意外な申し出
「この度、霧衣の国主となった、竹井田晴信だ。顔を上げてくれないか」
顔を上げた栄は、じっと晴信を見た。真っ直ぐな視線に、晴信の頬が熱くなる。彼は同年の女性と面識を持った事が、ほとんど無かった。晴信のまわりにいるのは、乳母と母、彼の世話をする年嵩の侍女ばかり。それが、同じ年頃のとびきりの美少女と出会ったのだから、顔を赤くするのも無理のない事だった。
栄は晴信に向けている目の力をゆるめ、にこりとした。
「御用向きがどのような内容であるのか、伺っております。率直に申しますと、私を帰参させるのは、おやめになられたほうがよろしいかと存じます」
虚を衝かれ、晴信は克頼を見た。心というものをどこかに置いてきたような顔で、克頼が答えた。
「訪問の用向きを知らせておいたほうが、無用な心労をさせなくて済むと判断いたしました」
「そうか。……そうだな。俺がいきなり訪ねてくると言われれば、何用かと頭を巡らせ、不安をあおる事にもなりかねないからな」
言葉を発しながら納得する晴信に、栄は親しみのこもった息を漏らした。
「先代を追放した方と聞いておりましたので、どのような豪気な気風の殿方が来られるのかと思っておりましたが」
「姫様」
栄をたしなめた侍女の呼び方に、晴信は気を向けた。
「お前は、この方と共に来たのか」
侍女は答えず、這いつくばるように頭を下げた。
「それほど、かしこまらなくていい」
苦笑する晴信に、栄が答える。
「息子である晴信様に、こういう事を申しては何ですが。お父君である孝信様は、それはそれは恐ろしい方でした。この者は蹴り転ばされた事があるので、息子である貴方様をも怖がっているのです」
はっとした晴信が、床に額を擦りつけている侍女を見た。
「そうだったのか」
侍女へ膝を向け、声をかける。
「それは済まない事をした。申しわけない」
本気の謝罪が滲む晴信の声音に、侍女は勢いよく顔を上げた。こぼれおちんばかりに目を見開いて、晴信を見つめる。
「父上は茅野で隠居生活だ。もう、怯えなくていい」
侍女はポロリと涙をこぼし、唇を震わせて頭を下げた。栄は「蹴り転ばされた」と事も無げに言ったが、彼女はよほど酷い扱いをされたのだろうと察し、晴信は胸を痛めた。
「晴信様」
促すように克頼に呼ばれ、晴信は栄を見た。
「俺は、他の者たちが帰参をしているというのに、貴方だけを残すという事は出来ないと思っている」
「私のみは、残しておいたほうが良いと思います」
きっぱりと、栄は言い切った。
「何故だ」
「民のためです」
「民のため……?」