愛妾の館
「それでは、先代の愛妾が住まう館に、晴信様ご来訪の知らせを送ります」
目を丸くしている晴信に、克頼は意地の悪い目を向けた。
「村杉の人質は、村杉為則の娘、栄と申す女子にございます。――お会いになりますか」
晴信は男女の事に初心であるから、自由に外出が出来るようになっても、そちら方面には足を向けないようにしていた事を、克頼は知っていた。
ほんのりと目じりを染めた晴信が、怒ったように克頼から顔を背ける。
「これから伺うのは失礼だろうから、訪れるのは明日にする」
含みのある克頼の言葉に、拗ねた響きを返した晴信は、文の作成を再開した。克頼は一礼し、すぐさま手配を行うために場を辞した。
愛妾の館の、父が居室として使っていた部屋に通された晴信は、落ち着かない心地で栄が来るのを待っていた。傍らには克頼のみが控えている。館の気配が落ち着かないのは、帰る者たちが準備をしているからだ。そんな中に大人数で行っては迷惑だろうと、晴信は克頼のみを連れて現れたのだった。
克頼はもとより、そんな彼の性格を熟知している。孝信を恨むあまり、息子の晴信に危害を加えようとする者が出ないとも限らないと、宿老である父からの命として、ひそかに人を館に集めていた。
「落ち着きませんか」
余裕があるように見せようと努力をしていた晴信だが、克頼からすれば判りやすいほどに気ぜわしい空気を醸している。
「わかるか」
はにかむ晴信に、眉一つ動かさぬ澄まし顔で、克頼は「ええ」と答えた。
「克頼はごまかせないか」
「無理をしようとするから、見つけられてしまうのです。堂々と落ち着かない心地を示されればよろしいかと」
「堂々と落ち着かないというのは、不思議な言葉だな」
やわらかな息を漏らした晴信は、気持ちをほぐした。
「気負いすぎていたようだ。ありがとう、克頼」
「何もしておりませんが」
「俺が礼を言いたかったから、言っただけだ」
ゆったりとした心地で、晴信は栄を待てるようになった。
ほどなくして、準備に手間取り申しわけございませんと侍女が来た。
「色々と忙しい時に来てしまったのだから、仕方がない」
かしこまっていた侍女が、幾分かほっとした顔をして端に寄り、廊下に向かって頭を下げた。いよいよ対面かと背を伸ばした晴信は、入ってきた栄の姿に目を丸くし、ぽかんと口を開いた。
柿色の小袖に、木の葉模様を裾に散らした緑の袴姿で現れた栄は、晴信と同じ年頃と見えた。ゆるりと縛られた豊かな髪は、透けるように白い肌を、よりいっそう眩しく見せている。ぽってりとした唇は果実のように赤く、大きな瞳は猫のそれのように輝いている。
惚けた晴信の視線をさりげなく受け止め、栄は手を着き頭を下げた。
「村杉為則の娘、栄でございます」
鈴が鳴ったような、よく通る愛らしい声に我に返った晴信は、咳払いをして気を取り直した。