迷い
精鋭をそろえてきたこちらのほうが有利に見えるが、数でこられては疲労という名の、身の内から起こる手ごわい敵が出現し、じわじわと悩まされる事になる。晴信は目を配り、どうにか切り抜ける案は無いかと、めまぐるしく頭を動かした。
敵は馬に積まれている荷物に手を伸ばそうとはしない。あきらかに晴信らを狙ってきている。襲われるとしたら、里に差しかかる道幅の狭くなったこの場所だろうと、栄から事前に言われていた。警戒はしていたはずなのに、これほど多くの者が潜んでいた事を察知できなかったとは。
人を斬るなと言った命は、酷だったろうか。
斬れば必ず数が減る。打ち据えられ気絶した者もあるが、堪えて後方に下がった者は、礫を投げてきた。たいした攻撃ではないが、鬱陶しい。斬ってもかまわないと号令すれば、その攻撃だけでも防げるのではないか。
晴信は自分の思いを揺らがせた。
このままでは、自分を守る彼らの身が、取り返しのつかない事になるのではないか。
暗く冷たい汗が、晴信の心臓に滲んだ。歯を食いしばった晴信が口を開き、音を発しようとした、その時。
「控えよ!」
木々を震わせるほどの凛とした声が響いた。
誰もが声に目を向ける。
「私を村杉の里長、為則の娘と知っての事か」
人を従える事に慣れている声だった。手を止めた敵方に迷いが走る。
「人質としての務めを果たしての帰還である。控えよ。……安治、私の顔を忘れたのか」
名を呼ばれた男は恐縮し、腰を落として頭を下げた。
「他の者も、控えよ」
安治と呼ばれた男に続き、他の者たちも戸惑いながら膝を着き頭を下げた。
「やるじゃねぇの。お姫様」
楽しげに隼人が褒める。堂々とした栄の姿は、この上もなく美しかった。
「晴信様。里の者たちが無礼を働き、失礼致しました。どうぞ、ご存分に処罰なさいませ」
栄の言葉に、晴信方の者たちが膝を着き頭を垂れた。下知を待つ彼らの姿と、緊張を漲らせつつ微笑む栄に、晴信は目を細める。あと一歩遅ければどうなっていたかと冷や汗をかきつつ、晴れやかな声を彼らの頭上に広げた。
「村杉の里からの出迎えをありがたく思う。ここから先の道案内を、よろしく頼むぞ」
「かしこまってございます」
答えた安治が、晴信の器量を推し量るように目を上げた。少しでも意にそぐわない相手であれば、喉元を掻っ切るぞと告げる目だった。これが栄の言っていた、ひそやかに味方をしてくれている男かと、晴信は頼もしく安治の視線を受け止めた。
村杉の里では、為則が引きつった笑顔で晴信らを迎え、安治に厳しい目を向けた。栄と安治が結託している事は漏れていないらしいと、為則の様子から克頼は見て取った。それを晴信に目顔で示す。晴信も目の動きで了解したと克頼に告げ、為則の案内で佐々道明との対面の座に着いた。
道明の傍には左右それぞれ二人ずつ、合計四人の男が控えている。晴信の背後には、克頼、義元、信成、隼人が座った。村杉為則は双方の間を取り持つ役柄として、座の奥に着いた。
「この度は、我が父の不徳のために佐々様には大変なご迷惑をおかけいたしました事、お詫び申し上げます」
晴信が頭を下げると、壮年の落ち着きと旺盛な野心を併せ持った佐々道明が、鷹揚に頷いた。明らかに晴信を若輩者として軽んじている態度に、義孝が不快を滲ませる。それをチラリと見た道明は、晴信に顔を上げるよう言葉をかけた。
「何事も、ご自身の一存で政を行われていた父君が、何の予告も無く隠居なされては勝手が判らず、さぞ苦労をなさっておられる事でしょうな」
孝信の追放は、外交的には隠居として広めてある。だが、内実を隠しおおせるものではない。道明はわざと、皮肉めいた声音を使った。座にいる晴信側の誰かが短気を起こせば、これ幸いと晴信を亡き者にするつもりなのだろう。
「父の頃より仕えている者たちが支えてくれてはおりますが、色々と思い悩む事もございます。佐々様には、色々とご指導のほどを賜る事が出来ればと存じております」
道明の言葉の中にある棘を、晴信はふわりと包みこんで手を打ち鳴らした。三方を捧げ持った者が現れ、晴信と道明の間に置いて一礼をし、去っていく。三方の上には、瑠璃の山と目録が乗っていた。
「民をお預かりいただきましたお礼にと、ご用意させていただきました。つまらぬ物ですが、お受け取りください」
道明の傍に控えていた者がにじり寄り、目録を手にして道明に渡す。それを広げて目を走らせた道明は、不快も満足も見せずに頷いた。
「ありがたく頂戴いたそう」




