより軽快に言葉が弾む。
聞こえていないという安心感からくるのだろうか。不思議な感覚に僕自身困惑していた。
問題の自転車に近づいて、しゃがみ込んだ。
彼女も両膝に手をついて、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
自転車は一般的なママチャリで、変速ギアもない簡単なものだ。
だらんと垂れ下がった前輪のチェーンを確認する。
「よし、これならなんとかなりそうだ」
何の気なしに呟いていた。
まず後輪のギアにチェーンがしっかり噛み合っているのを確かめて、前輪のギアの下側にチェーンをはめ込んでいく。
ペダルを漕ぐ時と逆向きにゆっくり回していくと、ガチャリとはまって正しい仕組みで空回りする。父さんに教えてもらった通りだ。
「よかった! 直ったよ」
僕は自慢げになるのを我慢して、格好をつける。
些細な人助けだけど、僕からしたら大きな一歩だ。
彼女はキラキラした目でこちらを見て、大きく頭を下げた。
「そんな、このぐらい当然ですよ」
僕は片手を顔の前で振って、謙遜する。
彼女はニコリと微笑んだ。
「君、面白い人だとは知っていたけど、案外しゃべれるじゃない」
「えっ」
「ごめんなさい、からかってしまって」
「あっ」
「私、君の隣のクラスなんだけど、知らないわよね? でも、君って学年じゃ結構有名なの」
「はい」
「君が前からやって来たのを見た時、本当に助かったって思った。ただ、君の姿を見てると、その――」
彼女はいたずらな目を輝かせて続ける。
「なんだか、楽しくなって調子に乗ってしまったわ。自分でもやり過ぎたと思ってるの」
「はい」
「本当にごめんなさい。自転車、ありがとうね」
「……どういたしまして」
「また学校で会いましょう」
そう言い残して、彼女は自転車に乗って行ってしまった。
僕は、小さくなっていく後ろ姿をただ眺めることしかできなかった。
鈍器で頭を殴られたような衝撃で、呆然と立ち尽くす。
なんて奴だ。
モヤモヤした、複雑な感情が心の底で渦巻いてる。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。自分の言葉で話せたことに感動するよりも。あの子は――。
冷たく、爽やかな風が吹き抜ける。
鳥のさえずりで現実に引き戻される。
僕は当初の目的を思い出して、ゆっくりとサドルにまたがった。
手のひらにはべったりと黒い勲章が残っている。
空には流れてきた雲がうっすら浮かんでいるものの、依然変わりなく澄んだ青色で、言葉にできないくらいの快晴だった。