第3章 孤独と温もり ①
夏実はいつものように昼過ぎに目を覚ました。
目が覚めた時がいちばん憂鬱だと夏実は思う。一日の始まりなのに、まるでこの世界の終わりを迎えたかのような絶望感。それを夏実は目覚めとともに繰り返すのだった。
いつからこうなったのだろうと夏実は思う。いつから始まったのか思い出せないくらい、ずっと昔からそうだったような気がする。
絶望とともに目覚め、憂鬱とともに眠る。それが夏実の変わらない一日だった。
夏実は布団から起き上がろうとする。でも体を自由に動かすことができない。体を起き上がらせるための気力すら湧いてこないのだ。
夏実は起き上がるのを一旦、諦めて天井を見上げる。やけに天井が高く見える。そしてやけに自分の存在が小さく思える。
あぁ、駄目だ。全てが厭に思えてくる。あらゆるものを投げ出してこの世界から消えてしまいたい。そんな気持ちになってくる。
自分はどうして生きているのだろう。どうして生きなくてはいけないのだろう。
そんな疑問が湧き上がる。
それを考えたところで仕方がない、これからどう生きるかを考えなくてはいけない。
頭の中では分かっている。でも考えるのをやめることができない。
そこで夏実はふと思い出す。今ここはおばあちゃんの家なのだ。
ここではやらなければいけないことは何もない。私は今だけは自由なのだ。
何もしなくてもいい、ただ気の向くままに寝ていればいい。
私が何をしたところで、誰も困らないのだ。
そう考えると夏実は少しだけ安心する。そしてなぜか涙が出そうになる。
天井がはるか遠くに感じることも、すぐ目の前にあるかのような圧迫感を抱くことも、気がつくと無くなっている。
私はただここにいる。ここには孤独も恐怖も存在しない。
夏実はようやく起き上がる。体を起こすのに一苦労するけれど、それでも何とか布団を出る。そして全身の関節を伸ばす。
目を覚ますといつも体が重くて、全身が金属のように固まっているような感覚がある。それが目覚めの夏実をいつも憂鬱にするけれど、それを振り払うように伸びをする。
夏実は部屋を出ると洗面所に向かう。水で顔を洗った後、自分の顔を鏡に映す。ひどい顔だと自分で思う。やつれたような生気のない顔。それでいて深みのない未熟な顔。
夏実はひそかに冷笑を浮かべる。私はなんて情けないやつなんだろう。夏実はもう一度だけ顔を洗う。自分の中にあるネガティブな感情を洗い流すかのように。
顔を洗うと夏実はトイレに行く。そこで用を足しながら、下半身が何だか落ち着かないことに気づく。まったく、またいつものあれか。
夏実は恋愛感情として異性に対する性欲を感じたことがないけれど、その代わりに生理現象として下半身が疼き、普段は満たされない刺激を求めることがある。
恋愛感情がない分、体は何らかの形で代償行為を求めるらしい。
しょうがないなと思いながら自分の性器に触れる。まだ湿ってはいないけれど、すでに硬く盛り上がっていることが分かる。
夏実はこっそりと性器に刺激を与える。次第に体が熱くなり、呼吸が荒くなっていく。全身に汗がまとわりつく。体が溶けていくような感覚になる。
そして突然、全身を快感が貫く。それは夏実にとって奇妙な感覚だった。
心は何も満たされないけれど、体の重しだけが振り落とされるような感覚。
それは夏実に快感とともに新たな憂鬱を残していく。
夏実は小さくため息をつく。私は何をやっているんだろう。
夏実はトイレを出て、再び洗面所に向かう。そして着ているTシャツと短パンを脱ぐ。
汗をかいた全身を鏡に映してみる。貧相な体だと改めて思う。
気持ちを切り替えるように両手で顔を叩く。そして、夏実はシャワーを浴びる。それが寝起きの習慣になっている。
シャワーを浴びて全身の汗とともに憂鬱を洗い流していく。
私が憂鬱になる理由なんてないじゃないか。
ここはおばあちゃんの家で、私がやるべきことは何もない。ここにあるのは気楽な平和だけだ。憂鬱になる理由なんて本当に何もないはずなのだ。
自慰と憂鬱のせいで火照った体を石鹸で洗っていく。体の垢を落とすように自分の身にまとわりつく余計なものを洗い落としていく。
自分の青白い肌を石鹸の泡が滑らかに流れていく。その優しい感覚を夏実は楽しむ。私は憂鬱でない私に生まれ変わるのだ。今日という一日を気楽に過ごすために。
やがて夏実は風呂から上がり、柔らかなバスタオルで全身を拭いていく。
湿気とともに自分の憂鬱を取り除くように。
大丈夫だ、私は憂鬱にとらわれない平然とした私になることができる。
そう言い聞かせながら全身を拭いていき、改めて鏡に自分の裸を映してみる。
さっきよりも悪くないかもしれないと思う。夏実はそう思うことのできた自分に一安心する。
体を拭き終わった夏実は服を着る。今日もTシャツと短パンであることに変わりはない。この格好がいちばん過ごしやすいのだから仕方がない。
祖母が洗ってくれた服はいい匂いがして着心地が良かった。
着替えが終わると夏実は居間に向かう。そういえばお腹が空いていることに気がつく。今日もおいしい昼ごはんを食べる。そのことを考えるとお腹がつい鳴ってしまう。
今日はどんな昼ごはんを作ってくれるのだろう。夏実はワクワクしながら居間のドアを開ける。そこで夏実は驚いてしまう。居間にはなぜか颯汰がいた。
