婚約破棄された御令嬢をいただきます
雪が舞い散る寒空の下で銀髪が良く似合う可憐な少女が声を張り上げる。
「違う!私はそんな事してない!」
深紅の瞳を涙で潤ませるが、それを決して流さないように堪えている姿は実に痛々しい。
彼女の名前はアリス・クラウディア。
公爵家の令嬢であり、第一王子の婚約者でもある。
しかし、もうすぐ婚約は破棄される。
大勢の人に取り囲まれ、冷めた目を向けられているアリスを遠く離れた所から眺めている男がいる。
男の名前はレイン・ハイランド。
平民上がりの騎士爵で、こうなる事を始めから知っていた転生者だ。
レインとして生まれる前の彼はどこにでもいる普通の会社員だった。
しかし彼女とのデートを楽しんでいたある日、居眠り運転の車が歩道を歩く二人へと突っ込んできたのだ。その時咄嗟に彼女をかばったのだが、自分が死んでしまった為にどうなったかは分からない。結婚したいと初めて思った相手だった。生きていて欲しいと思う。だけど同時に他の誰かと結婚してしまうと思うと悲しかった。
しかし今更である。転生して違う人間になってしまった以上どうしようもない。
そうやって割り切って新たな人生を歩み始めたレインが一目惚れした相手がアリスだった。
その日もいつものように剣を振るい、自主訓練を行っていた。
たまたま強い風が吹き、それに呼応するように可愛らしい女性の声が聞こえた。声に反応して動きを止めれば、風に乗って帽子が飛ばされてきた。
レインは帽子を捕まえて、女性の元へとそれを届けた。
ただそれだけの事だった。
だけど……。
「ありがとう」
そう言って微笑む彼女の笑顔にレインの心臓は大きく跳ねたのだった。
それが恋だと気付くのに時間はかからなかった。
しかし同時にレインは気づいてしまう。
アリスが近い将来、ヒロインに嵌められて婚約を破棄されてしまう事を。
ここは転生する前の世界で妹がハマっていたゲームの世界だったのだ。
そのストーリーは平民上がりの少女が様々な手を使って王子の婚約者を嵌める。かなり陰湿な手段でもって婚約者であるアリスを陥れて、自分が婚約者に成り代わる。そんな最低なストーリーだった。
プレイヤーである妹は主人公の少女を操作してアリスを苛めて楽しんでいた。転生前は妹の話を聞いても何とも思わなかったが、それが現実になってしまうと話が違ってくる。
当初レインはアリスを助けようと思った。
しかし、どうしてもアリスと結ばれたかった。
そんな時、身分の低い彼がアリスに近づく為のストーリーが目の前に用意されていたのだ。
レインは最低だと気付きながらも、自分の為に彼女を傷つける道を選んだ。
衆人の前でありもしない罪を着せられて婚約を破棄されたアリス。
彼女はその場からフラフラと立ち去り、人気のない路地裏で泣き崩れた。それは彼女なりのせめてもの抵抗だったのだろう。アリスは決して衆人の前で涙を流す事はなかったのだ。
そんなアリスにレインは近づき、そっと上着をかけてあげた。
ビクリとアリスの肩が震えた。
ゆっくりと振り返ったアリスは酷く怯えた目をしていた。
そして二人の関係は始まった。
どん底まで落とされ、独りぼっちになってしまった少女を口説くのはレインが思っていた以上に簡単だった。
元から多少の交流があったとは言え、二人の関係は挨拶を交わす程度だったのだ。
それがたったの数週間で色んな事が変わった。
婚約を破棄されたアリスは家を追い出され、行く場所を失った。
そんな時、レインは優しく声をかけ彼女に居場所を提供した。誰も彼女を信じない中でレインだけが彼女を信じて、傍に居続けたのだ。
アリスが心を許すのに時間はかからなかった。
しかしレインはずっとアリスに対して罪悪感を感じていた。そのせいでいつまで経っても気持ちを告げる事が出来ないでいたのだ。
だからと言ってこのままではいられない。
自分で蒔いた種なのだ。しっかりと責任を取る必要がある。
やっとの事でレインは決意をした。
「アリス、君を愛してる」
婚約破棄からすでに一年が過ぎていた。
ずっとアリスを支え続けてきたレインがようやく口にしたその言葉に彼女は涙を流して喜んだ。
その日、初めてレインはアリスを抱きしめた。
綺麗な青空の下を一台の馬車が進んで行く。
馬車には御者を務めるレインとその隣に座って楽しそうに笑うアリスが乗っている。
街を出る時にレインはこっそりとアリスが嵌められた証拠をいろんな所に届けておいた。今頃はきっと騒ぎになっているだろう。今さら償いをしようと思った訳ではない。
ただ恋人の悪評を取り払いたかっただけだ。
レインは真面目な顔をしてアリスを見た。
「実はアリスに謝らなければいけない事があるんだ」
レインのその言葉にアリスから笑顔が消え、沈黙が流れる。
「なに?」
「俺はアリスが嵌められる事を知っていたんだ」
「そっか」
アリスが軽く流したせいで張り詰めた空気は一気に霧散した。
「驚かないのか?」
「うん。だって気付いてたから。なお君なんでしょ?」
レインはその名前を久しぶりに聞いた。
少しだけ驚いた顔をした後で彼は頬を緩めた。
「そうだよ。久しぶりってゆうのも変かな?さちはいつから気づいてたんだ?」
「秘密」
僅かに頬を染めた少女は恥ずかしさを誤魔化そうと空を見上げた。
初めて抱きしめられた時に気付いたなんて言える訳がなかったから。
前世の恋人だと知らずに、同じ相手を大好きになってしまったなんて絶対に言えなかった。
「なお君はいつ気付いたの?」
「俺も秘密」
余裕の表情で笑って見せる彼も内心では悶絶していた。
初めて抱きしめた時に気付いたなんて言える訳がなかったから。
前世の恋人だと知らずに、一目惚れしてしまったなんて絶対に言えなかった。
似た者同士の二人を乗せて馬車は進んで行く。
作られた物語ではない本物の人生を歩む為に。