第2章 絶望の向こう側 ②
田中寛子は死のうとしている男に声をかけた。彼女は三十五歳の未亡人だった。
彼女は男のことが許せなかった。命を粗末にする行動が許せなかった。
そう思ったのは、彼女が夫を亡くしていたからだった。
夫は生きたくても生きることができなかった。それなのに自分から死のうとするなんて、あまりにも虫が良すぎると彼女は思った。
だから彼女は声をかけた。彼女は義憤に駆られていた。
彼女がそうなるのは珍しいことだった。普段の彼女は、むしろ周囲の人々に気を遣い、できるだけ平和主義でやり過ごそうとする性格だった。
彼女は自分のとった行動に驚いた。
まさか知らない人に声をかけて、自殺を思い止まらせようとするなんて。
でも、彼女の怒りは本物だった。命を粗末にすることが許せなかった。それは突発的な怒りではなく、継続的な信念による義憤だった。
彼女は所属している宗教団体の集会からの帰りだった。とは言っても彼女はその宗教を心から信じている訳ではなかった。ただ自分にとっての居場所が欲しかっただけだ。
集会では信者たちが教義についての難しい議論をしていた。正直、彼女にとってはどうでもいい話だった。ただ退屈に思って話を聞き流していただけだ。議論の途中で欠伸さえ出そうになる始末だった。
そして彼女のように、宗教的な議論に興味のない信者はたくさんいた。彼らにとっては体感としての救いがあれば十分だった。あるいは彼女のように、ただ居場所があれば満足だという人たちも少なくなかった。
集会からの帰り道、彼女は疲労が溜まっていた。興味のない学問的な宗教議論を長々と聞かされたからだった。壇上の人たちは自分たちの議論に夢中になって、途中から聴衆のことを明らかに置き去りにしていた。
「今日の話はやけに長かったね」彼女は帰り際に友人たちとそう愚痴を言い合った。
彼女にとって教義なんかはどうでも良かった。ただそこにいる人たちが好きだったのだ。彼女は教団の中にたくさんの友人がいた。彼女が入信していた理由はそれだけだった。
彼女は震災で夫を亡くしていた。それは彼女にとってあまりにも理不尽な出来事だった。
夫と結婚して十年が経っていた。そして二人には五歳の大切な息子がいた。彼女は自分にとって命よりも大切な存在を、二人同時に失ってしまった。
そんな失意のどん底にいた彼女に唯一、手を差し伸べてくれたのが彼らだったのだ。
彼女が夫と出会ったのは高校生の頃だった。二人は高校三年間ずっと同じクラスにいた。それは二人にとってまるで運命の出会いだった。彼女は心からそう思った。
入学式の日、夫の方から彼女に話しかけてきた。彼女は中学校の知り合いが少ない慣れない環境で緊張していた。そんな彼女の緊張を解きほぐしてくれたのが夫だった。
夫は同じ高校に進学した友達がたくさんいた。そして住んでいた家も高校の近くだったから、いろんな事情に詳しかった。夫はいろんなことを優しく、時には笑い話を入れながら教えてくれた。
彼女はそんな夫の気遣いにとても助けられた。もし夫がいなかったら、彼女は高校生活に馴染むまでに、かなりの時間が掛かっていたかもしれない。
そうして二人は仲良くなった。休み時間になると一緒に過ごすことも多かった。そんな二人が恋仲になるのに、さして時間は掛からなかった。
高校一年生の夏の放課後、夫は彼女を学校の屋上に呼び出した。
「俺と付き合ってください!」
夫は緊張して声が震えていた。その緊張が彼女にとってはむしろ愛おしく思えた。
「こんな私ですが、よろしくお願いします」彼女は迷わず返事した。
彼女がそう言うと、夫は本当に嬉しそうな笑顔になった。
「ありがとう! とても嬉しいよ!」
興奮を抑えられずに心から喜んでいる夫が、彼女にはとても可愛らしく見えた。
二人は高校三年間を同じクラスで過ごし、都内の同じ私立大学に進学した。そして大学を卒業するタイミングで、二人は結婚することになった。
夫はある日、二人で家の近所の公園を散歩していた時、彼女に言った。
「僕と結婚してください」
夫は彼女の目をまっすぐに見てそう言ってくれた。
彼女の返事は言われる前から決まっていた。
「はい。よろしくお願いします」
夫は緊張が取れたように笑顔になって、彼女の返事を喜んでくれた。
「やった! 寛子が俺の奥さんになってくれる! 寛子のこと一生大切にするからね!」
夫がそう言って喜んでいる無邪気な姿を見て、彼女は人生で一番の幸せを噛み締めた。
そして二人は結婚した。二人で話し合って、結婚式は身内だけで執り行った。
その代わりに二人は、一週間の新婚旅行に出かけた。何よりも二人だけの時間を大切にしたい。それが二人の意志だった。
