雨の音の世界
子供は雨の中を歩いていた。雨傘を差して。
はじめ小ぶりだった雨は、徐々にその力を増していき、次第に強く雨傘を打ち始めた。雨音が強くなる。
どうしてこんな雨の日に、外を歩いているのだっけ?
子供はそう思う。
そうだ。お母さんと喧嘩をしたんだ。それで、雨が降っているのに外に飛び出して、行く当てもなく歩き続けていたんだ。
いつもは見慣れた光景も、強い雨の中で見るとまるで別世界のように思えた。強い雨が、日常の世界を押し流してしまったのかもしれない。その中で子供は思う。
どうして、お母さんはぼくを迎えに来てくれないのだろう? 雨がこんなに強く降っているのに。
寂しく思うし悔しくも感じる。
きっと、お母さんは本当にぼくが嫌いなんだ。
そう思った時に、声が聞こえた。
“酷い、お母さんだね。
こんな所に、自分の子供を独りぼっちにしておくなんて”
雨音。
雨は更に強くなっていて、激しい雨音がその世界を埋め尽くしていた。しかし、にも拘らず、その声ははっきりと子供の耳に聞こえた。
「いじわるなお母さんなんだ」
子供は声に向けてそう返す。それから、周囲を見回して声の主を探した。激しい雨で霞がかかり、視界は明瞭ではない。だが、すぐ横に大きな何かがいるのに気が付いた。それが何なのか子供は見ようと思ったが、少しでも傘を傾けると、雨が激しく降りかかり、それが何なのかは確認できなかった。
“身体が冷えているだろう。
ぼうや。
どうだい、おじさんの家に来ないか”
声はそう続けた。
“温めてあげるよ”
子供は少し迷ったが、隣にいる大きな何かがその声の主なのだと判断すると、「うん、ありがとう」と、応える。しかし、子供はそれから困惑した。雨が激しすぎて、もうここが何処なのかも分からなくなっていたからだ。
「駄目だよ、おじさん。雨が強すぎて進めない。道が分からないんだ」
子供がそう言うと、傘の中にぬっと大きな手が入ってきた。大きな、だけどとても白い奇妙な手。
大きな手は、そのまま子供の手を握ってきた。
とても冷たかった。
“大丈夫だよ。こうして、手を引いてあげるから。
おじさんの歩く方に一緒に進むんだ”
子供はそれに口を結んだまま頷いた。無言であったにも拘らず、その何かはそれを受けると進み始めた。
“足元には気を付けるんだよ”
と、子供を気遣いながら。
子供はそんな中で思う。この人は一体、誰なのだろう? 子供がそう思うと、こう声が聞こえてきた。雨音に掻き消されない不思議な声。
“おじさんは、ずっと独りでいたんだよ。それで寂しかったんだ。だから、君が一緒にいてくれると、とても嬉しいんだ”
「どうして、一人でいるの?」
“おじさんの声は、こんな雨の日じゃないと聞こえないんだよ。やっと君が、おじさんの声を聞いてくれたんだ”
それを聞いて、子供は自分の母親を思い出した。母親も自分がいなくては独りぼっちだと。
その時に異質な声が聞こえた。
自分を呼ぶ声。
雨音に掻き消されて、微かにしか聞こえては来なかったが、それは間違いなく母親の声だった。
お母さんだ!
子供は喜ぶと、大声でこう言った。
「おじさん、ごめん。お母さんが、迎えに来たみたいだからさ!」
無理矢理に、手を振り解く。
すると、
「もう、何をやっているの、あなたは! こんな危ない所で!」
その瞬間に母親の怒鳴り声が聞こえた。雨は確かに激しかったが、声を掻き消す程ではなかった。そして目の前には、雨により増水し、氾濫した川があった。
子供は目を丸くする。
覗き込んだ川の中には、真っ白く大きなおじさんが立ち尽くしていた。
“おじさんは、寂しかったんだ。ただ、ただ、寂しかったんだ”
その時、子供にはおじさんの声がそう聞こえた。あと一歩踏み出していれば、子供は川に落ちているところだった。