二
呆然としている間に社外に連れ出されたわたしは、気が付くとすぐそばの喫茶店のテーブルに、藤澤さんと向かい合わせで座っていた。
ここは営業部の人達をメインに、うちの社員の溜まり場になっている。営業部の何人かが、時間調整だと称して勤務時間内でも堂々とコーヒーを飲みに来ているのは、公然の秘密と言うよりもなぜか社内でも黙認されているらしい。
お昼のこの時間も、お世辞にも広いとは言えない店内には見知った顔がいくつも見受けられ、こちらに気付いて手を振って合図をしてくれたりしている。
「もっと気の利いた所にすれば良かったかな。ごめんね」
「いいえ。あまり時間もありませんし、会社の近くの方が安心です」
メニューを睨んでいると、営業部の人達が
「今日の日替わりは、カレーピラフとサラダのセットだよ」
と教えてくれた。なるほど。日替わりメニューなら、さ程待たなくてもいいかもしれない。それに何よりも、お値段もお手頃だ。
私立の高校から大学へ進学した事で両親には経済的にかなり無理をさせてしまったから、学費を返す分と家に入れる分とで月々八万円を渡している。さらに毎月の定期預金で五万円。残った分から服や化粧品を買わなくてはならないし、昼食にあまりお金をかけるわけにはいかないのだ。
「じゃあ、俺は日替わりで。ふみさんは?」
「あ、わたしも日替わりを」
慌てて答えると、藤澤さんが店員さんを呼んでくれた。
そこまではまあ、良かった。けれど問題はこの後。なにしろ仕事以外では、共通の話題というものが全く見付からないのだ。何か話さなければと思えば思うほど、言葉が見付からなくなってしまう。
さらには営業部の人達が、わたし達二人の様子を興味津々で眺めている事も、わたしの緊張をいや増す原因になっていた。一応遠慮しているのか、あからさまに不躾な視線を向けて来てはいないけれど、やはり気になるらしい。ちらちらとこちらの様子を窺っているのが分かるのだ。
正直、面倒だな、と思った。
美人じゃなければ可愛くもない平々凡々な顔立ち。極度の人見知りで、無愛想なまでの無表情。仕事はそこそこできるが、協調性に欠けるためにやや扱い辛い。それが入社以来わたしが受けている、周囲からの評価なのだ。
社内では同性の友人さえもほとんどいないわたしが、異性と一緒にお昼を過ごしているなんて、珍しいを通り越してまずあり得ない事なのだ。興味を引かないわけがない。
やっぱり、面倒だな。わたしは藤澤さんに気付かれないよう、こっそりと溜息を吐いた。いくら誘われたからと言っても、断れば良かった。
軽い後悔の念に駆られている間に、店員さんが注文の品をテーブルに並べてくれる。
「いただきます」
藤澤さんがきちんと両手を合わせたのを見て、この人の育ちの良さというか躾の良さを感じた。
「ふみさんは、食べないの」
「あ、はい。いただき、ます」
どうやらぼうっとしていたらしい。慌てて手を合わせると、藤澤さんの細い目がさらに細くなった。もしかするとこれは笑顔なのだろうか。
「ふみさんは、お行儀がいいんだね。きっと、ご両親の躾がしっかりしているんだ」
いえ、それはあなたの方でしょう。そう思ったけれど口にはせず、ありがとうございますとだけ応えるに止めた。
いつも、こうだ。人付き合いが得意な方じゃないわたしは、思った事を口にできない。言葉を選び間違えれば、衝突の火種になりかねないという事を良く知っているから。余計な事は言わずに飲み込んで、当たり障りのない言葉を口に乗せる。そんなわたしを素っ気ないと言う人も少なくはないけれど、それでいいと思っていた。
それからは、二人とも無言で食事をした。食事中に話をするのは行儀が悪い事だと子供の頃から母に言われていたので、これがわたしにとってはごく普通の食事風景だ。その割には父の晩酌の時には、上機嫌になった父からあれやこれやと話しかけられ、正直困ったものだったけれど。母もなぜか父に対しては苦言を呈したりはしないので、それが我が家の家族団欒と言えない事もない。
そんな事を考えているうちに、営業部の人達が、