二人は一週間で北海道を一周した。飛行機と鉄道を駆使して北海道を飛び回った。
夏の札幌は意外と暑くて熱中症になりかけたけれど、それすらも二人には楽しい思い出になった。
富良野のラベンダー畑は、二人を祝福してくれているようで本当に綺麗な眺めだった。
二人で宗谷岬の日本最北端に立った時、自分たちならどこまでも一緒にやっていけると幸せな気持ちになった。
結婚してからの二人は、自他ともに認める幸せな毎日を送っていた。でもただ一つだけ二人には気掛かりが生まれた。子供がなかなか授からなかったのだ。
結婚して二年が経った時、二人は話し合って不妊治療を始めることになった。
しかし、その不妊治療はなかなか芽を出さなかった。それが二人の間に亀裂を生むことはなかったけれど、彼女は次第に苦悩を深めていくことになった。
病院の検査では、夫にも彼女にも明らかな原因は見つからなかった。でも、だからこそ彼女は、日頃の行いが何か悪影響を及ぼしたのではないかと自分を責めた。
それでも彼女が不妊治療を進めることができたのは、やはり夫のおかげだった。
夫は彼女の落ち込みに気づいていた。そしていつでも彼女が弱音を吐けるように待っていてくれたのだ。
彼女が夫に自分の思いをぶつけた時、夫は彼女以上に悩み苦しんでくれた。
時には涙を流して悲しむ、大げさとも言えるくらいの夫の姿が、彼女の沈んだ気持ちを楽にしてくれた。
夫が自分と一緒に闘ってくれていることを実感できて、彼女はとても嬉しかった。
そして、苦節三年を経てようやく不妊治療は実を結んだ。二十代の後半になって、二人は子供を授かることができたのだった。生まれたのは元気な男の子だった。
息子は順調に成長していった。
その成長を見守ることが、彼女にとっては何よりの喜びだった。
息子はとても元気な子だった。元気すぎてこちらが冷や汗をかくような思いをすることもたくさんあった。
でもその一つ一つが彼女にとって、そして夫にとっても大切な思い出となった。
息子は思いやりの深いとても優しい子だったけれど、一方で無鉄砲なところがあった。
木登りをして降りられなくなったり、時計を分解してしまったり、家中に落書きをしてしまったりした。
そしてその度に、自分がしてしまったことを認識して泣いてしまうのだった。こちらが気づく前に泣いてしまうので、怒るに怒れないこともよくあった。
その一つ一つの出来事が、今となってはとても懐かしく思える。そしてその日々はもう二度と戻ってこないものだった。
夫と息子はもう二度と彼女に笑顔を見せてくれることはない。家族旅行に出かけた先で、二人は地震に巻き込まれ、帰らぬ人となったのだ。
息子が五歳になった時、とある海沿いの地方に家族旅行に出かけた。海に面した旅館に泊まり、砂浜で遊んだり、美味しい料理に舌鼓を打ったりした。
それはとても楽しい家族旅行だった。息子はいつも以上に楽しそうに遊び回っていた。その様子を見て夫婦は嬉しい気持ちになった。
そして楽しい気持ちのまま、家族旅行は終わるはずだった。
最終日の朝、彼女は眠ったままの家族を置いて町に出かけた。良い散歩スポットがあると聞いていたからだった。
彼女は家族を誘ったけれど、早起きするのがつらいからと二人には断られた。それで、彼女は一人で出かけたのだった。
彼女が散歩している途中で地面が大きく揺れた。それは自力では立っていられない程の強い地震だった。彼女はしばらく地面にうずくまってやり過ごした。
やがて町中に大きなサイレンがなった。そして市役所の職員がマイク越しに呼びかけた。
「津波警報が発令されました。皆さんすぐに高台に逃げてください」
彼女は旅館に戻って家族と合流しようかと考えた。しかし行き違いになるかもしれないと思い、自分一人で高台に逃げることにした。
この選択が正しかったのかどうか、今でも彼女は自問自答してしまう。
あの時、家族を起こしに旅館に戻っていたら、家族は助かったのではないか。
一方で、もしかしたら彼女自身が津波に巻き込まれて、家族全員が死んでいた可能性もある。何が正解なのかはいくら考えたところで分からない。
ただ一つだけ確かなことは、その震災で彼女が家族を失ったということだ。
彼女は高台で家族が来るのを待っていた。電話で連絡を取ろうとしても繋がらなかった。
彼女は気が気ではなかった。悪い予感ばかりが彼女を襲った。予感が外れてくれることを彼女は祈っていた。
しかし実際には、最悪の結果が彼女を待っていた。
家族とはいつまで経っても連絡が取れなかった。自分の周囲にいる人たちが皆、家族と再会していく中で、彼女だけがたった一人で取り残されていた。
彼女は高台で何日も避難していたが、状況は何も変わらなかった。彼女は涙を流すことすらできなかった。彼女の中で現実というものがなかなか像を結ばなかった。
