三
他にも空いている席はいくらでもあるのに、よりによってわたしの隣に座るなんて。先ほどとはまた違う居心地の悪さを持て余すけれど、藤澤さんにそれが伝わるはずもない。
「ふみさんは、お酒が苦手だったよね」
声をかけられては無視するわけにもいかず、藤澤さんの顔を仰ぎ見た。ほんのりと頬の血色がいいところを見ると、いくらか飲んでいるのだろう。こういう席なのだから当然だ。
「苦手と言うか、極度に弱いんです」
相変わらず細い目は、感情を読み取るには不向きだ。ただでさえ人付き合いが苦手なわたしにとって、これはかなりきつい。
「弱いって事は、全く飲めないわけじゃないんだ」
「ええ、まあ。たまに父に付き合って、一口くらいなら飲む事もあります」
それもほんの一口の事で、あれを「飲む」と言えるのかどうかは疑問だが。口には出さずに、心の中でそう付け加えた。
「こういう場所は、苦手?」
「そうですね。どちらかと言うと苦手かもしれません」
ここでもやはりはっきり苦手だと言い切れないのが、わたしの曖昧な性格を物語っている。苦手どころかむしろ嫌いだと言えたなら、どんなに気が楽になる事だろう。けれど人間関係を円滑に保つためには、当然ながらそれは禁句なのだ。いくら人付き合いが苦手なわたしでも、それくらいの事は心得ている。
「苦手なのに、来るんだ」
その言葉に、思わずむっとする。もちろん顔には出さないけれど。
「それはまあ、本木さんの送別会ですから」
「ふみさんと本木君は、親しいの?」
「は? いえ、特には」
特別親しかった覚えはない。のだけれど。
「でもふみさん、本木さんから告白された事があるわよね」
聞き耳を立てていたらしい崎谷さんが、余計なひと言を言ってしまった。二人きりの時ならともかく、何もこの場で言わなくてもいいのに。
確かに入社一年目に、物好きにも交際を申し込まれた事はあったけれど、丁重にお断りした。告白された事はもちろん、それを断ったつまり振ってしまった事など、誰彼なく吹聴して回る事ではない。むしろそんな人がいれば、わたしでも軽蔑するだろう。同期の崎谷さんにしても、非常階段の踊り場で告白されているのを偶然見られたのであって、わたしが教えたわけではないのだ。面識はあるもののほとんど接触のない部署にいる藤澤さんになど、わざわざ話すわけがない。
「それで、何て返事をしたの?」
普段の藤澤さんなら、きっとこんな事を尋ねたりはしない。けれど少なからずお酒が入っている今の藤澤さんは、いつもの藤澤さんではないらしい。
「ふみさん、ちょっと、いいかな?」
いいのか悪いのか分からないタイミングで、声がかかる。誰かと思って見上げると、今日の主役であり話題の人物でもある本木さんが立っていた。
手招きをされ、気は進まなかったが、断る理由も思い浮かばない。仕方無く腰を上げようとしたけれど、なぜか立ち上がる事ができなかった。
「藤澤さん、手を離していただけますか」
何の事はない。隣に座っている藤澤さんに、手を押さえられていたのだ。
「いやだ、と言ったら?」
「は?」
何を言っているのだ、この人は。あまりに予想外の反応に、思わず宇宙人でも見るような目つきになったのは、不可抗力というものだ。
「ふみさん?」
テーブルの下の手が見えていない本木さんは、わたしの様子を見て首を傾げている。
「え、と。このままじゃ、だめですか」
訊ねると、本木さんが少し困った顔をした。
「できれば、二人で話をしたいんだけど。って、どうも無理そうだな」
僅かに苦笑する本木さんの視線を追うと、藤澤さんの顔に行き当たる。開いているのかどうだか良く分からないほどに細い瞼の間から微かに目が覗き、どうやら本木さんを睨んでいるらしかった。
「どうせ俺は東京に行くんだし、恥のかき捨てでもいいか」
肩を竦める本木さんは、実は営業部の中でも三本の指に入るイケメンだ。顔がいいからと言って、中身もいいとは限らない。というのが持論のわたしは、そんな外見に誤魔化される事はないけれど。何しろ子供の頃、イケメンも不細工も身近な男子という存在のほとんどが、わたしを虐めていたのだから。
「じゃあ、藤澤さんもそうだけど、来栖さんと崎谷さんも、今からの話はふりだけでいいから聞かなかった事にして下さい」
