第四章 来訪
新宿三丁目。
雑居ビルの四階にある小さな看板。
“田所探偵事務所”
昼下がりの事務所には、静かな空気が流れていた。
パソコンのキーボードを叩く音と、窓の外から聞こえる街のざわめき。
その時、デスクの上のスマートフォンが鳴った。
夏野和泉は手を止め、通話ボタンを押す。
「はい、夏野です」
電話の向こうで何かが話される。
「はい……はい……」
夏野の表情が少し変わる。
「ちょっと待ってくださいね」
通話を保留にし、奥のデスクに向かって声をかけた。
「先生、古い知人が訪ねて来てるんですが、少し出てきてもいいですか?ここに呼んで良いならここでも良いんですけど……」
デスクに座っていた田所雄三が顔を上げる。
「男? 女?」
「男性ですけど」
その答えを聞くと、田所は椅子の背もたれにもたれた。
「じゃあここに呼んで。俺が見極めてやる」
夏野は苦笑する。
「妬いてるんですか?そういうんじゃないですよ」
「別に妬いてるわけじゃない」
夏野は呆れたように肩をすくめ、電話を再び耳に当てる。
「もしよかったら事務所まで来てください」
電話を切り、椅子に座り直した。
十分ほどして、事務所のドアがノックされた。
「どうぞ」
扉が開き、一人の男が入ってきた。
「失礼します……」
少し緊張した様子の男。
落ち着いた服装。
真面目そうな雰囲気。
夏野はすぐに立ち上がった。
「奥田さん、お久しぶりです」
男はほっとしたように笑った。
「お久しぶりです」
「こちらへどうぞ」
応接セットのソファーを指し示す。
「そちらに掛けてください。今コーヒーを入れますね」
奥田と呼ばれた男は軽く会釈し、ソファーに腰を下ろした。
夏野は奥のカウンターでコーヒーを用意する。
湯気の立つカップをトレーに乗せて戻ってくると、まず奥田の前に置いた。
「どうぞ」
そして向かいの席に自分の分を置き、最後に奥のデスクへ向かった。
「はい、ついでに先生にも入れましたよ」
田所の前にカップを置く。
田所は眉を上げた。
「ついでとは酷いな」
「感謝してください」
夏野はさらりと言う。
そして改めて二人を見た。
「紹介しますね」
和弘の方を向く。
「こちらは、私がOLだった頃にお世話になった奥田和弘さんです」
和弘は軽く頭を下げた。
「急にお邪魔してすみません」
次に田所を見る。
「こちらは私の上司で、この事務所の所長の田所雄三さんです」
田所は椅子に座ったまま軽く頷く。
「よろしく」
和弘は少し緊張した様子で頭を下げた。
「よろしくお願いします」
夏野は奥田の向かいに腰を下ろす。
すると奥田が紙袋を差し出した。
「これ、この前伊豆に旅行に行ったんで……お土産です」
夏野は少し驚いた顔をする。
「ありがとうございます」
袋を横に置き、改めて奥田を見た。
「それで今日はどうされたんですか?」
和弘は少し迷うようにカップを持った。
コーヒーを一口飲む。
それから静かに言った。
「実は……再婚しようと思ってるんです」
夏野の顔がぱっと明るくなる。
「あら、いいじゃないですか」
「おめでとうございます」
「お相手は?」
和弘は少し言いにくそうに笑った。
「それが……別れた妻と、よりを戻そうと思ってまして」
夏野は目を瞬いた。
「え?」
「でも奥様とは、離婚の時かなり揉めてましたよね?」
「そうなんですけどね……」
和弘は困ったように笑う。
「それで、女性の気持ちっていうのがよく分からなくて、女性の意見を聞いてみようと思って」
夏野は苦笑した。
「未婚の私に聞かれても、参考になるような話ができるかどうか……」
「他に女性の知り合いもいないので」
「まぁ……私でよければ」
和弘は少し考えるように視線を落とす。
そしてゆっくり口を開いた。
「最近になって、娘に会いたいと由利奈の方から連絡が来たんです」
夏野は頷く。
「それで、この前うちに泊まっていったんです」
「娘も実の母親との時間を楽しんでいたみたいで」
和弘は少し遠くを見るような目をした。
「やっぱり、娘にも母親が必要なのかなって思って……」
夏野はふと聞いた。
「家って、最近建てたばかりの?」
「はい」
その瞬間。
奥の席に座っていた田所の目が変わった。
さっきまでの気の抜けた表情が、すっと消える。
田所はゆっくりと体を起こした。
「その話」
低い声。
「詳しく聞かせてもらえませんか?」
和弘は少し驚いた顔をする。
「え?」
「はぁ……」
「詳しくと言っても、どこから話せばいいか……」
田所は迷いなく言った。
「最初から」
短い沈黙。
奥田は少しだけ息を吐いた。
「……分かりました」
そしてゆっくりと語り始めた。




