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第2章 絶望の向こう側 ①

 鈴木哲郎は死に場所を求めて彷徨っていた。四十歳の彼は人生に絶望していた。

 彼は思う。既に私はあらゆるものを失った。もはや失うものなど何もない程に。そして未来にも何もない。私に残されたのは虚無だけだ。

 彼はひたすら夜の街を歩いていく。頭の中はぼんやりとしている。疲弊しきった彼の頭はもはや何も考えられなくなっている。ただ一つのこと以外には。

 死にたい。彼の頭の中にはただその思いだけがある。

 彼は夜の街を歩いていく。街のネオンが眩しい。その眩しさが彼に頭痛をもたらす。

 世の中にはさまざまな人間が活動している。その活動に従って街は眩しくなっていく。数え切れないほどの人間のうねるような活動。想像すると目眩がする。

 あぁ、世の中はなんと巨大なのだろう。そして私はなんと小さい存在なのだろう。私のあまりの矮小さと醜さに反吐が出る。

 やはり私は、跡形もなく消えてしまいたい。死んでこの世界から退場してしまいたい。その先にしか、私の安寧は存在しないのだ。

 彼はそう確信する。そして彼は夜の街を彷徨う。時折、彼は人にぶつかる。焼け切れた頭では、周囲の状況を適切に把握することができなくなっている。

 私はどこにいるのだろう。どこで何をしているのだろう。誰かが彼に言う。

「何ぶつかってるんだよ、おじさん」

 彼はその言葉を意味として理解することができない。彼の手から言葉の意味がすり抜けていく。言葉の意味をうまく捉えることができない。

 そして彼は殴られる。頬をするどい痛みが走る。視界が歪み、彼はふらついて倒れる。倒れた彼の脇腹に重い衝撃が走る。彼は脇腹を何度も蹴り上げられる。

 痛くて苦しい。でも涙も叫び声も出てこない。まあ、いいか。もうどうにでもなれ。

 彼は全てを諦める。そして全身を脱力する。抵抗することなくなすがままにされる。

「なんだこいつ。気持ち悪い」そんな声が聞こえてくる。

 どうやら私は罵倒され、気味悪がられている。そうだ、それでいいのだ。私をもっと見下してくれ。私をもっとめちゃくちゃにしてくれ。

 それでこそ、本来の私なのだ。それでこそ、ありのままの私なのだ。そう、それでいい。私をボロ雑巾のように捨て置くのだ。そうして私は元の私に戻るのだ。

 やがて彼はたった一人で路上に伏している。周囲を人が避けていく。

 ああ、それでこそ私なのだ。心地のよい羞恥心と絶望が私の心を満たしていく。もはや涙も出ない。そうして私は朽ち果てるのだ。そこで、誰かが彼に声をかける。

「おじさん、そんなところで寝ていたらダメだよ」

 どうやら声をかけたのは警察官らしい。

「すみません」そう言って彼は起き上がる。

「あんた、大丈夫?」心配する警察官の声を背に、彼は再び歩いていく。

 ここはどこだろう。私はどこにいるのだろう。

 やがて彼は見覚えのない場所に出る。頭が働かなくて思い出せないのではなく、本当に知らない場所のようだ。街のネオンが眩しい。無数の人間の往来と地響きに目眩がする。

 彼は訳もわからず歩いていく。ある場所で彼は座り込んでしまう。駅前の公園のような場所。そこにある古いベンチに彼は座り込む。気がつくと体力が尽きている。しばらくは歩けそうにない。

「おじさん何してるの?」若い女の子が声をかける。

 見上げると彼女はセーラー服を着ている。

 そうか、女子高生か。私の娘と同い年くらいだろうか。彼はつい視界がにじむ。きっと私はもう娘と会うこともないのだろう。それが私の選んだ未来だとしても、やはり寂しくてつらいことだ。彼は思う。