本木さんが、非常に前向きで建設的なお願いをする。この至近距離では、聞くなという方が無理なのだ。
「前にふみさんに告った事、覚えているかな」
「はあ。それは、もちろん」
こんな男前がわたしなんかに本気で告白なんてするはずがない。きっと裏には何かあるに違いない。そんな穿った見方しかできない自分が嫌だった。だから、お断りして即座にその場から逃げたのだ。
「俺、一応そこそこ顔がいいって自覚はあったから、断られてすっげーショックだったんだけどね」
「はあ」
「結果玉砕はしたけど、あの頃の俺、実は結構マジに惚れていたんだ。ふみさんに」
「え。マジっすか」
驚きのあまり、口調がおかしくなってしまう。
「マジマジ。ふみさんって、口数が少なくて物静かで、他の女子社員とは違ったんだよな。気が利くってわけじゃないけど、あれこれ考えているうちに他の女子社員に先を越された、なんて事も多いし。気になって見ているうちに、ああ、この子が好きだなーって思ってさ」
聞いているうちに、どんどん頬が熱くなっていくのが分かる。自然と顔が俯いて行くのだが、そんな事を他人の目があるこんな場所で言われて、恥ずかしくない人がいたらお目にかかりたい。そうじゃなくても、告白なんて滅多にされた事がないというのに。
「うわ。そんな目で睨まないで下さいよ。聞かない事にして下さいって。今はちゃんと可愛い彼女がいるから、ふみさんに手を出したりしませんって」
誰に向かって言っているのかと思って顔を上げると、本木さんが笑いながら、わたしの隣の人を見ている。
「ちょっと自分の殻に閉じこもりがちで心細げなところも、男の庇護欲をそそるんだよ、ふみさんは。十分可愛いんだし、そんなにおどおどしないでもうちょっと自分に自信を持ちなよ。って言いたかったわけ」
「は? え?」
「あ。何を言われているのか分からないって顔だな。藤澤さん、後でじっくりふみさんに教えてあげて下さいよ」
「言われなくても」
本木さんの言葉に、ぼそり、と藤澤さんが唸るように答える。
「俺が言いたかったのは、それだけ」
差し出された右手を、じっと見つめる。なんだかとんでもない事を言われてしまった気がするのだけれど、どう解釈すればいいのかが分からない。
恐る恐る右手で握り返し、いわゆる握手の状態になった次の瞬間、わたしの右手は後ろから伸びて来た別の手に浚われてしまった。
「うわ。藤澤さん、余裕ないっすねえ」
からからと笑う本木さんを、藤澤さんが睨みつけた。らしい。
「ふみさん相手に、余裕なんかあるわけがない」
「そりゃそうか。ま、頑張ってください」
ひらひらと手を振って、呼ばれる声に応じるように、本木さんが立ち去って行った。
一体なんだったんだろう、今のは。一人で首を傾げて考え込んでいると、目の前にいるカップルの肩が震えている事に気付いた。
「ふ、ふみさんって、こういう人だったんですね」
声まで震えているのは、来栖さんで。
「鈍い鈍いとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったわ」
目尻に涙を溜めているのが、崎谷さん。二人して、なんだか失礼な事を言っている。
「ふみさん」
藤澤さんに呼ばれて隣に顔を向けると、わずか五センチ程の距離に細い目があった。いきなりの至近距離に驚いて固まっている間に、どんどんその距離が縮んで行く。
「あ、あの、藤さ」
名前を最後まで呼ぶ前に何やら湿った温かい物で口を塞がれ、言葉が遮られてしまった。あまりに突然の事に状況を把握する事もかなわず、目を閉じる事もできない。
先ほど笑いを堪えていたカップルの、今度は息を飲んでいる気配が伝わって来る。
長く感じた時間は、恐らくほんの一瞬だった。
「ふみさん。好き、なんだけど」
僅かに開いた瞼の奥の目が、真っ直ぐにわたしに向けられていて。
「は? あ、あの?」
今のは何なんだろうかと訊ねようとした時に、宴席の中央でいきなり万歳の声が上がった。どうやら予定の二時間が経ったらしく、本木さんを歓送するための万歳三唱のようだ。
満場の拍手を受けて笑顔を見せる本木さんを遠くに見ながら、わたしの思考は凍りついたまま、いっかな働こうとはしてくれなかったのだった。