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霧衣物語  作者: 水戸けい
36/42

中段

「ですが近頃は、晴信様のお心が国主である事を受け入れ、民を導こうとなされているように見受けられます。これも、人の行う記憶の反芻はんすうが、晴信様のお気持ちに覚悟というものを与えたからと、この頼継、大変喜ばしく存じております」


 記憶の反芻、と晴信は口の中でつぶやく。そういえば近頃、寝る前に色々な事を思い出し、あれはどういう意味だったのか、どういう意図だったのかなどと、深く考える事が多くなった。それが自分の覚悟を育てたというのだろうか。


 そうかもしれないと、晴信は目を閉じる。脳裏に、父を追放すると決まった時から今までの、様々な事が渦巻いていた。それら一つ一つが、国主という立場への意識を築く礎となっている。


「晴信様のそれは、良い方に作用したのでしょう。先ほど申しましたように、記憶の反芻は哀しみや羨み、怒りなどというものを生み出す事もございます」


「俺は、何か不手際をしたのか」


「さにあらず。――先ほど、私は息子が重用されるのを、父としてうれしい限りと申しました。これを、晴信様はどうお考えになられますか」


「どう……」


 晴信は妙な顔をして頼継を見た。彼の顔に書いてあるものを読み解こうと、体中の意識を向ける。頼継の姿に克頼の顔が透けて見えた気がして、晴信はまたたいた。


「何か、お気づきになられましたか」


「克頼は、とても頼りがいのある相手だ。今回の策も克頼の提案。そして栄殿の報告が無ければ、浮かばなかったものだ。隼人の存在も助けになっている。隼人がいなければ、里の巡察は思うように行かなかっただろう。それが、今回の策の下地になった」


 考えながら喋る晴信を導くように、頼継は包む瞳で彼を見ていた。


「俺は、克頼ひとりを重用しているつもりでは……」


「つもりは無くとも、周りがどう受け止めるかを、お考え下さい」


「周りが?」


 頼継が静かに頷く。晴信は口に手を当て、視線を落とした。頼継は何を気付かせようとしているのだろう。


 晴信は馬を下りてからの頼継の言葉を探った。その中に手がかりがあるはずだ。


 一人を重用するのは良くないと頼継は言った。晴信は克頼のみを重用しているわけではない。隼人を巡察の使者として使っている事は、誰もが知っている。栄がひそかに文を見せてくれた事は、克頼と頼継、隼人と義元、そして兵部の五人にしか話をしていない。


 ん、と晴信はひっかかった。


 今、自分は頭の中で何と言った?


「あ」


 気付いたらしい晴信に、頼継が頷く。発見に驚く晴信に、どうなされますかと頼継が声をかけた。


「どうもこうも……。そうか、そういう事か」


 隼人は民の代表として、晴信に仕えている。霧衣の臣下の中で晴信が相談し頼るのは、克頼ばかりだった。傍若無人な父が乱していた国を支えてきた者がいる。その者に、自分は一度でも相談をしただろうか。無知な部分を補って欲しいとは頼んだ。だが、考えを練りまとめ、行動を起こすとき傍に置いていたのは、克頼ただ一人。他の者には決定事項を告げるばかりだった。今回の策も彼らからすれば、克頼の意見を重用し実行するため、その父を利用して宿老に結果を告げたと思われる可能性がある。


 義元や兵部も人の子であり、人の父だ。


「村杉の里は遠い。そして危険だ。若く腕の立つ者を連れて行こうと思う」


 頼継が褒めるように目を細めた。


「義元の息子、義孝は父に似て勇猛。兵部の息子、信成は槍の遣い手とか」


「では、その二人を是非にと言おう」


 成り行きを聞いていたのか、晴れやかな晴信の声に呼応するように、馬がブルルと満足そうに鼻を鳴らした。



 女駕籠の用意に、晴信は首を傾げた。栄とその侍女である茜が乗るのだろうが、栄は馬を巧みに操る。茜も馬に乗れると聞いているので、狭い駕籠に押し込められるよりも、騎乗のほうが楽なのではと思いつつ、何か理由があるのだろうと、晴信は彼女が出てくるのを待った。村杉の里に向かう一行の前に、美しく着飾った栄が現れ、どよめきが起こる。


 栄はいつもの落ち着いた色合いの小袖と袴ではなく、若葉の小袖に見事な刺繍のほどこされた打掛うちかけを羽織っていた。艶やかな黒髪を肩に零して、栄が頭を下げる。つられるように頭を下げる者が出た。栄は粛々と女駕籠に乗り、茜が続いた。着飾った栄の美しさに見惚れていない者は、克頼だけであった。


「栄姫殿がお乗りになられた。行くぞ」


 いささかも興味を示さぬ克頼の様子に、ひそひそとしたささやきが飛ぶ。あれほど美しい姫を見ても無反応なのは、人とは違った美意識を持っているからだ。幾度も晴信様と共に対面をなされているので、見慣れてしまったのだろう。克頼様はご自身が美麗であるから、あの姫の美しさなど歯牙にもかけぬのではないか。


 などという声が聞こえていないはずは無いのに、克頼は眉一つ動かさず、村杉の里へ向かう一行を指揮していた。先導は隼人。彼もいつものような軽装ではなく、きちんとした身なりをしていた。

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