「ねえ、おじさん。聞いてる?」女子高生が彼に声をかける。

 気がつくと彼は自分の世界に入っていた。それは自分の悪癖だと思う。

「すまない。何だろう?」彼は女子高生に聞き返す。

「なんだか具合が悪そうだからさ。大丈夫? おじさん」

 女子高生はどうやら私のことを心配してくれているようだ。彼はようやく認識する。

「大丈夫だよ。ちょっと疲れているだけだ」彼は答える。

「そう? なら別にいいんだけど。というかおじさん、怪我してない? ほっぺたから血が出てるよ。痛そう……本当に大丈夫?」

「ありがとう。大丈夫だよ」彼は答える。

 次第に目の前が涙で滲んでいく。何故だろう。そうか。久しぶりに他人に優しくされて泣きそうになっているのか。なんと情けない。そんなことで涙が出てくるなんて。

 彼は思わず目を背けて、俯いてしまう。

「大丈夫だよ。家に帰ったら家族に手当してもらうから」

 彼は嘘をつく。女子高生に余計な心配をさせたくなかったからだ。

「そう? じゃあ気をつけておうちに帰ってね」心配そうな表情で女子高生は言う。

 そして「じゃあね!」と笑顔になって手を振りながら、彼女はその場を去っていく。

 彼は娘のことを思い出す。娘が時折見せてくれた笑顔のことを思い出す。その笑顔は彼が世界で一番好きなものだった。生きる支えだと言っても過言ではなかった。

 その笑顔を私は失ったのだ。それもおそらく永遠に。その事実が彼を絶望させる。もしその笑顔を再び見ることが叶うなら、私は何を差し出しても惜しくはないだろう。例えば自分の命を投げ打っても、私はその笑顔を見たいと思う。

 でもそれは絶対に叶わない。何を差し出したとしても、もう二度と彼はその笑顔を目にすることが出来ない。それが、彼が家族を失うことになったあの日の約束なのだから。

 彼は自己破産したあの日、家族と離別した。妻と離婚して、娘は妻について行った。彼はそうして最後に全てを失った。

 それ以来、彼は孤独になった。それも今まで経験したことのない絶対的な孤独だった。私は本当に全ての絆を失った。彼は荒れ果てた荒野となった周囲を見渡してそう思った。 

 彼は絶望した。生きていても意味がないと思った。そして彼は死にたいと思った。

 去年は今とは全く状況が違っていた。彼は幸せな毎日を送っていた。その頃の娘の笑顔を思い出す。彼女は言った。

「お父さん、第一志望の高校に受かったよ!」

 彼は娘と抱き合い、喜びを心から分かち合った。それは幸せな瞬間だった。今になってしみじみと実感する。もう二度と手に入れることの叶わない幸せ。だからこそ、彼は思い出して涙が出そうになるのだった。

 娘は一所懸命に受験勉強を頑張っていた。それを彼は陰ながらずっと応援していた。人知れず娘が涙を流していたことも知っている。だからこそ娘が合格したと知った時、彼は涙を流して喜んだ。娘が照れくさそうになるくらい。

 でもそんな日々は全て過去のものだ。決して二度と手にすることの叶わない幸せ。彼は身を切られるような痛切な悲しみを感じる。

 私は娘と再び会えるなら、命だって惜しくはない。でもそんな未来は、娘と再会できる未来は二度とない。だからこそ彼は一層に絶望してしまう。

 娘は今どこで何をしているのだろう。幸せに生きているのだろうか。つらい目に遭っていないだろうか。それが彼にとって何にも増して気掛かりだった。

 私は娘を一度、不幸にさせてしまった。だから私は娘の目に触れる資格などない。それでもせめて、娘がどんな日々を送っているのかさえ知ることが出来たら。

 彼は娘の笑顔を思い出して人知れず涙を流していた。それだけが彼の心残りだった。娘の今さえ知ることが出来たら、何も思い残すことなく死ぬことが出来るだろう。そして私がこの世からいなくなることで、皆がようやく本当の意味で幸せになれるのだ。

