いつもの日々
あの電話が来るまでは、いつも通りだったのに……
バイトの時間が終わり休憩室に顔を出せば、そこには二十人は座れそうなテーブルに数名屍のように凭れ掛かっている群れがいた。
爽やかな水色のシャツと紺色のズボンを纏っている彼らは、ここ――地元のファミリーレストラン・ナカノで働くバイトや社員のみんな。
つい先ほど土曜のランチというピークを乗り越え、やっと交代を終えたので、みんなぐったりとしているのだ。
ここは大きなチェーン展開しているような店ではなく、個人が経営している小さなもの。それでも、オフィス街や住宅地が近いという立地条件のため、結構平日でも人が入る。それが休日ならなおの事。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です。後、俺達これで上がりなので帰りますね」
私と隣にいる赤城くんがみんなに告げると、声も出せないぐらいに疲労しているらしくただ片手を上げ左右に振っている。
かと思えば、そのままばたんと机に音を立てて倒れ込む。
私と赤城くんはそんなみんなに見送られながら休憩室を出て、廊下にあるタイムカードを押すと裏口へと向かう。
扉に手を伸ばしかけると、それよりも早く赤城くんが開けてくれた。
隙間から流れ込んでくる湿気を帯びた風に、もう一度中へと戻りたくなった。
「暑いな」
「うん。今日、34度だって」
「暑すぎだろ……」
うんざりとした赤城くんの、清潔感を感じる短めに切りそろえられた黒檀のような髪が風に揺らめく。くっきりとした瞳で見つめる先は、コンクリートに浮かぶ蜃気楼。
「あぁいうのを見ると余計気温高く感じるよな」
「そうだよね。あと、蝉の声とか」
そんな何気ない会話も二年目。
赤城くんとはここでバイト採用された時からの同期。
大学は別だけれども、同じ年の二十歳で大学二年生。
彼の口からは聞いた事はないが、誰もが知っている大学の経済学部で学んでいる。
……というのを聞いた。
赤城くんはモテるため、色々と噂は耳に入ってきてしまうので、必然的にどんどん情報を収集してしまう。彼目的のお客さんもいるらしく、シフトが入ると売り上げが倍増! って、オーナーが目を輝かせている。
そんな彼とは、たまたま同じ方向にアパートがあるため殆ど一緒に帰る仲だ。
いつもの通り、赤城君が自転車を押す横を私は並んで歩いていく。
この関係が居心地よく、私は好き。
私なんかではきっとバイト仲間から進展はないから、このままでいい。
「なぁ、光莉。今日、時間あるか?」
「え?」
「もし良かったら、どこかで時間潰して夕食一緒に食べないか?」
突然の誘いに、思わず足が止まってしまう。
まるで影が縫い付けられたかのように動けない。
遠くで電車のガタンガタンという音が聞こえ、掌にじわりと汗が滲み出たのを感じた。
二年近く一緒に帰っているけど一緒に遊んだ事もないし、こんな風に誘われたのも初めて。そのため、なんだか妙な緊張感が私を包む。
「もしかして用事ある?」
「ううん。その……スーパーのタイムサービス行こうって思っていて……今日、豚肉が安くて……あっ、そうだ。うちで夕食とらない?」
「それはちょっと」
苦笑いをした赤城くんを見て、私は肩を落とす。
あまり親しくもないのに、手作りは避けるべきだった。
「そうだよね、ごめん。手作りはあれだよね……」
「違う。そうじゃない。無暗に一人暮らしなのに男を上げるのとか駄目だろ」
「それはそうだけど、知らない人じゃなくて赤城くんだし。赤城くんの周りには綺麗な人いっぱい集まるから、だから大丈夫」
「光莉。あのさ、俺……――」
そう言いながら赤城くんが手を伸ばして私の頬へと触れてくる。
包み込むように肌に触れているそれが、五感を研ぎ澄まされているせいで、やたら存在を大きく誇張している。
誰かにぶつかったり、触れたりしたけれども、こんな風に感じる事はなかったのに。
きっとこれは赤城くんだからだろうか。
それが妙に生々しく思ってしまい、私の顔に血液が集中し始めてしまう。
「あっ、あの……」
「俺さ、光莉の事……――」
その時、空気を切り裂くように『ピピピピピッ』という電子音が、私と赤城くんの間に響き渡った。それはスマホの着信音。買った時からずっと初期設定にしているため、無機質な音色だ。
雷鳴のように強くけたたましくなるそれに、私は眉を顰める。
あまり電話がかかってくる事なんて無い。電話等が多いのに……
「誰だろう……?」
小首を傾げつつ、鞄からスマホを取り出してディスプレイを見れば、叔父という表示が目に入ってきた。
そのため、お腹に鉛でも沈んでいるかのように重くなる。
家を出てからずっと連絡なんて無かったはず。
出来ることならば出たくはないが、そうはいかないだろう。
嫌な予感が支配するけれども、私は赤城くんへと顔を向けた。
「ごめん、出ていい?」
「あぁ、どうぞ」
私は画面をタップすると、それを耳にあてる。
「もしもし」
「今すぐ屋敷に来い」
「え? どういう……」
私の返事は一切聞かないとばかりに用件だけ早口に告げ、電話は切れた。
――どうして今更?
一度もなかった電話。それが酷く恐ろしい。
まるでナイフを向けられているかのように、背筋を冷たいものが過った。
顔を見たいなんて理由じゃない。それは分かっている。
「ごめん、叔父が屋敷に来いって……食事、折角誘ってくれたのに……本当にごめんなさい」
初めて誘ってくれたのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。
食事残念……折角誘ってもらえたのに……
項垂れていると、ぽんと頭に何か温かなものがのった。
「また今度誘うから」
「いいの?」
「あぁ。叔父さんの家って、たしか三駅先だったか? 駅まで送るよ」
「だって、赤城くんの家と反対方向だよ?」
「構わない。俺が光莉と一緒にいたいだけだから」
そう言うと赤城くんは、つい先ほどまで向かっていた場所とは反対側へと、体を向け進んでいく。
「行こう」
慌ててその後を追うように、私も足を踏み出した。
+
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――あそこまでは幸せだったのに。
ベッドからゆっくり体を起こしながら、顔を上げ室内を見回す。見覚えのあるクリーム色のカーテンに照明。掃除はあまり定期的にしてないようで、少し埃っぽいけれども、以前私が使わせて貰っていた部屋のようだ。
使っていなそうな布それから家具などが無造作に置かれており、なんだか物置のようになっている。
「脱出……」
そう呟きを漏らしたが、足首を動かすたびにカシャンという耳障りな金属音のせいで、逃げることがなかなか難しい状況だ。
それもそうだろう。5000万円と引き換えに融資なのだから。
本気で逃がすつもりはないのだろう。
とにかく、逃げなければならない。
婚姻届を書いた覚えはないが、勝手に出されていたら大問題だ。