「お先に」
「まだ時間があるから、ゆっくりしておいで」
などと口々に声を掛けて出て行ってしまった。後に残ったのは、店員さんとわたし達と、無関係なお客さんが三人だけだ。
食後のコーヒーを飲みながら、早くここから出たいと気ばかりが焦る。
藤澤さんがちらりと腕時計を確認して、ようやく二人で腰を上げた。伝票は藤澤さんが手に取り、レジできちんと別々に支払う。藤澤さんが何か言いたげな表情をしていたけれど、気にしない事にする。日頃母から金銭の絡む貸し借りは絶対にするなと言われている事もあるけれど、何よりも、奢ってもらうほど親しい仲でもないからだ。
「ふみさん。良かったらまた今度、夕食でも一緒にどうかな」
「そうですね。機会があれば、ぜひ」
店を出た所で藤澤さんに呼びかけられ、そのありきたりの社交辞令に、やはり社交辞令で返す。
「じゃあ、良さそうな店を探しておくよ」
藤澤さんがとても嬉しそうに笑顔を浮かべているのを見て、どうせ社交辞令なのに変な人だなと思った。
営業部の本木さんの送別会は、全国にチェーン店展開をしている洋風居酒屋で行われた。勤務先の送歓迎会と言えばほとんどこのお店で、忘年会や新年会で来た事もある。
参加者達も勝手知ったる何とやら。お品書を見ながら口々に好きな物を読み上げて行く。幹事がそれをメモに書き留めて店員さんに手渡してから、とりあえずの乾杯と相成った。
お酒の席があまり好きではないわたしは、いちばん隅の席を陣取っている。しばらくして幹事の崎谷さんが隣に腰を下ろし、大きな溜息を吐いた。
「お疲れさま。大変ね」
崎谷さんはお酒が飲めないらしく、わたしと同じ烏龍茶だ。
「ありがとう。大変と言っても予算はお店に伝えてあるし、あとは何もする事はないんだけど」
にっこりといつもの笑顔で、何でもない事のように言ってしまえる。さすがは社内のおじさま達のアイドルだけはある。この社交性を見習わなくてはならないと思いつつ、わたしにはとても真似ができないなと、こっそりと溜息を吐く。
けれど本当は、崎谷さんもわたしと同じくらい人見知りをする事を知っている。それを表に出さずに笑顔を作る事ができるのが崎谷さんで、頬の筋肉が引きつってしまいろくに笑う事もできないのがわたしだ。これでは同じ人見知りでも、相手に与える印象に雲泥の差が生じる。つまりそれが、崎谷さんとわたしの社内における人付き合いの差でもある。
なんとなく居心地の悪さを感じた時、
「隣、いいかな」
とわたしが座っているのとは反対側の崎谷さんの隣に、来栖さんがやって来た。
「ど、どうぞ」
途端に崎谷さんの頬が赤く染まり、どことなく狼狽えているのがこちらにも伝わって来る。初々しいカップルのお邪魔虫になりたくはないので、崎谷さんの向かい側の空いている席に移動した。しかしこれが失敗だったと、すぐに気付いた。二人の会話は途切れ途切れにしか聞こえないものの、仲のいい様子を目の当たりにしなければならない。独り身にはなかなか堪える状況だ。
宴席の中央では、既にお酒が入って盛り上がっている人の姿もあり、かなり賑やかになって来ている。お酒が入ると人が変わる、なんて良く聞くけれど、わたしはそれを見るのがあまり好きではない。酒は飲んでも飲まれるなではないが、正体を失くすくらいなら飲むなと思うのだ。
既に大半の人が好き勝手に席を移動しているため、所々空席があったり逆に人だかりができていたりしている。
「なんだか、機嫌が悪そうだね」
頭の上から聞こえた声に、慌てて見上げてみると、藤澤さんが腰を屈めて立っていた。
「そんな事は、ありませんけれど」
「そう? ここに皺が入っているよ」
そう言って、自分の眉間をとんとんと指で示す。顔に出てしまっていたらしい事を指摘され、返す言葉が見付からない。
「ここ、空いているかな」
明らかに誰もいないわたしの隣を指差して、藤澤さんが尋ねる。
「そのようです」
「じゃあ、お邪魔します」
崎谷さんと来栖さんにも会釈して、藤澤さんがあっさりと腰を下ろしてしまったのだった。