 彼の脳裏には娘の姿が次から次へと、走馬灯のように思い起こされた。やがて彼は娘が生まれた時の幸せを思い出していた。

 彼はその日、息を切らして一所懸命に走っていた。もうすぐ赤ん坊が生まれるかも知れない。その連絡を受けた彼は、職場から一目散に駆け出していた。

 彼の頭は生まれてくる子どものこと、そして今まさに命を賭して頑張っている妻のことしか考えられなくなっていた。

 彼は病室に駆け込んだ。そこには顔を真っ赤にして必死に息ばんでいる妻がいた。彼は妻のつらそうな様子に思わず目を逸らす。そして目に涙を浮かべながら、妻と子の無事を祈っていた。

 やがて病室には、赤ん坊の元気な泣き声が響く。

 妻は疲れ切りながらも穏やかな表情で、無事に生まれた我が子を見ている。彼はそんな二人を見て、心の底からホッとする。

 無事に生まれてきてくれて本当に良かった。彼は、気がつくと大粒の涙を流していた。そんな彼を見て、妻はとても幸せそうに笑っていた。

 娘はやがて成長していく。その姿を見守るのが彼にとって何よりの幸せだった。

 小さな頃から娘は天真爛漫だった。幼稚園の頃の小さくて可愛い娘を思い出す。

「お父さんにあげる!」と娘は作った折り紙の鶴をくれた。その折り紙を彼は今も大切に持っている。

 彼が妻と出会ったのは大学生の頃だった。彼はいつも一人で過ごし、キャンパスの片隅で本を読んでいるような学生だった。学生時代の彼は孤独だった。

 そんな彼の心に光を照らしてくれたのが後に妻となる女子学生だった。彼女はベンチで本を読んでいる彼に声をかけた。

「ねぇ、何を読んでいるの?」

 その声に彼は驚いてしまった。まさか大学の中で、自分に声をかけてくる人がいるとは思わなかったからだ。

「あ、えっと、太宰治を読んでいるけど……」

 彼はドキドキしながらそう答えた。人見知りと異性への緊張感で彼は言い淀んでしまう。それでも彼女は何事もなく話を続けてくれる。

「すごいね、難しそうな本を読んでいるんだね。どんな本か教えて?」

「えっと、富嶽百景という本で、太宰治の心情を富士山の情景と重ねた短編小説だよ」

「へぇ、面白い? 私も読んでみようかな!」

「僕にとっては面白いよ。ぜひ読んでみたらいいよ」

 そうして二人は文学の話で盛り上がる。というより、妻が自分に話題を合わせてくれたのだと今になって彼は思う。それはとてもありがたいことだと思う。

 おかげで二人は仲良くなり、私は孤独を抜け出すことができた。妻に出会えたことが私の人生のただ一つの光だったのだ。彼は再び孤独になってそのことを実感する。

 私にとっては妻と娘が人生の灯台だった。彼女たちがいるからこそ私は生きている意味があった。それは私にとってこれ以上ない幸福だったと思う。

 しかし、私はその幸福を自らの手で壊してしまった。彼は、駅前のベンチに一人で座りながらそう思った。

 彼は大学を卒業した後、しばらく出版社に勤めていた。それは彼にとって天職のような仕事だった。出版物を校正する仕事。彼は毎日、働くのがとても楽しかった。

 しかし結婚してから数年後、彼が三十代半ばの時に父親が死んだ。父親はネジ作りの町工場を営んでいたが、脳卒中で倒れて体調を崩し、そのまま死んでしまったのだった。

 父親が遺した町工場を誰かが継ぐ必要があった。それで彼は好きだった仕事を辞めて、父親の跡を継ぐことになった。

 彼は慣れない町工場の仕事を一所懸命に頑張った。おかげで町工場は潰れることなく、しばらくは経営を続けることができた。

 しかし彼は次第に欲を抑えられなくなった。事業を拡大したい、成功したいという思いに駆られるようになった。

 彼は借金をして新規事業に取り組んだ。しかし元々が慣れない仕事のはずだった。彼はそのことを失念していた。町工場の経営は崩れ出した。

 町工場はやがて倒産した。借金を払うために、友人たちから借金をした。従業員たちの退職金も払わなくてはならなかった。そのために彼は借金を重ねた。借金が更なる借金を生んだ。そして彼は金銭管理に行き詰まり、最終的には自己破産することになった。

