父の落とした影
すっかり栄を信じ切っているらしい晴信に、克頼はもやもやとした気持ちを抱えつつ、栄やその周辺の監視役の事を頭に浮かべた。妙な動きをすれば、取り押さえるよう言ってある。晴信の素直さを活かすべきかと、これ以上の小言は止めにした。
里にさしかかる道に、やせこけた若者がいた。彼は晴信らの姿を見つけると、大きく手を振りながら「いらしたぞぉ」と叫んで里に走った。
「晴信様」
克頼は警戒を滲ませ、馬を下りずに進む事を晴信に勧めた。晴信は渋々ながら了承し、騎乗のまま里の入り口に向かった。
少し進むと、わっと人が現れ、馬の前に膝を着いた。
「ようこそ、お越しくださいました。ささ、どうぞこちらへ」
さあさあと里の者たちに促され、二人は緊張を漲らせて馬を下りた。里長の屋敷へ案内されると、熊の毛皮の敷物を勧められた。
「新しくお館様となられた晴信様が直々に来られると聞き、至らぬ点は多々ありましょうが、酒食の用意をさせていただきました。私、里長を勤めさせていただいております、久谷弥次郎と申します」
床に額を擦りつけた弥次郎に続き、他の者たちも同じように頭を下げる。晴信は歓迎の気配が妙である事に気づき、克頼に目を向けた。克頼は何を考えているのか判らない、能面のような顔をして控えている。
「早く料理をこちらへ」
合図と共に、粗末ながらもキレイに着飾った若い娘が数人、料理を捧げて現れた。
「朝から山に入り、仕留めたキジでございます」
出された料理は、とても食べきれるような量では無かった。
「酒も、上等のものとは言えませんが、用意をさせていただいておりますので、どうぞお召し上がりください」
娘たちの中でも、一番愛らしい顔立ちをしている者が、晴信に酒を注ごうと傍に控える。
「いや。俺は、酒を飲まないんだ」
「さようでございましたか。それは失礼をいたしました。それでは代わりに、ヨモギ茶をお出し致しましょう」
早くしないかと弥次郎が言えば、人が慌てて立っていく。
「いやはや、申し分ございませんでした」
晴信は、なめした皮のような色をしている弥次郎の顔に、媚びを見つけた。その目を他の者に向けると、怯えが映った。これは何だ、と晴信の心中が寒くなった。これが“歓迎のもてなし”と言えるのかと、彼らの笑顔の奥にある恐怖を見つめた。
「お口に合うかどうかは、わかりませんが」
ヨモギ茶が運ばれ、若い娘がそれを受け取った。晴信の横に座り、それを勧める娘の笑みが、強張っている。恐怖を必死に抑えようとしている娘の顔に、晴信は肌身から骨へと寒気が浸みるのを感じ、立ち上がった。小さな悲鳴とどよめきが起こる。
「申しわけございません」
すかさず、娘が手を着いて謝った。小さな肩が震えている。これは何だと頭の中で繰り返す晴信の体は、肝の芯まで冷え切った。
「ええい、何をした!」
弥次郎が大股で娘に近付き、拳を振り上げた。それを克頼が止める。
「ひっ」
克頼が手を離すと、弥次郎は青ざめた顔で後じさり、申しわけございませんと繰り返した。
晴信は、ゆっくりと座を見回した。誰もが怯え、震えている。彼らが見ているものは晴信ではなく、彼の背後にある先代国主の姿だった。父が今まで行った事が、彼らを卑屈にさせている。
「俺は、父上ではない」
ぽつりと晴信が言った。怯えている者たちは、それが聞こえなかったらしい。ただただ許しを乞うて、震えている。晴信の声を聞いたのは、克頼だけだった。
晴信は克頼を見た。克頼は何も言わず、ただ控えている。自分でなんとかしろという事かと、晴信は気を静めるために深呼吸をし、膝を着いて震える娘の肩に手を置いた。
「ひっ」
鋭い悲鳴を上げて跳ねた娘は、音が聞こえそうなほど激しく身を震わせた。
「何もしていないというのに、何故謝る」
晴信の声は悲哀に満ちていた。娘の顔を上げさせれば、血の気が失せている。怯えに潤んだ瞳に、晴信は笑いかけた。
「名は、なんと言う」
唇を震わせる娘の喉は、ヒュウヒュウという音しか漏らさなかった。恐怖のあまり声が出せないらしい。娘の姿を通して、父の業がどれほど深いのかを見つめた晴信は、音が鳴るほど奥歯を噛んだ。




