霧衣の国主
「晴信様」
気遣いの色を含む声に、竹井田晴信は文に向けていた目を上げた。彼の横に控えている牟鍋克頼が、厳しい目の中に案じる色を浮かべている。目鼻の筋がすっきりとした彼の、整い過ぎているがゆえに酷薄を思わせる顔に労わりを見つけた晴信は、苦々しく結んでいた唇をほころばせた。
「これで、父上の命も民の安寧も、保たれるのだろう?」
力なく微笑んだ晴信の大きな瞳が、キラリと揺れる。痛みを堪える晴信を力づけるように、克頼は頷いた。
「このまま、お父君のなさりようを放置していては、この霧衣の国は自滅してしまいます。思い余った者が、暗殺を企てぬともかぎりません。他国追放の事、最良の策であったと存じております」
「わかっている。……わかってはいるが、父上が憐れだ」
晴信は目元を曇らせ、文に目をもどした。それは姉の嫁ぎ先である茅野の国主、今村元直からだった。義父の孝信を手はずどおり軟禁できたので、安心するようにと書いてある。
「娘婿の所でお暮らしになるのですから、多少の不自由はあっても命を狙われるより、よろしいかと」
唇を噛みしめて、晴信は目を閉じた。まだ幼さの残る横顔を、克頼はまっすぐに見つめる。元服し、屋敷の外に馬を走らせるようになった晴信に、民が孝信の非道を訴えた。父、孝信の気性の荒さを、晴信は知っていた。だが、機嫌を損ねたという理由で、相手を無造作に斬り伏せているとは、思ってもみなかった。たまたま行く手を遮る形となった幼子を殺し、若く美しい母親を、誘拐まがいに愛妾の館に連れ帰ったと聞いて、愕然とした。そういう女が数多く、愛妾となっていると訴えられて目の前が暗くなった。
「仕方が無かった」
晴信はうめくように漏らした。文を握る手が震えている。
「父上の命を救い、民を守るためには、俺が国主になるしか無かった」
愛妾の館は、晴信やその母が暮らしている蘇芳の館から、馬で一刻ほど行った先にある。離れているので、晴信は愛妾の館がどういったものかを知らなかった。
「俺は、何も知らなすぎた」
「晴信様」
「もっと早く知っていれば、父上を止めることができたかもしれない」
克頼は、そっと晴信の肩に手を置いた。たとえ晴信が知っていたとしても、孝信を止める事は出来なかっただろう。だが、そうは言えなかった。重臣たちでさえ諌めることのできなかったものを、元服前の世情を知らぬ子どもが、なんとかできようはずもない。それは晴信もわかっている。それでもなお、父を追放したという行為を悔しくも情けなく感じている。その気持ちが、幼き頃より共に育った克頼に痛いほど伝わっていた。