一
わたしの名前は、藤沢一二三。一二三と書いてひふみと読む。わたしはこの名前があまり好きではない。
いち、に、さん、だなんて、小学校に上がったばかりの子供だって読めてしまう。だから、読み間違えられる事はあまりないけれど、からかわれる事がとても多かったのだ。
「いーち、にー、さーん、ダーっ!」
などと、テレビで見かけるネタでからかわれるたびに、名前が嫌いになっていった。女子の中でもたまにあったけれど、特に男子がひどかった。わたしが嫌な顔をしたり怒ったりするのを見て面白がっているのだという事は分かっていたけれど、悔しくて腹が立って、我慢する事などできなかったのだ。お互いに子供だったのだと言ってしまえばそれまでだけれど。
それでも、そういった子供っぽいからかいは、せいぜい中学までだった。男子と一緒だとまたからかわれるかもしれないからと、高校は女子校を選んだ。家計に余裕があったわけではない。けれど家計を助けるためにと高卒で勤めに出ていた姉がいたおかげで、わたしの我侭を聞いてもらえたのだ。姉には申し訳ないと思ったけれど、地元の公立の共学校に行くくらいなら進学したくないとまで思いつめていたわたしの心情を、誰よりも理解してくれていたのが姉だったのだから。
高校に上がってからは、誰も何も言わなくなった。同じ高校に進学した人が少なかった事もあるのだろうけれど、あれは長くて悪い夢だったのではないかと疑いたくなるくらい、呆気ないほどの変わり様だった。
けれど夢で片付けるには、たった十五年余りしか生きていないわたしにとって、九年という年月は長すぎたのだ。忘れてしまうには、わたしが負った傷は大きすぎたのだから。
名前に由来する忘れる事などできない記憶は、それでも時とともに薄れていくものらしい。自宅から通える範囲の大学への入学を決めた頃には、時折思い出す事はあるものの、以前感じたほどの痛みを感じる事はなくなっていた。それでも、どうしても一二三という名前を好きになる事はできなかったのだけれど。
「ふみさん」
不意にかけられた声に顔を上げると、企画室の藤澤さんが、事務机超しに立っていた。今年二十六のわたしよりも三年先輩の藤澤さんは、チタンフレームの眼鏡と開いているのかどうか分からないほど細くて少し垂れ気味の目が個性的な男性だ。
わたしが所属しているシステム部とは関わりが薄い部署のため、あまり交流がない、はずなのだけれど。にもかかわらず、わたしの事をふみさんと親しげに呼んでくれる。もしかすると、字は違うけれど同じ名字ゆえの親しみなのかもしれない。
「これ、回覧です」
差し出されたのは、一冊の青いバインダー。受け取ってから中を確認すると、大阪支社に転勤になる営業部の本木さんの送別会への参加確認だった。
「ありがとうございます」
日時と場所をシステム手帳に書き込み、浸透性タイプの認印を押す。システム部にはわたし以外に五人所属していて、責任者である浩紀さんをはじめ全員が男性のため、回覧などの連絡事項はそのほとんどがわたしに回って来る。
わたしは同じ仕事をしているのにとか男女雇用機会均等法がどうだとか、そういった事にあまりこだわりがない。逆にせっかく任された仕事なのだから、きちんとこなさなければと思うのだ。
「ふみさんも、行くの?」
本来ならば姓で呼ばれるべきなのだけれど、わたしが入社した時には既にこの藤澤さんがいたため、誰からともなく下の名前で呼ばれるようになっていた。さらには、ひふみというのが発音しにくいからと、ほとんどの人からふみと呼ばれている。名前にコンプレックスを持っているわたしとしては、むしろその方がありがたい。
「はい。本木さんとは仕事上のつながりもありますから」
「ふみさんが行くのなら、俺も行こうかな」
「え」
藤澤さんの言葉に驚いて、けれどすぐに思い直した。こんなのはただの社交辞令なのに、いちいち動揺するわたしがおかしいのだ。
「こんな所でふみさんを口説かないでよ、藤澤さん」