颯汰は居間のソファに座ってごはんを食べていた。トーストとベーコンエッグがそこにあった。どうして颯汰がいるのだろう? そこで颯汰が夏実に言った。
「遅えよ。何時だと思ってんだよ」
「う、うるさいな。休みなんだから何時に起きたって別にいいでしょう。というか、何であんたがここにいるのよ」
「見ての通りメシ食ってんだよ。おばあちゃんの料理うまいからな。こうやってよく食べさせてもらうんだよ」
「あ、そう。食事が済んだらさっさと帰りなさいよ」
夏実は自分だけの祖母が取られてしまうようで悔しかった。颯汰は得意そうな顔で言う。
「やだね。しばらくここに居させてもらうよ」
夏実は不服そうに顔を膨らませながら颯汰の隣に座る。祖母の秋恵がおはようと言って昼ごはんを出してくれる。トーストとベーコンエッグがおいしそうに湯気を上げる。
夏実はトーストにベーコンエッグをのせて一口目を頬張る。おいしさが口の中に広がり、夏実はつい表情が緩むことになる。そこで颯汰が言う。
「なんだこの人。機嫌が悪いかと思ったらいきなり笑ってやがる」
「うるさいな。おいしいんだから仕方ないでしょう」
「まあいいや。ところで夏実は料理とかしないの?」
「なっ! り、料理はできるけどしないの。別にできない訳じゃないから」
「本当に? 怪しいな。本当は全然できないんじゃないの?」
颯汰は意地悪そうな顔で言う。夏実は顔を真っ赤にして言い返す。
「うるさいな。別にいいじゃない。それに料理ができなくても困らないから」
「あ、そう。まあそう言うことにしておいてやるよ」
颯汰は鼻で笑いながらそう言う。夏実は悔しさを噛みしめながら俯いてしまう。
夏実は本当のところは料理ができないことにコンプレックスを抱えていた。だからこそ颯汰に指摘されたのが悔しかったのだ。
それにコンプレックスを抱えているのは料理だけじゃない。夏実は日常生活のあらゆる場面にコンプレックスを抱えていた。
夏実は自分のことをまともに日常生活を送ることのできない人間だと思っていた。
まともにできないのは料理だけじゃない。整理整頓ができないから家の中は足の踏み場がなくなってくるし、洗濯物は溜まっていく一方だった。
どうして私は当たり前のことができないのだろう。それは何も家事だけじゃない。
人間関係の構築もまともにできない。心を許せる友達がいないまま、私はここまで来てしまった。ひたすら孤独なだけの毎日。
それを思うと自分のことがひどく惨めに思えてくる。
みんなはどうしているんだろう。どうやってみんなは当たり前のことを当たり前のようにこなしているんだろう。
せめてそのやり方を教えてくれたら、私は変われるかもしれないのに。
いや、違うんだろうな。やり方を知らないのが理由じゃない。もっと根本的に人としての出来が良くないから、私だけが何をしてもうまくいかないのだろう。
私は自分のことを何もできない欠陥人間だと思う。
誰かがそうじゃないと言うかもしれない。でもその思いは簡単に拭えるものじゃない。それは魂に根付いてしまったものだ。
自分のまわりを見渡しても、その思いを裏付けるものしか見つからない。
私はたぶん変わるためのきっかけが欲しいのだと思う。自分を根本から揺るがすほどの大きなきっかけがなければ私は変われない。私はそう思っているところがある。
でも、そんなものどこにあるのだろう。
と言うより、きっかけを待っている時点でダメなんだろうなと思う。私はきっと主体性を持たなければならない。でも、それはどうすれば持てるようになるのだろう。
今までに繰り返してきた失敗体験が、私の中に負け犬根性を植え付けてしまった。お前なんてどうせ何をしてもダメなのだ。そんな心の声が自分の中にこだましてしまう。
私はどうすればいいのだろう。どうやって生きていけばいいのだろう。
そこで夏実はふと思い至る。またいつの間にかネガティブな思考に絡め取られていた。
今は憂鬱になるような時ではない。なにしろ私はおいしいごはんを食べているところなのだ。目の前の幸せに集中しなければならない。
夏実はトーストとベーコンエッグを食べ進める。「おいしい」と改めて言葉を漏らす。「おいしいだろう」と颯汰が言う。颯汰は優しい笑顔でこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫か、夏実。何だか暗い顔をしていたから。俺ちょっと言いすぎたかもしれない。本当にごめん」颯汰は真剣な表情になり、頭を下げて私に謝ってくれる。
「ううん。大丈夫。私の方こそ余計な気を使わせてごめんね」夏実は慌ててそう言った。
私は年下の男の子に謝らせてしまったことを申し訳ないと思う。
これは私の心の弱さが問題なのだ。颯汰は何も悪くない。
ただ楽しいコミュニケーションを取ろうとしてくれただけだ。
些細なことに反応して自分の憂鬱に落ちてしまう私の方に問題があるのだ。
私は気持ちを切り替えなければならない。颯汰がいる前で自分の憂鬱を引きずる訳にはいかない。
そう思って夏実はゆっくりと息を吐く。そして両手で頬を叩くと夏実は言った。
「よし、これから一緒にゲームをしようか」
「オッケー、そうしよう」と颯汰は言う。「悪いけど今日も負けないからな」




