立場をわきまえる、ということ
どういうことかと眉を寄せた晴信に、栄は晴れやかと言っていいほど明瞭に答えた。
「私の父は、紀和の佐々様と内通しております。私を帰せば、父は私を盟約の証として、佐々様の所へ送るでしょう。そうして霧衣に攻め入る算段をつけ、戦をしかけてくるつもりです。ですが私が帰らねば、父は証として出すに足る者を得る事が出来ません。佐々様は、霧衣を裏切ろうとしている父を信用しきれないでしょう」
ぽかんとする晴信の変わりに、克頼が答える。
「自分の立場を、よくわきまえておられる姫君だ」
栄は礼を言うように、克頼に微笑みかけた。
「ですから、迷惑と思わずに私を置いてくださいませ」
「栄姫殿の父君が紀和の佐々様と通じているという証拠は、おありでしょうか」
克頼が鋭く目を光らせる。それに臆する事なく、栄はきっぱり「いいえ」と答えた。
「決定的な証拠、と申すわけにはまいりませんが、父が紀和に民を送っているという事は、お調べになればわかるはず」
「お心当たりがあると?」
栄は悼むように目を伏せ、少し唇を迷わせてから声を出した。
「父が紀和に流した人々は、ひと所に集められ、紀和の民とは隔離されて生活をしております。新月の夜に抜けたい者を集め、紀和の者の手引きにより国越えをさせているのです」
その言葉が真実であるのか見定めようと、克頼は彼女の挙動に意識を集めた。
「父上の悪政に苦しむ者を、他国に逃がしているというのなら、栄殿の父君は心正しきお方ではないか」
「いいえ!」
穏やかな晴信の言葉を、栄は鋭く否定した。
「父は人買いと同じ事をしているのです。紀和に連れて行かれた者は、もともとの民と区別され、労働力として牛や馬のように扱われているのです」
悲壮に声を高めた栄が、唇を噛み両手で顔を覆った。
「申しわけございません」
指の隙間から漏れた苦しげな栄の声に、晴信も克頼も呑まれた。
栄は深い呼吸を繰り返し、気を落ち着かせた。顔に当てていた手を床に着き、頭を下げる。
「ですから……どうか、私をこちらに残してくださいませ」
晴信はそれに、わかったと答えるしかなかった。
騎乗している晴信に、克頼が並んだ。
「晴信様」
呼んだ克頼は、そのまま晴信の前に出て馬の足を止める。行く手を遮られた晴信の馬が、足踏みをして鼻を鳴らし、止まった。
「どうした、克頼」
憮然とした克頼に、晴信はのんきな顔を向けた。
「先ほどの栄姫殿のお言葉、まるごと受け止められてはおられませんな」
何を言い出すのかと、晴信は目を丸くした。深々と息を吐いた克頼が、あきれたように首を振る。
「何だ、克頼」
「信用をなさいませんよう、ご注意ください」
「何故だ。克頼も褒めていただろう。自分の立場をよくわきまえている、と」
「立場をわきまえているというのは、褒めたわけではございません」
「しかし、自分がどういう意味を持つ存在なのかを、知っているというのはえらいじゃないか。俺は、何も知らずに過ごしていたからな……」
声を落とした晴信の唇が、苦い笑みを浮かべている。胸深くに息を吸った克頼は、周囲に目を配って晴信に顔を寄せた。
「だからこそ、信用をしてはならぬのです」