 彼の元から友人たちは去り、そして彼は自分の家族も失った。家族に貧困の累を及ぼさないために、彼は家族と離別することを決断した。

 妻はすんなりとその決断を受け入れた。妻は離婚して彼の元から去った。大切な一人娘は妻のところについて行った。

 彼は家族も友人もあらゆる絆を失い、圧倒的な孤独に支配された。

 やがて彼は死にたい気持ちに囚われるようになった。そして彼は深い憂鬱の底に佇んで、身の凍るような孤独を抱えながら駅前のベンチに座っている。彼は虚ろな目をしていた。

 彼は絶望に沈んでいた。もはや生きていく意味を見出すことは出来なかった。

 未来には孤独しかない。自分はたった一人で死んでいく。それだけが自分に残された道なのだ。彼は心からそう思っていた。

 この先、私が死ぬまでに果たして何があるというのか。何もない。ただ無数の思い出が私を襲い、苦しめるだけだ。であれば、今ここで私が死んでしまっても、何も変わらないではないか。そう考えながら、彼は死に場所を求めて夜の街を見つめていた。

 やがて彼は目撃する。最初、彼は幻影を見ているのではないかと思った。しかし、目を凝らしてみてもそれは幻影ではなかった。気がつくと彼の頬には涙が伝っていた。

 視線の先の人混みの中に、彼の大切な一人娘がいた。

 彼女は制服を着て、友達と楽しそうに笑いながら歩いていた。

 今までの彼はずっと思い込んでいた。自分のせいで妻と娘を不幸にしてしまったのではないか。しかし目の前にしている娘はとても幸せそうだった。そこに不幸の香りは微塵もなかった。彼はとても安心した。これで思い残すことはない。彼はそう思った。

 彼は死ぬことにした。娘の笑顔を脳裏に刻みながら、幸せな気持ちで死んでいく。今が絶好の機会だと思った。幸せな気持ちで死ぬことのできる、これが人生で最後の機会だと彼は思った。彼は死に場所を探して、再び夜の街を彷徨った。

 彼はやがて街のはずれの歩道橋に辿り着いた。ここから飛び降りて死のうと彼は思った。彼は橋の欄干に手をかけた。そして地面から体を浮かした。後はその足を高く持ち上げるだけで良かった。しかし飛び降りようとした時、誰かが彼を呼び止めた。

 その誰かは見知らぬ中年女性だった。彼女は怒りながら言った。

「何をしているんですか? 絶対に死なないでください!」

 彼はそうして死ぬのをやめた。しかし彼はその言葉を受け入れた訳ではなかった。ただここで彼女と言い争いになるのが煩わしいだけだった。彼は別の場所で死のうと思った。

 でもそれをどうやら彼女は許してくれないようだった。

 彼女はさまよい歩く彼にどこまでもついてきた。

「何ですか?」と彼は苛立たしい気持ちで尋ねた。彼女は言った。

「あなたはまだ死ぬつもりでいますよね。それを私は許すことができないんです」

「どうして? あなたには関係ないでしょう」

「えぇ、関係はありません。でも私は嫌いなのです。せっかくの命を粗末にする人間が」

「そう、それは悪かった……」彼は不意に立ち止まってそう言った。

 彼女の叱責が、彼から「死にたい」という気持ちすら失わせることになった。

 彼は自分のことがいよいよ恥ずかしく思えた。私はなんと情けない人間なのだろう。

 自殺という方法すら、もはや自分には許されないように思えた。自分なんかが選択することなど許されない、あまりにも崇高な手段だと。

 たかが現実逃避のためだけに、簡単に許される方法ではない。

 彼はいよいよ自分のことが醜く思えた。もう、どうにでもなれと彼は思った。

 私には何かを選択する権利などない。自殺を含めて、私にはもはや何かを選び取る権利などないのだ。

 やがて彼は、自分を呼び止めたこの中年女性を介して、不思議な世界に誘われることになる。それは彼にとって未知の世界だった。

 彼女はとある新興宗教に入信していた。

 彼は言われるがままにその世界に足を踏み入れた。彼は初めから何も信じていなかった。ただ、どうにでもなれと彼は思った。

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