やがて高台には次々と死体が運び込まれるようになった。彼女はそのエリアには近づかないようにしていた。そちらに行くことで現実が決定されてしまうような気がしたからだ。
彼女は家族からの連絡をずっと待っていた。あるいは家族が出し抜けに避難所に現れるのを待っていた。でもその日はいつまで経っても来なかった。
ある日、彼女は避難所でぼんやりと天井のしみを見ていた。そこで彼女は避難所の職員に呼び止められた。
「あの、田中寛子さんでしょうか?」
「はい、そうですが……」
「〇〇さんと〇〇くんはご家族でしょうか?」
「そうです、私の家族です」
「あなたに見ていただきたいものがあります」
そこで彼女が見せられたのは一つの汚れた財布だった。その汚れきった財布は、しかし彼女にはとても見覚えがあった。夫が持っていた財布とよく似ていた。その財布の中には免許証が入っていた。それは財布の持ち主が夫であることを伝えていた。
そしてその財布はある一人の遺体のポケットに入っていたものだった。
その遺体の前に彼女は連れてこられた。遺体は損傷が激しかったけれど、彼女が見ると間違いなくそれは夫だった。
そしてその遺体の隣には一人の男の子が並べられていた。彼女が息子の遺体を見間違うはずはなかった。彼女はその場に崩れ落ちた。何も考えることができなかった。
彼女は遺体と共に家に帰り、そして二人分の葬式を執り行った。
葬式が終わるまでの間、彼女は忙しくて何も考える暇がなかった。色んな人がお悔やみの言葉を言ってくれたが、彼女はそれらの言葉を心から受け止めることができなかった。
やがて、二人の死に関わる諸々の手続きが終わり、忙しさが一段落を見せたところで、彼女は自宅に引きこもった。家族の死と一人きりで、静かに向き合いたかったからだ。
彼女はいまだに悲しむことができずにいた。家族の死が彼女にとってあまりにも衝撃的だったため、現実感を持って受け止めることができずにいたからだった。
彼女は毎日、家族の遺骨と向き合った。そして家族の死を受け止めようとした。
しかし彼女の目に見える世界は全てが灰色で、あらゆるものが作り物のように見えた。
彼女にとっては全てが虚像であり、現実に像を結べるものは彼女の周りには何一つとして存在しなかった。
彼女はひたすら虚無の毎日を送った。まるで彼女の現実の世界はすでに終わりを迎えたかのようだった。
ある日、彼女は自分の身だしなみに気を遣わないまま、ボロボロの姿で町に出た。家に引きこもっているのが息苦しく感じた彼女は、思いつきで外に出たのだ。
そこで彼女はある人に声をかけられた。その女性は自分のことをある宗教団体の人間だと語った。
宗教には全く興味がなかったけれど、うまく物事を考えられる状態になかった彼女は、言われるがままに声をかけてきた女性についていった。
彼女がたどり着いた先は、その宗教団体の一部が開いた小さな集会だった。そこで人々は自分の悩みを語り合った。
その場のルールはただ一つ。誰かが話している時には他の人たちは口を挟まないこと。ただひたすら他者の話に耳を傾けることがルールだった。
そこで彼女は促されるままに身の上話をした。他者に話しているうちに彼女は、自分に起きたことを客観視できるようになった。
そして気がつくと彼女はようやく涙を流すことができた。その場にいた聴衆もみんなが彼女の話に涙を流した。
彼女は誘われた集会で自分の身に起きた出来事を語ることで、ようやく家族の死を現実のものとして受容することができたのだった。
そのために彼女は教団に深く感謝することになった。
正確には、集会に参加していた人たちに対する感謝だったけれど。
そうして彼女はその宗教団体に参加することになった。結婚してからずっと専業主婦をしていた彼女は、食べていくために教団の事務仕事をするようになった。
やがて彼女は、その仕事を熱心にこなすようになっていた。そこには、彼女なりの教団への感謝があった。
宗教の中身は彼女にとってどうでも良かった。ただ自分をどん底から救ってくれた感謝の思いだけが彼女を突き動かしていた。
彼女は事務仕事の熱心さが認められて、やがて勧誘の仕事もこなすようになった。彼女はそこでも成果を出した。
宗教色に染まっていない彼女が説く、純粋な魂の救済は、聞く人の心を素直に打つようだった。
彼女はがむしゃらに働くことで家族の死の悲しみを忘れることができた。
そして周りの信者たちは、家族を失った彼女のことを一所懸命に支えてくれた。
そんな彼らの優しさが彼女の身にしみた。彼女はこの先の残された人生を、彼らに報いるために生きていこうと思うようになった。