浩紀さんが、顔だけこちらに向けて苦笑いを浮かべている。この人は専務の次男だけれど人当たりが柔らかく、いつも明るいムードメーカー的な存在だ。専務の長男である浩一さんが営業部にいるので、社内ではこちらの沢渡さんの事を、下の名前で呼ぶ事になっている。
「ばれちゃいましたか」
十畳程度の広さの室内に藤澤さんを入れても六人しか人がいないのだから、いくら仕切りがあるとはいえ、会話がすべて筒抜けになってしまうのは当然だ。
ただでさえ細い藤澤さんの目が、笑うとさらに細くなる。
「あ、僕も参加でお願いします」
来栖さんがハンコを押しに来て、思い出したかのように浩紀さんも参加希望者の欄に捺印した。これで既にシステム部の半数の出欠が分かった事になる。
「今日中に幹事さんまで届ければいいんですね」
「それなら、僕が届けに行きますよ」
紙面に書かれた幹事の名前を確認するよりも早く、来栖さんが申し出てくれた。
「え。でも、頼まれたのはわたしですし」
「いえいえ。ぜひ、僕に行かせてください」
分かりにくいけれど、なんとなく必死さを感じ取ったような気がして、来栖さんの顔に向けていた視線を回覧に戻した。
「えーと、幹事は、部長さんの所の、って」
幹事の欄には、わたしと同期入社で営業部長専属の事務を担当している崎谷佳苗さんの名前があった。短大卒で入社したから、二つ下の二十四歳。わたしとは違って社交的な明るい性格で、社内のおじさま達の間ではかなりの人気者。なんでも、娘にしたい女性社員ナンバーワンだと聞いた事がある。
「了解しました。じゃあ、判がそろったら、お願いします」
来栖さんが、あからさまにほっとしたような顔をした。
社内でも知っている人はまだ少ないようだけれど、崎谷さんはほんの少し前から来栖さんの恋人になった。来栖さんが崎谷さんの事をかなり気に入っているようだと感じてはいたけれど、こっそりと教えてもらった時には本気で驚いたものだった。穏やかで優しげな来栖さんが、社交的に見えて実は人知りをする崎谷さんを、だなんて、想像がつかなったからだ。けれど今なら、二人がとてもお似合いの恋人同士なのだと、素直に思える。
それならさっさと判を集めて、崎谷さんに会いに行く口実を来栖さんに作ってあげなくてはと、立ち上がった。
まるでそれに合わせたかのように社内に鳴り響くベルの音は、午前の就業時間の終了を告げるもので。つまり、今から昼休みだという事だ。
「あー、ごめんなさい、来栖さん。間に合わなかったみたいです」
「いやいや。昼の約束をしているから、できれば午後からの方がありがたいですよ」
どうやら二人で一緒にお昼を過ごすらしい。相変わらず仲が良くて微笑ましい限りだけれど、これでどうして周囲があまり気付いていないのかが不思議だ。でもそれはきっと、誰にでも合わせる事ができる崎谷さんの人徳なんだろう。わたしにはとても真似はできないけれど。
年配の人はもちろん同世代の男性も苦手なわたしにとっては、崎谷さんの気さくさがとてもうらやましい。そうであるべきだと分かってはいるけれど、わたしが緊張せずに話せる男性など、家族である父と弟を除けばほとんど皆無に近いのが現状だ。これもきっと、昔受けた理不尽なからかいの影響なのだろう。
「ふみさんは、お昼はお弁当?」
まだそこにいたらしい藤澤さんが、にっこりと笑顔をわたしに向けた。たぶん笑顔、なのだと思う。なにしろ目が細すぎて、表情が今一つ分かりにくいのだ。この人は。
「いいえ」
両親は共働きの自営業で、昼食は自宅で取る。六つ年上の姉は既にお嫁に行っているし、現在大学生の弟は学食で済ませる。わたし一人のためにお弁当を作る気にもなれないため、近所のお蕎麦屋さんや喫茶店に行く事もあれば、社屋のすぐそばの個人商店で何かを買って来て、他の女子社員達と一緒に会議室で食べる事もあった。
そんな感じで、特に何を食べようと決めているわけではないのだ。
「じゃあ、もしよかったら、一緒に外に出ない?」
いきなりそんな事を言いだした藤澤さんが、まるで見知らぬ生き物のように思えた。